新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。
車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。
神楽坂2丁目(昭和48年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。
車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。
神楽坂2丁目(昭和48年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9509は、昭和20年代後半、神楽坂附近を撮ったものです。
道路は左側に行くと少し下っています。歩道はなく、家との間にL字の縁石はありますが側溝はなさそうです。街灯も見当たりません。白いエプロンの女性は半袖で、右側の家は黒塀です。ヒントは昭和20年代に撮影した「川田」です。では「川田」はどこにあったのでしょう。
この時代、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)を使って(簡単ではないですが)家や店舗を探求できます。調べると、3丁目の「旅館 川田」しか浮かんできませんでした。「旅館 川田」の下の道路は神楽坂仲通りで、左の道路は芸者新路です。
では都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和27年)はどう書かれているのでしょうか。残念なことに当時は空地でした。
では「左側に行くと少し下がって」いる、これはどうでしょう? 復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)は……
赤の四角は「旅館 川田」で、青の直線は「神楽坂仲通り」です。「川田」は神楽坂仲通りという小さな山の頂上にありました。
また黒塀については、神楽坂は「粋」な店舗と関係していました。写真の 黒塀は昭和27年、喜泉という芸妓置屋が持っていたものです。
最後に現在の写真です。路地の向こう側の石垣はすっかりなくなり、ビルになっています。
「旅館 川田」は「美空ひばりの育ての親」としても知られるコメディアンの川田晴久(川田義雄)の経営でした。しかし写真には何のキャプションも残されていません。撮影者は「新宿時物語」(2007年)掲載の柳家金語楼の家(正しくはお妾さんの家)と同様に、こっそり有名人ゆかりの場所を狙ったのかも知れません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507は、昭和28年(1953年)以降の神楽坂4~5丁目をねらっています。
歩道はコンクリートブロックで3列。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はなかったようです。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。
紅白幕とのぼり旗「全店 大売出し」、松のような飾りがあり、ID 9495と同時期の撮影でしょう。人々は長袖で、冬服を着ています。正月に門松1対があることから、年末セールの時期と推測できます。
神楽坂4、5丁目(昭和28年以降) | |
|
|