宮比神社はどこにあったのでしょうか? 現在、宮比神社は新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社境内に移動しています。それ以前には、下宮比町でしたが、神社が建っていたのでしょうか。何番地なのでしょうか?
『すむいえ情報館』では
下宮比町の由来 町名は旗本(久世氏)の屋敷にあった宮比神社を現在地に移して社を建てたことによる。祭神は宮比神(大宮売命・天鈿女命)。宮比町は高台と低地とがあり、下は低地の意。 |
極めて正々堂々と宮比神社は旗本・久世氏の屋敷にあったと書いています。反対に新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では宮比神社は以下のように下宮比町にあったとしか書いていません。
どちらが正しいのでしょうか?
下宮比町 江戸時代は武家地であった。明治2年(1869)、武家地を開いて宮比町ができる。これは町内に宮比神社があったため名づけられた(明治2年ノ9順立帳・明治2年町鑑)。明治5年、上宮比町(現神楽坂四丁目)と下宮比町に分かれる(明治5年東京区分町鑑)。明治12年牛込下宮比町に町名変更される(明治12年東京府布達甲第43号)。牛込を付した理由は不明。明治44年再び「牛込」を省略し下宮比町となり、現在に至る。昭和63年住居表示実施。 神楽坂四丁目 |
東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では
〇宮比町
◎位 置 宮比町は。上下兩町に分てり。上宮比町は。東の神樂町三丁目の一部に對し。西は肴町に連り。南は神樂阪の道路を隔てゝ肴町の一部と神樂町三丁目の一角に面し。北は津久戸前町 幷に筑土八幡町に連りたり。下宮比町は。東は船河原橋と江戸川の岸に臨み。西は津久戸前町の一部に對し。南は揚場町に接し。北は新小川町一丁目に隣れり。上下兩町相連らずして。中間に津久戸前町介在し。恰も 采目を成せり。 上宮比町 自一番地至八番地
下宮比町 自一番地至十五番地
◎町名の起原幷に沿革
宮比町は。町内に宮比神社あるを以て。明治の初年に命名したるものなり。上下兩町共に皆武家地なりしが。今は市街地となりたり。
舊武家の居住者
上宮比町 東條能登守、岡野貞藏、興津甚左衛門、中村長十郎、東向高木左京、柘植平五郎、北向横山喜兵衛、成田某南向
下宮比町 曾我熊之丞、朝岡頼母、内藤善次郎、古田鎌次郎 東向松平甲次郎、南向室賀鉞之助、北向河野銀之助、田口彌市郎森市郎兵衛、河村条五郎、西向
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「町内に宮比神社ある」と書いています。
肴町 現代では神楽坂5丁目です。
津久戸前町 明治5年、牛込津久戸前町と呼び、明治44年からは津久戸町になった。
幷に ならびに。ともに
江戸川 現在は神田川
恰も あたかも。他のものによく似ている。まるで。まさしく。
采目 さいのめ。さいころの目。上下の宮比町がさいころが2つ並んでいると、右図でいえなくもない。
舊 「旧」の旧字
東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では
牛込下宮比町 明治二年六月從來の土地を開きて市廛とし、一祠と營して宮比神を祀れり。因て宮比町と稱す。五年一月下字を冠し、上宮比町に分ち、十二年四月更に牛込の二字を冠す。川は外濠及江戸川あり。 |
市廛 店舗。町の店
一祠 神や祖先を祭る所。ほこら。
営 計画に従って物事や事業を行う。いとなむ。軍隊のとまる所。陣屋。とりで。
冠 上にかぶせる。かぶる。
江戸川 現在は神田川
新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で著者の磯部鎮雄氏は少し細かく書いています。
下宮比町(しもみやびちょう)飯田橋の北,江戸川の西に洽って下宮比町がある。 この一角は江戸期には久世平九郎、松田甲次郎、曽我熊之亟、朝岡頼母、室賀鉄之亟などという数軒の武家地であったが、明治27年頃飯田橋々畔より津久戸へ抜ける市区改正道路により、だいぶ町を削られて大正の初めにはこの改正道路は電車通りになった。今目白通りと都電通りに挾まれた東海銀行の裏の一角が下宮比町である。 ここは武家地だったので町名はなかったが、明治2年の改正によって一部武家地も取払われ町家も建てられ、上宮比町とともに町名が付けられた。宮比の由来は下宮比町1番地に宮比社があったのでそれに由来する。今はその場所は丁度電車通りに当っている。 宮比神は今は津久土八幡社の境内、御神木銀杏の後に移っているが、宮比神とは大宮能売命、大宮比咩命である。これは平安時代不吉をさけ吉祥を得るために多くは正月と十二月の初午の日に六柱の神を祀るものであって、これを「みやのめのまつり」といった。この神はこの地の何れかの武家屋敷で祀っていたものであろう。 |
「下宮比町1番地に宮比社があったので」、「この神はこの地の何れかの武家屋敷で祀っていた」。しかし「この地の武家屋敷」はひとつしかありません。最上図の「当時之形」(「当時」とは調査時点のこと。嘉永5年頃、1852年頃)によると、久世伊勢守の屋敷でした。しかし、明治維新(1868年)の時点も同じものだったのかは、わかりません。『東京名所図会』には久世伊勢守の名前は入っていません。
橋畔 きょうはん。橋のたもと。橋頭。
市区改正 明治時代から大正時代に行われた都市計画
改正道路 道路計画に基づいて、幅を拡げたり、新設されたりした市街地の道路。
電車通り 路面電車が走る道。地元の人が通称で使う。路面電車が廃止された後でもこの名前の道もある。電車道。ここでは大久保通り
目白通り 東京都千代田区九段北から練馬区三原台までの道路の呼び名。上図を参照
都電通り 電車通りと同じ。現在は大久保通り
東海銀行 下宮比町1番地にありました。現在は飯田橋御幸ビルで、一階はThe Suit Company、2階はECC外語学院など。
宮比社 三重県伊勢市の伊勢神宮皇大神宮(内宮)の所管社及びその祭神。社殿を持たない神社で、祭神は内宮の守護神。宮比神は大宮売命又は猿田彦大神の妻である天鈿女命の別名であると言われる。
大宮能売命 おおみやのめ。宮殿の平安を守る女神。大宮売神(おおみやのめのかみ)。大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
みやのめのまつり 宮咩祭。昔、正月・12月の初午の日に、高皇産霊尊以下六柱の神をまつって、禍を除き幸福を祈った行事。
地元の人の調査によって「明治40年1月調査 東京市牛込区全図」を使うと、確かに宮比神社はありました。
実際に筑土八幡神社に架けられた来歴の最後では
宮比神社由来 御祭神は宮比神で大宮売命・天鈿女命ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。 |
現在のまとめを書いておきます。宮比神社は昔には下宮比町にあり、筑土八幡神社の来歴を正しいと考えると、下宮比町1番地の旗本屋敷の中にありました。その屋敷は、嘉永年間では久世伊勢守の屋敷でしたが、明治維新の時にも同じだったかは不明です。以上です。