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花埋み|渡辺淳一氏

文学と神楽坂

荻野吟子 (Wikipedia)

 渡辺淳一氏の「はなうずみ」(河出書房新社、昭和45年)です。これは初めての女性医師、荻野おぎの吟子ぎんこの一生を描いたものです。
 なお「花埋み」という言葉は多分ありません。『とみなが屋』では「埋めるという字は、不足しているものを補ったり、平らにする意味。お花と絡めると、埋葬という言葉、死のイメージが浮かびます。華やかな側面だけ見るのではなく、死や老いを含めた生命の美しさ、そして人間の痛みを伴う情景を表現したいので『花埋み』という名前は結果的にすべてを繋げてくれるのだと思っています」
 これは荻野吟子氏が初めての女医を目指して陸軍軍医監の石黒忠悳氏に会う場面です。

 永井久一郎が紹介した人物は、当時の医界の有力者、陸軍軍医監、石黒いしぐろ忠悳ただのりであった。この人は幕府の官立医学校であった医学所をえ、その後、新政府ができるとともに医学校(大学東校)に少助教として勤めたことがある。この時、医学校長であった佐藤さとう尚中しようちゆう大博士に仕え、また先の皇漢医道復興運動の折りには岩佐純さが知安ともやすらと結んで反対論のきゅう先鋒せんぽうとなった人物である。
 彼はのちに軍医総監となり子爵を授けられたが、吟子が会いに行った時はまだ三十歳半ばの働きざかりで軍医監としてひょうしょうにいたが、同時に大学医学部そう心得として週に二日ほど文部省に出向していたのである。
 女の身でいかめしい官庁へ出かけるのはさすがの吟子もためらわれた。しかも場所は軍人の出入りする兵部省である。吟子は石黒の私邸を尋ねることにした。一度むだ足を踏んで、二度目に牛込うしごめあげちょうの石黒邸でどうやら会える機会を得た。
 石黒は顎骨あごぼねの張った、いかつい感じの男だった。彼は吟子の持っていった永井久一郎からの添書を読むと「うん」と一度、大きくうなずいた。
「成程、君が荻野吟子君か」
 維新を生きぬいてきた男らしく、石黒の声は周りに響くほど大きい。
「お初にお目にかかります」
 吟子はこの無骨な感じの男にすっかり緊張していた。女子師範で接した教授達とはいささか勝手が違う。
「君の意見には儂も賛成だ。婦人は総じて内気なもので、ことさら婦人病等をあらわに診察されることをじらってきらうものだ。きちんと診なければ分るものも分らない。これには儂も往生した経験がある。これらに対して女医が処することは大いに有益である。医学で女では学ばれぬという程の学科もないから、女がなってもおかしくはない」
 今更、何故なぜやりたいか、などと決りきった質問はしない。さすが実際に西洋医学を学んできた人だけに分りがいい、と吟子はほっとした。
「ところで、何処どこの学校をお望みかな」
「私のような者でも、いれて下さるところがあれば、選り好みは致しません」
「とにかく君も知っているように、今は何処も女人禁制だ。すぐと言われても困るが、どこか探してみよう」
「ありそうでしょうか」
「分らん。分らんからこれから探すのだ」
 石黒は掛け値のない男である。言われてみれば当り前のことであった。吟子は恐縮して石黒のもとを辞した。
 吟子が石黒忠悳から連絡を受けたのは、その一週間後の三月の初めである。早速出向くと石黒は例の大声で、
「いろいろ当ってみたが女学生は断わると言うて応じてれぬ」
「…………」
「ただ一つ、下谷の好寿院だけが、引き受けようと言うて呉れた」
「本当ですか」
 吟子は椅子いすから立ち上った。
すわって聞いても話は同じじゃ、坐りたまえ」
 吟子はあわてて坐った。
「風紀のことをはじめ、女ではいろいろと不便なことがある故、初めは駄目だと言いおったが、儂の懇請なら仕方がないとついには降参しおった」
「ありがとうございます」
 自慢しても石黒の場合はいやみに聞えない。
「院長の高階たかしな経徳君は私もよく知っているなかなか優秀な男だ。ちょっとこうるさいがな」
 いよいよ医者へ一歩近づいたのだ。吟子はめくるめく思いで石黒を見上げた。
「二、三日中に行ってみると良い」
「早速伺わせていただきます」吟子は深々と頭を下げた。
 皮肉なことに吟子は、皇漢医道復興問題で相対した井上頼圀、石黒忠悳という二人の人物の知遇を得たことになったのである。
 好寿院へ入ると決って吟子は再び頼圀の許を訪れた。好寿院の高階院長が宮内省侍医を兼ね、頼圀が宮内省御用掛であった以上、吟子の入学が頼圀に知れることは時間の問題であった。だが吟子が訪れたのは単なる挨拶あいさつと報告だけからの理由ではない。それよりも頼圀の近況を探るのが吟子にとっては大きな目的であった。
「そうか、西洋医になられるか」
 吟子の医学への志を初めて聞かされた頼圀は、沈痛な表情で腕を組んだ。漢方医ならともかく、西洋医では頼圀の手の及ぶところではない。といって西洋医になるのを断念させる理由もなかった。たしかに西洋医は時流にかなっている。その辺りのことは皇漢医である頼圀にも見通せた。
「長いのう」
「はあ?」
「いや、これからがじゃ」

永井久一郎 ながい きゅういちろう。漢詩人。米国留学後、工部省、文部省、衛生局第3部長、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)三等教諭兼幹事、帝国大学書記官をつとめ、のちに日本郵船の上海・横浜支店長。永井荷風の父。生年は1852年9月15日(嘉永5年8月2日)。没年は大正2年1月2日。
石黒直悳 いしぐろただのり。医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
大学東校 明治初期の官立の医学教育機関。明治政府は、1869年(明治2)旧幕府の昌平学校、開成学校、医学校を統合して大学校とした。同年末(旧暦明治2年12月)大学校が、大学と改称され、医学校を大学東校、開成学校を大学南校と称し、東校はドイツ人教師の指導の下で、プロシア軍医学校を模した教育改革が行われ、1874年東京医学校、1877年東京大学医学部、1886年帝国大学医科大学となった。
少助教 明治時代に政府が設置した大学の教官の職階。大博士の下に中博士・少博士、大助教・中助教・少助教の官職があった。
佐藤尚中 さとうしょうちゅう。たかなか。幕末明治の蘭方医。外科医。大学東校(東京大学医学部の前身)初代校長。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年は1827年5月3日(文政10年4月8日)。没年は明治15年7月23日。
皇漢医道復興運動 明治初期に起こった運動。漢方から発達した日本古来の医道を復興し西洋医学を排斥する活動。
岩佐純 いわさじゅん。明治時代の医学者。福井藩主の執匙侍医。医学校創立取調御用掛。医学教育制度の範をドイツにとることを力説、実現した。生年は天保7年5月1日。1836年6月14日。没年は明治45年1月5日。
相良知安 さがらともやす。幕末明治の医師。佐賀藩主鍋島閑叟の侍医。第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)校長。明治2年医学校取調御用掛。ドイツ医学の採用につとめる。生年は天保7年2月16日。没年は明治39年6月10日
荻野吟子 おぎのぎんこ。明治18年(1885年)、初めての医術開業試験に合格した女性医師。医籍に登録し、本郷に荻野医院を開業。またキリスト教婦人矯風会に参加、明治23年、牧師の志方之善と結婚し、27年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、41年東京でも医院を開いた。生年は1851年4月4日(嘉永4年3月3日)。没年は大正2年6月23日。
三十歳半ば 満34歳でした。
兵部省 ひょうぶしょう。明治2年、六省のひとつ。他は民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、外務省。明治5年に陸軍省と海軍省に分離したので、ここでは兵部省ではなく陸軍省が正しいでしょう。
大学医学部綜理心得 現在の東京大学総長特任補佐に当たるのでしょうか。石黒直悳は明治14年7年6日から明治19年1年16日まで綜理心得。
石黒の私邸 牛込区揚場町だと言いますが、そうでしょうか。

1912年、地籍台帳・地籍地図

 吉岡弥生『吉岡弥生伝』(日本図書センター、1998年)は「明治12年10月、荻野さんは、ほかならぬ石黒子爵の紹介だからというので、この好寿医院に入学を許されました」。したがってこの2人があったというエピソードが起こったのは明治12年10月以前です。一方、石黒直悳『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年)の年譜では「明治6年 29歳。1等軍医正となり、牛込へ転居」「明治13年 36歳。牛込揚場町に家を購い、ここが終生の住居となる」。終生の住居(=揚場町)を決めたのは、明治13年です。つまり、牛込区に住んでいましたが、揚場町かどうかは不明なのです。
顎骨の張った、いかつい感じの男 写真では……

石黒直悳

女子師範 正しくは「東京女子師範学校」。小学校・国民学校の女子教員を養成した旧制国公立学校。明治8年、荻野吟子氏は女子師範(現在のお茶の水女子大学)に第1期生として入学し、12年に卒業。現在、東京医科歯科大学に。
好寿院 こうじゅいん。明治12年、下谷区練塀町(現在のJR秋葉原駅の北側地域)に開設。明治16年、おそらく閉院。
高階経徳 たかしな つねのり。孝明天皇と明治天皇の侍医。「西洋医学御採用方」を著す。晩年は私塾「好寿院」を開いて医師育成に務める。生年は天保5年8月9日(1834年9月11日)。没年は明治22年3月23日。高階氏の方が石黒直悳氏よりも12歳も年寄りです。
井上頼圀 いのうえ よりくに。国学者。文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた。國學院,学習院教授。皇漢医道御用掛。生年は天保10年2月18日(1839年4月1日)。没年は大正3年7月4日。
宮内省御用掛 宮内省の役所の命を受けて用務をつかさどった職。元官僚や大学教授など有識者から構成された。
漢方医 もともと日本で行われていた医学を漢方医学。対して江戸時代に日本に入ってきた西洋医学を蘭方医学と呼ぶ。
皇漢医 皇漢こうかんとは日本と中国の意で、中国から伝来し日本で発達した医学、すなわち漢方医学をさす。