見番」カテゴリーアーカイブ

伏見火防稲荷神社 神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 現在路地の右手に小さな稲荷神社があります。場所はここ
三叉路

 これが伏見ふしみ火防ひぶせ稲荷いなり神社です。

組合神社

 神社人(日本を楽しむ神社ファン・コミュニティサイト)によると総本社は伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)。ご祭神は、御魂みたま神。生産の神/五穀豊穣の神。商売繁盛、五穀豊穣などを祈願。参拝形式は、二拝二拍一拝。 つまり火の手から守ることです。
 もう少し近くに行ってみましょう。

神楽坂組合

 こうすると東京神楽坂組合(芸者の組合)や料亭松ケ枝などの名前が出ています。
 実際に芸者さんが稽古に行ったりお座敷を行き帰りにお参りをしていくこともあるようです。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では……

 今の検番のところにお稲荷さんがあるでしょう、あれは古いんです。昔出羽様のお邸の中にあったんですから。今でいうと木村屋さんの前の小跡を入った右側のところ、昔の永楽銀行の裏にあたるところです。火防のお稲荷さんなんてすが、それをある待合のおかみさんが家を普請する時、邪魔だって訳でもないんでしょうかとに角邪魔にならないところに持っていったりなんかしたんですね、そうしたらその家にろくなことがなかったんだそうです。おかみさんはすっかりおじけ付いて、きっとお稲荷様のたたりだろうっていうんで又、もとのところへまつりかえたんだそうです。そうしたら商売も順調に行く様になったそうです。こういう土地柄ですからとかくかつぐ人が多いようですね。とにかく因縁つきのお社です。
出羽様 出雲松江藩の最後の藩主、松平定安氏が明治4年、神楽坂3丁目の邸地を購入しました。官位は出羽守でした。下図は巨大な邸宅と赤い色の稲荷社など。
木村屋 現在は上島珈琲店

稲荷社など 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

神楽坂|大東京案内(4/7)

文学と神楽坂


 蕎麦屋(そばや)でうまいのは春月、麻布支店の更科、といふところ。おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたんお披露目の芸者もこゝへは顔を出す。肴町停留場附近の神楽おでん。そこから半丁ほど先きにお座敷てんぷらやが二軒。芝居趣味のがくや、食味を自慢の勇幸。以前に幇間(ほうかん)をしてゐたとかいふ勇幸の主人は、尾崎紅葉の俳句の弟子とか。高いが、いゝ華客(とくゐ)のある一寸通りから()っ込んだ店。
 なんといっても夜の神楽坂はまだまだ花柳界(くわりうかい)に主体をおく。その全盛期(ぜんせいき)は震災直後で大小の美妓六百数十を数へたものだが、今は旧検(きうけん)の二百余、新検の百五十どころ、二派に分離して対峙(たいぢ)してゐるが、早晩旧通りに合併するとのこと。なにしろ有名な待合では(まつ)()(しげ)()もみぢ、等々。百軒あまりも軒をならべてゐる。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和5年頃、肴町(現神楽坂5丁目)の田原屋(現「玄品ふぐ神楽坂の関」)の反対側に(やぶ)そば(現「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」からまた変わって「とんかつさくら」)がありました。
また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 店は小さいんです。店があって、後ろに調理場があって、離れに住まいがあるんです。三つの家が建っていました。すぐ隣の「大和屋」さんという漆器屋には蔵があった家なんですが、「大和屋」さんと薮蕎麦さんの間に路地をこしらえまして、それで住まいの方へ薮蕎麦さんは入っていった。もちろん、調理場からも行かれますけどね。表から来たお客さんはその横から入っていく。
藪そば

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」

赤びょうたん これは神楽坂仲通りで、神楽坂3丁目にあったようです。詳しくはここで
お披露目 芸者などがその土地で初めて出ること。あいさつ回り
がくや 芝居趣味なので「楽屋」なのでしょう。それ以外はわかりません。
勇幸 鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居る

と書いています。詳しくはここで。また、『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」でこう描いています。勇幸
幇間 ほうかん。太鼓持ち、末社で、男芸者のこと。酒席で遊客に座興を見せ遊興のとりもちをします。
華客 かかく。花客とも書く。ひいきの客。得意客。とくい。
花柳界 芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の(ちまた)
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は民政党、政友会の2派に分かれ、党員たちが集まり、豪遊し、戦術を練ったといわれています。旧検は民政党の一派が作る検番で、仲通りに店を開き、昭和初期には芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒を有していました。政友会が作るのは新検で、本多横丁に店を開き、芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。現在の見番は見番横丁にあります。

対峙 対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること
旧通り 元通りのことでしょう。もとどおり。以前の状態と同じ形や状態。
待合 待合茶屋とも。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
重の井 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば場所は5丁目。現在は巨大なマンション、神楽坂アインスタワーで完全に覆われてしまいました。重の井
もみぢ 待合「もみぢ」が「紅葉」だとすると、紅葉は「火災保険特殊地図」(昭和12年)で上宮比町にありました。現在は「Ristorante LASTRICATO」(ラストリカート)と同じ場所でしょうか。ちなみに、旅館和可菜の場所を書くと水色のここになると思います。

もみぢ

もみぢ

神楽坂|東京神楽坂組合

文学と神楽坂

 伏見火防稲荷神社があり、次に「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

見番横丁
Kenban-yokocho
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。平成23年(2011年)12月22日に新宿区はここから図では左手の方向に見える路地を見番横丁という名前を付けました。 

青い標柱の裏の建物は、全く普通の建物ですが、これが見番を行う建物です。場所はここ。見番は検番とも書き、芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことです。東京神楽坂組合の稽古場はこの上の建物になっています。

見番5

 少し左を見て、この建物も東京神楽坂組合の建物で、事務所に当たります。

 なお、東京神楽坂組合は田中角栄が建てた家としても有名ですね。
 ここで 熱海湯階段に行く場合は ここ
 見番横丁に行く場合は ここ
 伏見火防稲荷神社

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

芸妓の言葉

文学と神楽坂

三業   さんぎょう。料亭(料)・待合茶屋(待)・芸妓置屋(妓)の3業種。
二業   料亭と芸妓置屋
花街   かがい。はなまち。いろまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。遊郭。花柳街
花柳界  かりゅうかい。芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の(ちまた)
料亭   主として日本料理を出す高級な料理屋
置屋   おきや。正確には女郎置屋や芸者置屋。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
待合   まちあい。待合茶屋。まちあいぢゃや。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。ウィキペディアによると、板場がないので料理の提供はなく、仕出し屋などから取り寄せる。収入源は席料と、料理などの手数料。客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(娼妓は遊郭以外で営業できない東京では不可)
芸妓   歌や三味線、舞踊など、芸の習得に厳しい稽古を積み、酒宴で披露して客をもてなす女性。遊女とは一線を画す。
見番   けんばん。検番、見番。三業組合の事務所。遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。現在の例は見番横丁で。
箱屋   はこや。三味線などを持って客席に出る芸者に従って行く男衆。見番に属する。箱まわし。箱持ち
半玉   まだ一人前として扱われず、玉代(ぎよくだい)も半人分の芸者。雛妓(おしゃく)とも。踊りと太鼓を演じるが、三味線は弾かない。大半は16歳で芸者に
源氏名  遊女や芸者の妓名。バーのホステスなどの呼び名でも使う、