赤ん坊の餓死|寿産院(1948年)

文学と神楽坂

 山本純美氏と并筒清次氏の「江戸・東京 事件を歩く」(2001年、アーツアンドクラフツ)で、昭和23年、新宿区柳町の寿ことぶき産院で餓死した赤ん坊が100人近くも出たという事件がありました。この寿産院を経営する石川ミユキは、明治30年に宮崎県立職業学校を卒業し、18歳に東大医学部産婆講習科に入学、産婆になっています。

  餓死に追いやられた赤ん坊たち
 寿産院事件(1948年)

 昭和23年(1948)正月12日、東京都新宿区の寿産院という新生児の保育所で恐ろしい大量殺人事件が発覚した。

「寿産院」は、昭和19年から23年にかけて204人の乳幼児を親から養育費をとって預かり、養育用の配給ミルクは与えずに横流しで売り、100人ほど幼児を死させていた(新宿区柳町)。

 当時、赤ん坊のミルクは、一般的には市販されておらず、配給されていた。寿産院の院主石川みゆきは、産まれたばかりの子たちを次々と預かったものの、配給物資のミルクを与えずに横流ししていた。その結果、赤ん坊たちは飢え、次々と餓死に至り、犯人はそれを隠匿していたのである。
 当時、敗戦後の混乱状態で、私生児の始末に困った母親がわが子を産院に預けっぱなしにする世相があり、そのまま親が行方不明になることもあった。
 こうした社会的風潮のなかで事件が明るみに出たものであるが、ほかにもこの種の犯罪は多く存在したことは想像にかたくない。現在では考えられないほどの暗黒時代であった。
 当時の世相では、少量の食料をめぐっての殺人強盗が珍しいことではなかったが、この事件は対象が物言わぬ赤ん坊であったことから、世の親たちを戦慄させた。
 結局、この殺人事件で何人の赤ちゃんが餓死させられたのかは確定されなかったが、言い換えれば、数が分からないほどの大量殺人であった。現在の保育状況や、犬猫用の缶詰まである時代からは想像しがたい遠い時代の出来事である。

▲餓死を免れた赤ちゃんたち

▲かけつけた親は、涙ながらにわが子を抱いた。

 牛込産婆会会長の院長石川みゆきは、昭和23年10月11日第一審判決では懲役8年、共犯の夫の石川猛は懲役4年、共犯の助産婦貴志正子は無罪。死体一体につき500円で不法処理した葬儀屋長崎竜太郎は懲役8ヵ月と、大量殺人ながらいずれも微罪であった。

 昭和23年10月、東京地裁で石川ミユキに懲役15年、猛に同7年、助手の女性には同3年の求刑。殺人27人のうち、22人は「証拠不十分」で無罪。石川夫婦は控訴し、昭和27年4月、控訴審で石川ミユキは懲役4年、猛は懲役2年と確定した。
 戦争直後に、捨て子が増える理由があり、しかし、日本社会には育てることができない理由もありました。
⑴ 正規の配給制度でミルクは1カ月に450グラム入り2缶だけ。普通は毎月8〜10缶が必要。親がいる赤ちゃんは発育できるが、捨て子では生きられない。

読売(新聞)で石川ミユキは「記者団の問いに対しこう筆談した」。
問 なぜ十分食事を与えなかったのか?
答 私の与えた食事では子どもたちは死んでしまうことはよく分かっていました。ただ、後の補給に目当てのないため、量を減らした

 しかし、粉ミルクや砂糖などの配給も受けていたが、余ったものは売りさばいていたようだ。
⑵ 暴行、進駐軍、売春などで捨て子、生育できない子、道ならぬ子が多かった。「日本人女性と占領軍兵士の子どもが生まれるようになり、川や溝、道端に遺棄された混血嬰児の死体が発見されていた」(「医学哲学 医学倫理」)
⑶ 人口中絶が法的に許可できなかった。(ただし昭和23年9月以降、可能に。優生保護法の中絶条件を緩和し、公布は昭和23年7月、施行は同年9月。昭和24年、要件に経済的理由も追加)
⑷ 産院は「出産を助ける」から「乳児を預かり、売り渡す」施設になっていた。昭和22年、児童福祉法が制定し、初めて乳児院も設置。
 文春オンラインの時事解説では「ヤミの世にヤミからヤミに生まれ、ヤミに葬られていた幾多の幼い生命の、世間に対する事実をもってする無言の、しかも悲惨にして厳重な抗議なのである」

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