永井龍男氏の『石版東京圖繪』のある章「バラック」です。関東大震災で下町はやられましたが、神楽坂はほとんど無傷でした。
氏は小説家で鎌倉文学館の館長でした。生年は明治37(1904)年5月20日。没年は平成2(1990)年10月12日。大正7年、一ツ橋高小卒。大正9年、文芸誌「サンエス」に「活版屋の話」が当選。昭和2年、文芸春秋社入社。14年「文芸春秋」編集長、20年退社。戦後は創作が中心で、昭和24年、「朝霧」で横光利一賞受賞。格調高い文章で知られる短編の名手といわれました。
関東大震災の被害は、東京の下町にはなはだしく、そのほとんどの地域を灰燼と化した。下町気質とか、下町風と呼ばれた風俗も、この時以来東京から消滅した。(略) 「仕事をするにも、この焼けっ原じゃあ」 「だから、おれ達の天下がくる。細かい話は、今夜ゆっくりだ。おれのいま居るところは、牛込の軍隊仲間の家だ。なあに、見渡す限り焼けっ原のようだが、神楽坂を上ってみろ。昔のまんま東京が残ってる。なんなら池の端あたりまで歩いてみるか」(略) 「いいか、下町はみんな焼けちまって、牛込麻布と、山の手は大した景気だ」(略) 卯之吉が云った通り、飯田橋を一つ渡って神楽坂にかかると、昔のままの東京があった。 |
下町気質 人情深くて、祭りと喧嘩好き。何かと世話を焼きたがる。兄貴肌か姉御肌。
池の端 辞書では「池之端」は東京都台東区の地名で、「池の端」は一般に池がある端。「池之端」を指すのでしょう。
牛込麻布 下町は壊滅的な被害を受けましたが、牛込と港区麻布十番周辺は被害も少なかったようです。
商店は軒並み落着いて商売をしていたし、浴衣で町を歩いている女達も、どこということはないが、「ああ、東京へかえってきた」と思わせる、垢抜けした風俗であった。(略) 「神楽坂の待合なんぞも、表向きは遠慮しているが、裏にまわると、結構陽気に商売をはじめている。立ちおくれは禁物だ」(略) 神楽坂には、日本橋で焼けた三越、松屋、銀座の村松、資生堂、さてはカフエー・プランタンなどが、出店を開くような繁昌振りで、東京一の盛り場にのし上った。 夜店が両側に軒を連ね、人の出盛りには肩をぶつけんばかりの賑やかさで、その中を座敷着の妓が、横丁から横丁へ人をかきわけながら抜けて通る。 毘沙門さまあたりが中心になるが、その石の鳥居の手前を入って真直ぐ、待合や小料理屋の前を過ぎると、急に闇が濃くなる。 |
垢抜け 容姿、性格などが洗練され、素人っぽさや野暮臭さがなくなる
立ちおくれ 着手する時機を失うこと
座敷着 芸者や芸人などが客の座敷に出るときに着る着物
妓 酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者
手前 毘沙門横丁でしょう。
待合 客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店
安政元年の「東都名所合」の不忍池 ほとりを描く「池の端」です。他に広重の「江戸高名会亭尽」では「池之端」が描かれるなど、江戸時代よりの表記ゆれと考えてよろしいのではないかと思います。
http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail225.html
たしかに池の端は池之端なのでしょう。池之端から神楽坂までは歩いて一時間強かかります。しかも地獄から天国まで見えるわけで。ちょっと大変だなと思ったので。なお、(略)を少し正確に書くと、
『「なあに、見渡す限り焼けっ原のようだが、神楽坂を上ってみろ。昔のまんま東京が残ってる。なんなら、池の端あたりまで歩いてみるか。……こいつを遣(つか)ってくれ」
卯之吉は、わしづかみのまま、札を渡した。どんな風態でも、恥かしくない東京だが、卯之吉には由太郎の財布の中まで見通せた。
「麻布の松本町というと……」
由太郎が、両親の同居先だという。妹のおよねの住所を呟くと、
「それだがなあ由、お前当分、親父には逢うな。おれにまかせとけ」
と、卯之吉は先手を打った。』
と、話は別の方向に向かってしまいます。
たしかに私も歩くには遠いと思いましたが、震災で市電もまともに動いてかった(復旧に9ヶ月半かかったそうです)でしょうから、歩くのが当然だったんかもしれませね。