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長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎①

文学と神楽坂

長田幹彦氏

 長田幹彦氏の『文豪の素顔』(要書房、昭和28年)で有島武郎の卷です。長田氏の生まれは明治20年で、北海道に渡ったのは、おそらく明治42年ごろ。2年間位、北海道にいて、帰った後の明治45年に発表した小説「みお」で有名になりました。

 有島武郎氏の生まれは明治11年。北海道で以下の出来事が起こったのは明治42年だとすると、長田幹彦氏は22歳、有島武郎氏は31歳でした。

 ひよいとみると、窓に近いテーブルには、農科大学の制服をきた青年が十人ばかり腰をかけて、しきりにわいわい騒いでゐる。昔の札幌農学校が大学と改称したばつかりの時代のことであるから、学生の風もまるで一高の学生のやうに素朴そのものであつた。
 その正面のところに、先生らしい三十がらみの男が、これはハイカラなの背広をきて、片手で顎へつッかい捧をしながらにこにこ笑つてゐる。どつちかといふと痩せぎすの、短い口鬚のはえた、理性の勝つたやうな、それでゐてちょいと不敵なところもあるやうな顔つきの男であつた。何にしろスッキリした背広の着つきがばかに眼にたつた

札幌農学校 北海道大学の前身。明治5年、東京芝に開拓使仮学校として開校。明治8年、札幌に移転、翌年札幌農学校となる。アメリカのマサチューセッツ農科大学学長ウィリアム・スミス・クラークを教頭として招き、北海道開拓に必要な人材を養成し、内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾ら多くの人材を出した。
 しま。2種以上の色糸を使って織り出した縦や横の筋か、織物。
つっかえ棒 物と物との間に差し挟んで、倒れたり不要に近づいたりしないように支えるための棒
不敵 敵を敵とも思わないこと。大胆でおそれを知らないこと。
着つき 「着付け」と同じか? 「着付け」は着なれていること
目に立つ 人の目を引く。目立つ

      2
 僕は、学生たちのグループが、先生を中心に何か談話会でも開いてゐるのだらうと思つた。カギヤではよくそういつた会合に出ッくはした。僕は別に気にもとめずに、隅の方でぼんやりコーヒーをすすりながら菓子をたべてゐた。とてもストーブが熱つすぎた。
 こつちはたつた一人ッきりである。あんまり所在がないもんだから、ついやつぱり学生たちの話に注意がむく。はじめのうちは何が話題になつてゐるのだか、ちよいとつかめなかつたが、だんだん聞いてゐると、それは米国の詩人ホイットマンのことである。正面に坐つた先生は、眼を生々させながら、英語で詩の一章を、朗吟してきかせる。ずつと暗記してゐるのであらう。抑揚がいかにも自然でよどみがない。発音もアメリカ風である。
 学生たちはだんだん話題をさらはれた形で、制服の両腕をくみ、深刻な顔をして、先生の口のところばかり凝視してゐる。その時の話の内容はむろん記憶してゐないが、かなり調子の高い話しかたであつた。尤もホイットマンであるから、ロマンテイックな、色彩の豊かな感しはしなかつた。われわれは、ベルレーヌや、ユイズマンで熱をあげてゐた時代であるから、そんなアメリカの百姓詩人なんかには少しも関心がなかつた。
 それから偶然にもツルゲネーフゴルキーの話になつて、ロシアの農奴開放問題に及ぶ。先生の口調はますます熱をおぴて、学生たちはワクワクしてゐるらしかつた。能弁ではなかつたが声には幅があつて、魅力があつた。
 一時間ばかりすると、先生はひよいッと立ちあがつて、藪から捧に、
「じや諸君、時間がきたから、今夜はこれで散会しよう。この次の研究題目はマコーレイの『コンペンセーション』、永松君が原書をもつてるからみんなで回読してもらふんだな。尤も図書館にはあるだらうから、誰れか索引を調べてみて下さい。今井君、君がいいだらう。一番マメだから。はゝゝゝゝ。」
 学生たちはどやどやとたちあがつて、みんなポケットに手を突ッ込んで、銅貨や銀貨をかぞへながら会費を払つてゐる。彼らもやつぱり僕同様、三十銭そこいらの割り当てらしかつた。
 学生たちがお互に、がやがやいいながら出ていつてしまふと、先生は何んと思つたか、オーバーへ片手をつッ込みながら、だしぬけにつかつかッと僕のところへやつてきた。例の不敵な眼つきで、
「失礼ですが、あなた長田さんぢやありませんか。」と、声をかける。笑ひもしない。
 僕はあんまり意外だつたので、いささか面食つて、坐つたまま、
「そうです。」と、ぶつきらぼうにこたへる。

カギヤ 長田幹彦氏が少し前の部分でこう書いています。

 三丁目の角のところに、明るい灯のともつたカギヤといふ菓子ホールがある。それは札幌独特の店で、その時分は珍しいショートケーキを焼いて売つてゐた。店の横手がホールになつてゐる。そこでカッフエみたいなサービスもしてゐた。酒は出さなかつたが、焼豆くさい甘いコーヒーを飲ましてくれた。

所在がない 手持ちぶさたである。することがなく退屈だ。
ホイットマン 米国の詩人。Walter Whitman。1819年―1892年。大工を兼業とする農家に生れ、1841年から新聞記者。以後ほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で、ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守った。自由な形式で、強烈な自我意識、民主主義精神、同胞愛、肉体の賛美をうたった。
ベルレーヌ フランスの詩人。Paul Verlaine。1844年―1896年。放蕩無頼の生活の中から不安と憂いを抒情味豊かにうたう。象徴派の始祖。
ユイズマン ジョリス=カルル・ユイスマンス。Joris-Karl Huysmans。1848年―1907年。フランスの19世紀末の作家。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派作家。
ツルゲネーフ ツルゲーネフ。Ivan Sergeevich Turgenev。Ива́н Серге́евич Турге́нев。1818年―1883年。ロシアの小説家。社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。
ゴルキー ゴーリキー。Maksim Gorkiy。Максим Горький。1868年―1936年。ロシア・ソ連の小説家、劇作家、社会活動家。
農奴解放 農民を農奴の地位から解放し、自由民とすること。封建社会から近代社会への転換期に、各国で行われた。
マコーレイ Rose Macaulayでしょうか。不明。
コンペンセーション compensation。償い、賠償、代償

長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎②

有島武郎氏


「あの、僕は、あなたを知つてゐるんですよ。あなた與謝野さんの新詩社のメンバーでせう。『明星』にかいとられたですね。」
と、あんまり好意をもつてゐない、眼の輝きである。
 僕は相手が誰れだか一向に見当がつかないので、もじもじしてゐると、
「僕はね、ここの農大の教師をしてゐるんですが、毎月一回か二回、ここで文学の研究会をやつてゐるんですよ。かう雪が深くなると寂しいもんですからね。」
「さうですか。道理でホイットマンが……」といひかけると、先生は眼だけで笑つて、
「長田さんはどんな詩をお好きなんですか。」
 僕が新詩社のメンバーなら、大がい傾向は知れてゐるだらうに、わざと冷評かすやうにいふのが、かちんときた。今更ベルレーヌなどといふのを業腹なので、僕はいつもの臍曲りを発揮して、
「さあ、僕は口ングフェローがすきですね。」と、そつぽをむくと、先生はこいつといふやうな皮肉な笑ひかたをして、
「たとへば、ロングフェローのどんな詩ですか。」
 僕は言下に、
「僕はルーシー・グレイが一番好きです。アンデルセンの「リットル・マッチ・ガール」みたいに、深い雪のなかでルーシーが凍え死ぬところはいいですね。北海道へきてから、この雪をみて、一層感じが深いです。」
 先生は口鬚をふるはしながら、
「はゝゝゝッ、あなたは、さういふ観方で北海道をみとられるんですか。はゝゝ。」といかにも甘いなといふやうな露骨な軽蔑である。
 僕もその前々年に一度札幌へやつてきて親友の穂積貞三(穂積重遠氏の弟)と二人で、ひと夏農学校の農場で、あの輓馬つきのモウナークローバー刈りをやつた経験があるので、北海道の自然と生産の問題ぐらゐは些少なりと心得てゐた。僕は、しかし、そんなことはおくびにもだしたくなかつた。
 先生は本を包んだ風呂敷包みを小脇にかかへながら、せかせかして、
「長田さん、僕は、実はあなたのゐる家の先隣のT教授の家に仮寓してゐるんですがね。あなたがみえてから、Tの家ぢや非常によろこんでゐるんですよ。あなたが夜おそくまで電燈をつけてかいてをられるでせう。だから物騒でなくて、ほんとにいい。細君なんか安心して寝られるつていつてるんです。あなたは三条界隈じや有名ですよ、はゝゝゝ。」さういひながら先生は帽子をかぶつて、それなり外へ出ていつてしまつた。

明星 明治33(1900)年、新詩社は機関誌「明星」を創刊
冷評かす おそらく「ひやかす」でしょう。「冷やかす」。冷淡な態度で批評すること。
業腹 非常に腹が立つこと。しゃくにさわること
臍曲り へそまがり。ひねくれていて素直でないことや人。偏屈。
ロングフェロー ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー。Henry Wadsworth Longfellow。1807年―1882年。米国の詩人。ヨーロッパ文学をアメリカに紹介し、教授詩人として並々ならぬ名声を確立した。
ルーシー・グレイ Lucy Gray。全文はここに
アンデルセン デンマークの童話作家・小説家・詩人。Hans Christian Andersen。1805年―1875年。小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」などで世界的に有名。
リットル・マッチ・ガール マッチ売りの少女。アンデルセンの童話。1848年発表。大みそかの夜、貧しいマッチ売りの少女が寒さに耐えかねてマッチを擦ると、さまざまな美しい幻が現れる。最後に亡き祖母が現れ、少女を天国へと導く。
穂積重遠 ほづみしげとお。民法学者。穂積陳重のぶしげの子供。東京大学教授、貴族院議員、最高裁判所判事を歴任。生年は明治16年4月11日。没年は昭和26年7月29日。享年は満68歳。
輓馬 ばんば。車やそりを引かせる馬。
モウナー mower。草刈り機、芝刈り機
クローバー シロツメクサの別名。右図を。
仮寓 一時的に住むこと。その家。かりずまい
それなり その状態のまま。そのまま。それきり。

 長田氏はむかむかしますが、宿に戻っています。

「ねえ、小林さん。この先隣りにTつて家ありますか。」と、たうとう口をきつた。主人には黙つてゐようと思つてゐたが、ついやつぱりさつきのことがむしやくしや胸につかへてたらしい。
「え、Tつて、大学の先生のお宅でせう。ありますとも。」
「そこから、僕のかりてゐるこの部屋の灯がめえますかね。」
「そりや夜になりやめえるでせう。尢もかう雪が深くなつちやむりですかな。どうしてですか。」
「いや、別に何んでもないんだが……そのTさんの家には、大学の先生たちが合宿でもしてるんですかね。」
「べつに合宿じやないですがね。ひとりやつぱり若い先生が同居してゐますよ。何んでも東京の大金持の息子さんとかで、長いことヨーロッパやアメリカへ留学してた方で、よく出来る先生なんださうですよ。あなたと同じやうにやつぱり文学をなさる方ださうです。」
「何んていふ名前ですか。」
有島武郎。武郎とかいて、タケオとよむんださうです。」
 僕はそんな名の作家や評論家は一人もしらなかつた。一躰どこの馬の骨なんだらう。じゃきつと奴さんも我々同様、やつぱり文学青年の三下奴なんだな、と、僕はすつかり気をよくしてしまつた。文学青年だけがもつあの一種の反撥である。
「その有島つてのは、大学で何を教へてゐるんですか。」
「私もよくは知りませんが、なんでも予科で英語と、倫理を教へてゐるらしいですね。英語がよく読めるんで、小説でも何んでもペラペラなんださうです。」
「さうですか、倫理でも教へさうな、変に思ひあがつた男ですね。実は、さつきカギヤで逢つたんですよ。あなた、ひよつとしたら、私のことをTさんの家の人にでも話したことありませんか。」
 気のいい、小林さんは頭をかいて、てれたやうに笑ひながら、
「あります。実は、こないだあなたの為替をとりに郵便局へいつたでせう。あの時局でT先生の奥さんに出ッくはしちやつたんですよ。さうしたらね、奥さんがね、お宅じやこの頃、夜半の二時までも、三時までも電燈をつけていらつしやいますねつておつしやるから、私もつい口が滑つちやつて、実は東京からこれこれで、文士の方がみえてるんです。夜どほしかきものをなさるんでつて、うつかりしやべつちやつたんですよ。実はこの為替も、原稿料らしいんで……」と、小林さんはむしろ得意さうな顔つきである。

小林 宿の主人です
三下奴 さんしたやっこ。博打打ちの仲間で、最も下位の者。三下。
夜どほし よどおし。夜通し。夜の間ずうっとすること。一晩中。