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浅田宗伯|夏目漱石と正宗白鳥

文学と神楽坂


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 新宿区立図書館資料室紀要の『神楽坂界隈の変遷』(新宿区立図書館、1970)の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」には牛込横寺町に住んでいた漢方の名医、浅田宗伯あさだそうはく氏のことが出ています。まず、生年は文化12年5月22日(1815年6月29日)。享年は明治27年(1894年)3月16日でした。

 この『神楽坂界隈の変遷』では「明治になっても依然として慈姑くわい(あたま)に道服を着て、長棒の桐の駕籠(かご)に乗って診療廻りをして歩いた」そうです。この慈姑頭は、束髪ともいい、髪はクワイの芽に似ていることから付きました。江戸時代、医者などの髪の結い方で、頭髪を剃らず、すべて後頭部に束ねたものです。道服(どうふく)とは道士の着る衣服、袈裟(けさ)、僧衣で、先生は礼服である十徳という上着を着用していました。

 また、幕末には浅田宗伯は横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功します。

 宗伯はロッシュを詳しく診察します。
 そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。
 傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。
 で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。
 この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。

(ねずさんのひとりごと。「漢方医学と浅田宗伯」)

浅田宗伯は、徳川将軍家の典医となり、維新後には、皇室の侍医として漢方をもって診療にあたっています。漢方医の侍医は最後の医者だといいいます。
 また、浅田飴も浅田宗伯の名前から来ています。浅田飴を作った人は堀内伊三郎氏ですが、「よこてらまち今昔史」では氏は浅田宗伯の駕篭かき(浅田飴によると書生)をしていたそうです。浅田から水飴の処方を譲り受けて、浅田飴を売り出しました。
「よこてらまち今昔史」(新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会、2000年)でも浅田宗伯のことは半ページだけですが出ています。

 横寺町には明治四年(一八七一年)から大正十三年頃まで、現在の英検(旧旺文社本社)敷地の東端付近、五十三番地に住んでいた。
 宗伯は容貌魁偉で酒好きであったが、医業の傍ら医学医史、史学、詩文等数多くの書を著わしたが、浅田家ではその散佚を恐れ、一括して東大図書館に寄贈した。また宗伯は幕府時代から千両医者としての名声があり、明治四年(一八七一年)五十七歳のとき、牛込横寺町に移って以来診察治療を請負う者が引きも切らず、浅田邸付近は順番待ちの患者が休む掛け茶屋が幾軒もできたとのことである。漢洋医競合の時勢のなかで宗伯は塾を開いて門弟の養成にも力を尽くした。
 ところで浅田宗伯と浅田飴とのことであるが、浅田飴の製造元の堀内家は、長野県上伊那郡青島村の出身で、明治十九年四代伊三郎のとき家は破産し、夫婦で上京、伊三郎は浅田家の駕篭かきとなり、妻は青物売りをしていたが、宗伯はこれを励まして金と三種類の薬の処方を与えて独立させた。その処方のひとつが「御薬さらし飴」である。夫婦は水飴製造販売に全力を注ぎ、明治二十二年神田鍋町に浅田飴本舗を構えたのが起こりである。

散佚 さんいつ。散逸。まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
掛け茶屋 道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。

 この「御薬さらし飴」こそが後の「浅田飴」になっていきます。
 夏目漱石氏は「吾輩は猫である」の中でこう書いています。

 主人の小供のときに牛込の山伏町浅田宗伯あさだそうはくと云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、がたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうアンチピリンに化けるかも知れない。に乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人のもその振わざる事においては宗伯老のと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこな主人は依然として孤城落日を天下に曝露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。

山伏町 新宿区の東部に位置する町名。全体としては主に住宅地として利用する。浅田宗伯は山伏町に住んではいない。
葛根湯 かっこんとう。主要な活性成分は、エフェドリンとプソイドエフェドリン。発汗作用を強め、また鎮痛作用があるという
アンチピリン 最初のすぐれた合成解熱薬。 内服でアンチピリンしん(ピリン疹)という皮膚疹を起こすことがあり、現在は使わない。
旧弊 古い考え方やしきたりにとらわれている状態
亡者 金銭や色欲などの執念にとりつかれている人
孤城落日 こじょうらくじつ。孤立無援の城と、西に傾く落日。勢いが衰えて、頼りないこと
リードル reader。リーダー。読本。アルファベットの習得と単語の発音から、さらに初等教育課程・中等教育課程を教えた。

 かごについては、薬箱を持たせた供を連れて歩く医者と、より格式があり、駕籠を使用する乗物医者に分けられたようです。駕籠は町奉行から許可を得た御免駕籠でした。
 正宗白鳥氏が書いた「神楽坂今昔」には、氏が大学生になって、初めての春、こんな体験をしています。

 馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
 淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。

 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。昭和12年の「火災保険特殊地図」で赤い中央は「浅田医院」になっています。左上は52で、つまり横寺町52番地では、といぶかるのも当然ですが、いつの間に変わったのか、分かりません。それとも、となりの家(桃色)が53なので、53は外来だったのでしょうか。あるいは、『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』が単に間違ったのでしょうか。明治20年の地図も浅田宗伯邸がでていますが、番号はわかりません。

浅田医院
「よこてらまち今昔史」では「浅田医院」は現「あさひ児童遊園」だと描いています。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、ここは赤色の横寺町52番地でした。CCF20130810_000305


2014/11/18→2019/7/1


[漱石雑事]

宇野浩二と神楽坂

文学と神楽坂

宇野浩二2 宇野(うの)浩二(こうじ)氏は私小説が有名な作家ですが、他の文学作品の切れ味はすごく、芥川賞の審査員にもなっていました。また氏も神楽坂界隈に住んでいた時期があります。昭和17年8月、51歳のときに『文学の三十年』を書き、そこで、明治44年3月(数え年で21歳、満年齢では19歳)には、白銀町の()(づき)という下宿に住んだことを書いています。

雑司ヶ谷の茶畑の中の一軒家で、一人で自炊しながら、寒い冬を越して、翌年の三月頃、私は、牛込白銀(しろがね)の素人下宿に引っ越した。明治四十四年、私が二十一歳の年である。今の電車の道で云えば、築土八幡前の停留所を出て暫く行くと、肴町の方へ殆ど直角に曲る角がある。あの角を、電車の道の方へ曲らずに、赤城神社へ出る方へ行って、すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった。その素人下宿は、大きな家で、間取(まど)りもよく、部屋も大きく、部屋の中の造作(ぞうさく)も整っていた上に、中二階まであった。そうして、その中二階には三上於菟吉が陣取っていた。それから、母屋の二階には、竹田敏彦の同級の、今は「サンデー毎日」の編輯長で収まっている、大竹憲太郎や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫婦や、えたいの知れない四十歳ぐらいの一人者などがいた。そうして、その風変りな素人下宿には、前の章に書いた、三富朽葉今井白楊浦田芳朗、(前の章では、大阪毎日新聞社の機械部艮、と書いたが、この快兼怪漢は、その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、今は、京都日日新聞社長になっている、)その他がしばしば現れた。

牛込白銀町 明治44年6月以前は「牛込白銀町」、以降は「白銀町」です。下の青く描いた多角形は「白銀町」です。この中に氏の下宿がありました。
下宿 かつての路面電車を停留場①「筑土八幡前」で降ると、そのまま進み、②道はY字に分かれます。左側に行くと停留場「肴町」に着き、右側を行くと赤城神社につながります。「赤城神社へ出る方へ行って、③すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった」ので、おそらくこのどこかでしょう。

昭和5年の地図

昭和5年の「市区改正番地入 牛込区全図」の1部

造作 構造部以外で大工職が作る部分。木造建築では天井、床、階段、建具枠、床の間、押入れなど。
竹田敏彦 たけだとしひこ。生年は1891(明治24)年7月15日。没年は1961(昭和36)年11月15日。劇作家、小説家。早稲田大学英文科中退。「大阪毎日新聞」記者をへて、1924年新国劇に入り、文芸部長に。のちに小説家。1936年業績全般で直木賞候補。
大竹憲太郎 新しい情報はなく本文の通りで、当時は「サンデー毎日」の編輯長
三富朽葉 みとみきゅうよう。生年は1889(明治22)年8月14日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。自由詩社同人。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も。犬吠埼君ヶ浜で溺れた今井白楊を助けようとしてそのまま水死。
今井白楊 いまいはくよう。生年は1889(明治22)年12月3日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。1909年、自由詩社に参加。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。そのために単行本になった詩集はない。
浦田芳朗 うらたよしろう。大正15年、『南米ブラジル渡航案内』の筆者(大阪毎日新聞社)。その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、この時は京都日日新聞の社長。

 本文ではもう少し下宿の都築を紹介しています。

この素人下宿(()(づき)という名)の事を少しくだくだしく書いたのは、この都築には、前にも述べたことがあるが、当時、『別れた妻』に別れたばかりの、赤城神社の境内の下宿に住んでいた、近松秋江が毎日ほど現れたり、この都築にいた頃、三上が、その道の猛者になる下地を初めて作ったり、したからである。又、この都築にしばしば現れた、三富、今井、浦田、という、三人の、それぞれ形は違うが、颯爽とした青年の中で、三富と今井は、十九世紀のフランスの象徴派の詩人の故事を真似て、『薄命詩人会』と称する会を作り、「象徴」という雑誌まで創刊し有為な豊富な才能を持ちながら、その頃から十年も立たないうちに、大正六年八月二日、僅か二十九歳で、犬吠岬で水泳中に溺死する、という運命を持ち、私に、(ほの)かな恋愛小説を作って一世を風靡したことのある水野葉舟を紹介したり、レエルモントフの『現代の英雄』の英訳を貸してくれたり、しているうちに、いつの間にか政治運動に這入った、というような浦田が、浦田流の生活を押し切って、壮健に生きている、という、そういう私だけに悲しくも面白くもある事が都築と共に思い出されるからである。

その道の猛者(もさ) 猛者とは「力のすぐれた勇猛な人。荒っぽい人」。「その道」ははっきりしないが、ウィキペディアでは「流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いた」としている。待合とは芸妓との遊興や飲食を目的とする風俗業態。
象徴派 1870年頃、自然主義などの反動としてフランスとベルギーの文学芸術運動。象徴派は事物を忠実には描かず、主観を強調し,外界の写実的描写よりも内面世界を表現する立場。サンボリスム。シンボリズム
水野葉舟 みずのようしゅう。生年は1883(明治16)年4月9日。没年は1947(昭和22)年2月2日。詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。
レエルモントフ ミハイル・レールモントフ。Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов。1814年10月15日~41年7月27日。帝政ロシアの詩人、作家

疑惑|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江全集 第一巻。

 何か面白いことはないかと図書館で調べると、中谷吉隆氏の『神楽坂Story』(清流出版、2006年)に「神楽坂界隈が登場する明治・大正文学作品」がありました。明治、大正で神楽坂界隈を描く文学作品をリストでまとめたものです。中に近松秋江氏の小説、『疑惑』がすごい。なんと『疑惑』の中に赤城、赤城元町、矢来町、神楽坂の文言がきちんとはいっているのです。図書館で『近松秋江全集 第一巻』を借りて、調べてみました。『近松秋江全集 第一巻』の本はこの通り、典雅な、上品な本です。
 では本の内容は。ううううむ。この『疑惑』は、氏が書いた『別れたる妻に送る手紙』と全く同じ内容で、明治44年に別れた妻を捜す小説です。初版は大正2年。若い男性の篠田が妻と一緒に駆け落ちして、日光に行き、それを発見し、恨み言がこれでもかこれでもかと出てくる小説でした。しかも、ひとつひとつの土地の言葉は、ほんの一語ぐらいしか出てきません。なお、下の最後の文章は妻が喋る文章です。

 日光に行く旅費としてまた五円の金を拵へるに、頭が全然(すつかり)疲れて乱れ
てゐるから、三日も四日も掛つて僅かに十枚ばかりのつまらぬ物を書い
て、それで懇意な本屋の主人に拝むように言つて貸して貰った。
 さうしてそれを借りると、直ぐその足で、神楽阪の雑誌屋の店頭(みせさき)で旅
行案内を繰つて見て、上野のステーションに行つて、三時何十分かの汽
車に乗つた。それは五月の四日だつた。

 遣る瀬のない涙が(まなこ)(にじ)んだ。それでも私は、『草を分けても探し
出さずに置くものか。』と矢来の婆さんの処で、何度も歯を喰ひしばつ
た決心を、夕暮方の寒さと共に、ます〳〵強く胸に引締めて、宿屋に着
いて、夕飯を済ますと、すぐ(日光)警察署に行つた。

 その通り手帳に写し取らうと思つて尚ほよく見ると、宿処といふ処に、
『東京牛込区若松町何百何十何番地』
と書いて、二人一(ところ)にゐたらしい。見るに付け〳〵残念で堪らない。

 若松町にゐた時分のことが思はれてならぬ。篠田の奴二十(はたち)や二十一の
癖に、ひどい、酒の好きな奴だつた。
『こんな大きな家に入つて、詰らない。赤城で拾円の家賃さへ困つてゐ
たのに、貴下月々出来ますか。もう此度私に借金の言ひ訳をさしたら、
私はもう貴下の処にはゐませんよ。』



 ある地域を巡って回想や思い出などを一杯にして話す小説や随筆もあります。しかし、その地域の名前は出るけれどまたたく間に消えるものもあります。これも後者の方で、「神楽坂」を「上野」や「新宿」に変えても何の問題もありません。

 なお、若松町はとてもとても大きな場所です。何度か町や村の合併を繰り返し、女子医大など含む巨大な町になっていったようです。戦時中では陸軍が大きな場所を占めていました。下の図は若松町です。若松町

わが自然と人生|中村武羅夫

文学と神楽坂

中村武羅夫 昭和10年、中村武羅夫(むらお)氏の随筆『わが自然と人生』が出版されました。過去10年ほどの文章をまとめたものです。氏の生年は1886年(明治19年)10月4日。没年は1949年(昭和24年)5月13日で、この出版は49歳のことです。
『文章世界』の投稿から文学活動を始め、小栗風葉に師事。『新潮』の編集に参加。1925年には『不同調』を創刊。大正末の私小説論争、29年の『誰だ? 花園を荒す者は!』でマルクス主義文学批判など新興芸術派運動の中心的人物でした。

   神樂坂
 都會の散歩街としては、銀座などよりも、私に取つて、遙かに牛込の神樂坂の方が、親しみがある。
 神樂坂は、私に取つて長い間の馴染みのある町だ。私が東京へ出て來たのは、今から殆んど二十年近くも以前のことである。私は、最初、その頃麹町の三番町に住んで居た伯母の家に一先づ落着いた。私の上京したのは、故郷の北海道の山野も、畑も、村も、町も、まだ、深々と雪に埋まつて居る三月のことだつた……
 私が、初めて神樂坂を知つたのは、その年の六月、ちやうど梅雨晴れの苛ら苛らしたやうな日の光りが、かつ(、、)と眩しく照りつけた眞晝時のことだつた。私は、大町桂月の紹介狀を持つて、その頃矢來の奥の方に居た小栗風葉を訪ねて行つたのであつたが、その時通つた神樂坂の印象を忘れるととが出来ない。
 江戸名所圖繪を見ると、江戸時代の神樂坂には、一段々々の段々が附いて居る。今から約二十年ぱかり前は、まさか段々こそ附いては居なかつたけれども、勿論、今のやうな完全なアスハルトの道ではなかつたし、道幅なども、もう少し狹かつたやうに覺えて居る。

麹町 こうじまち。東京都千代田区の地名。旧麹町区の三番町は赤い太線で示しました。三番町1
その年 中村武羅夫氏は上京したのは明治40年(1907年)の21歳の時です。
奥の方 小栗風葉はこの時牛込矢来町3にいました。矢来町3は巨大な住所であり、どこに住んでいたのかわかりません。
江戸名所図絵 確かに階段ができていました。

御旅所 江戸名所図絵

江戸名所図会

アスハルト 炭化水素を主成分とする黒色の固体~半固体。ほとんどは石油精製過程で得られます。道路舗装のほか絶縁材・塗料などに利用。昭和10年、坂上はアスファルト舗装になっていました。

 狹い往來には、兩側の店のが、蔽ひかぶさるやうに突き出て居る。濡れた地べたからは苛ら苛ら暑い日光に照らされるので、むつ(、、)と暑苦しい水蒸氣が立ち昇り、狹い往來を、大勢の人々が右往左往して居る……そこへ一疋の痩犬が、ひよろひよろしながらやつて來た。私は、その時の神樂坂の息苦しいやうに狹い、しかも雜沓した光景に、よぼよぼの惨めな痩犬を點出して「痩犬」といふ文章を書いた。田山花袋氏は、その文章を讀んで、「作者のデカダン的苦悶の影が、よく出てゐる。」と批評してくれた。私が、デカダンといふ言葉を初めて知つたのは、その時だつた。
 その時分から見ると、神樂坂の面目も、なかなか變つて來た。今から約二十年以前の神樂坂は、もつと日本的な、古風な感じがあつたやうに思ふ。十四五年來、いろんな生活樣式の上に、俗悪なアメリカ文化が、非常な勢ひで取り入れられるやうになつてから、まだ、いくらかは古風な感じを持つて居た神樂坂も、西洋館の銀行などが幾軒となく出來たり、安つぽい西洋館まがひの店舗が出來たりして、大分變つて來た。道路の幅なども廣くなり、アスハルトを敷き詰めて、だんだん文化的になつて來た。
 さういふ點に厭味があると言へば、厭味がないこともないが、私は、そゞろ歩きなどする場合に、銀座などよりは、どうしても神樂坂の方が好ましい氣がする。これは何も私が、神樂坂を初めて見て以來、私の生活が、神樂坂に深い緣故がつゞいて來たからといふわけではない。一面には、さういふ親しみもあるかも知れないけれども、肴町の停留場から坂下までの間は、町幅と言ひ、家並の工合と言ひ、往来の適度なくねり(、、、)方、波打つやうな起伏――さういふ點に趣きがあつて、私は神樂坂の通りを大へん氣持のいい町だと思ふ。
 銀座のやうに電車の走る町、ちつとも曲線を持たない、真直ぐな町、あゝいふ町よりも、神樂坂の方が、遙かに私に取つては風情がある。
 ひさし。建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。(のき)
点出 画面に目立つように描き出すこと。
痩犬 国立国会図書館で調べましたが、残念ながら中村武羅夫氏の『痩犬』という文章はありませんでした。
デカダン 「衰退」を意味するフランス語から、退廃的な態度をとること
そぞろ歩き 当てもなく、気の向くままにぶらぶら歩き回ること
肴町の停留場 市営電車(チンチン電車)の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」)よりも大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
肴町

正宗白鳥|毒

文学と神楽坂

正宗白鳥2 正宗白鳥氏の『毒』です。氏の生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。『毒』は明治45年、作者が33歳になる時に出版されています。なお、差別用語や放送禁止用語になる言葉もありそうですが、原文を尊重して、そのままにしておきます。

 そして賑かな神樂坂の方へ足が向いたが、其處は緣日らしくて、平生(ふだん)よりも一層雜杳してゐた。
 彼れは次第に足を緩めて、夜店などを傍見してゐたが、毘沙門(びしゃもん)境内の見世物小屋から、客を呼ぶ皺嗄れた聲が聞えると、何氣なく其處へ近寄つた。
 左右に汚れた小屋が向合つてゐる。
 左の長い小屋には、鷄のやうな手足を備へた若い女が、さまざまの藝をしてゐる繪看板が掛つてゐる。右の小さい小屋には、入口に細長い爺さんが突立つてゐて、幕の内に鐡漿(おはぐろ)をつけた婆さんが坐つてゐる。そして婆さんの命令に應じて、幕の影から幼い細い聲が洩れて來た。
傍見 直接的なかかわりをもたずに,近くからながめていること。傍観。
境内の見世物小屋 境内に見世物小屋がありました。明治の毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日、東京名所絵図、東陽堂、1904)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画 昭和の境内を書いた図は『ここは牛込、神楽坂』第3号に書いてあります。毘沙門の境内
 この第3号の説明で、新小川町のますだふみこ氏は
 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行菩薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に『頭がよくなりますように』と無理なお願い。

 おそらくこの前にある庭に見世物小屋もあったのでしょう。

鐡漿 おはぐろ。御歯黒、鉄漿。歯を黒く染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしとなりました。

「生れましたは下谷したや竹町(たけちやう)三十番地。お手々が四つであんよ(、、、)が四つ……」
「これは新聞にも出ました因果な子供で御座います。今暫らくの壽命ですから、息のある(うち)に御覧を願ひます」と、爺さんが後から付足した。
「これは麹町(こうぢまち)二丁目鷄屋の娘、親の囚果が子に報い……」と、左の方でも木戸番が平気な顔して叫んでゐる。濃い白粉と濃い臙脂(べに)で色取った女の顏のみが幕の中に見えた。
 香取は顏を背けて逃げるやうに其處を出て、濠端へ下りた。
下谷竹町 御徒町駅を西に見て、現在は台東区台東3丁目です。昭和17年(1942年)の『最新大東京案内図』では下谷竹町
麹町二丁目 これは千代田区(以前は麹町区)麹町二丁目です。現在の地図では麹町2丁目
囚果 いんが。以前に行ったことが原因となり、その結果が現れること。
報い むくい。受けた行為に対して、同じような行為で返すこと。
臙脂 べに。べにばな(紅花)から作った染料。べに。紅花はキク科の越年草で、口紅や染料の紅を作ります。

手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎 広津ひろつ和郎かずお氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

 氏は生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。

 氏は先輩作家の近松秋江氏の質草の話を新潮社の社長から聞き、まだ売れていない宇野浩二氏に書かせると面白いと考えます。

 が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。
 広津和郎氏です。
新潮社 文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
新潮社
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
本多横丁戦前
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。清風亭1
 それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。
著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。

大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。
鈴蘭燈

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。
寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。
イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
イガグリ頭紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
11_kasuri_image01
 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。
茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子

初めて見た広津さん|尾崎一雄

文学と神楽坂

『群像』の「初めて見た広津さん」(68年12月号)で、実に15年後になりますが、続きを書いています。したがって(2)です。

 私としては志賀直哉の理解者たる広津和郎を相手に、思いきり志賀直哉について語りたかったのである。私には云いたいことがいっぱいあった。云いたいことか山ほどありながら、それを書いて発表する場をもたぬやるせなさを広津さんにぶちまけたかった。その意気込にかり立てられて、往来で未知の大先輩を呼び留めるという非礼を演じながら、いざというと舌が萎縮して何も云えなくなったのだ。
 私はそれから当分の間憂うつだった。多分ヤケ酒ばかり飲んだだろう。

 そんなことがあってから十何年のちには、広津さんともときどき会合などでお逢いするようになった。志賀先生のお宅で一緒になることもあった。それでも私は、文学青年時代にああいうことがあった、ということには絶対に触れないでいた。広津さんの方では疾うに忘れて居られるだろうが、こっちとしては、いつまで経ってもあの時の恥かしさが振り切れないのだ。
意気込 意気込み。いきごみ。さあやろうと勢いこんだ気持ち
往来 おうらい。人や乗り物が行き来する場所。道路。
疾うに とうに。ずっと前に。とっくに

 今から何年前になるか。どうも松川事件の裁判がうまくいったときだったように思うが、広津さんを囲んでお祝いの小集会があった折、私は初めてこのことをテープル・スピーチの形でしゃべった。その時記念品としてどこかから広津さんにテープ・レコーダーが贈られて、何人かの参会者のテーブル・スピーチが録音されたが、私の告白もそれに入っている。
 広津さんはやっぱり全然忘れて居られた。しかし私としては、広津さんの前でしゃべってしまったので、長年の重荷をおろしたような気持になった。

 初めてお逢いしたあの時の広津さんは、三十をいくらも出ていない年頃だったろうか。長身で、久留米絣がよく似合って、色白の顔に大きな目――あれで凝っと見つめられたときは手も足も出ない感じだった。大きな、澄んだ目だった。この人をつかまえて、自分は何を云う気だったのだろうか――私はほんとに恥かしかった。

 神楽館でお逢いした婦人は、はま夫人ではなかったように思う。筑摩書房版「現代文学大系『菊池寛・広津和郎集』」の年譜によると、大正十一年には「秘密」とか「ひとりの部屋」とか「隠れ家」とかいう作品が書かれている。次の十二年の項に「この年、松沢はまを知る」と記されている。彼れこれ思い合せると、私が神楽館に推参したのは、大正十一年のことかも知れない。だとすると広津さんは三十一歳である。
松川事件 1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。広津和郎は1953年秋、『中央公論』に「真実は訴える」、1954年春、「松川第二審判決批判」を発表、無罪を勝ち取るべく世論をリードしました。1963年9月12日、最高裁は検察側上告を棄却し、無罪が確定。
久留米絣 久留米地方で作られる木綿の紺絣
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
はま夫人 広津氏の内縁の妻。
彼れこれ かれこれ。いろいろな物事を漠然とまとめて示す意。あれやこれや。何やかや
推参 すいさん。自分の方から相手のところに押しかけて行くこと、または、人を訪問することを謙遜していう言葉

神楽坂今昔(2)|正宗白鳥

文学と神楽坂

私がはじめて寄席へ行つたのは彼等に誘はれたゝめであった。神樂坂あたりには、和良店牛込亭との二軒の寄席があつたが、前者は落語を主とした色物席で、後者には義太夫がよくかゝつてゐた。朝太夫といふ本格的の語り手ではなくつても、大衆に人気のあつた太夫が一時よく出てゐたことがあつた。私は自分の寄席ばひりも可成り功を經た時分、或る夏の夜この牛込亭の一隅で安部磯雄先生の浴衣姿を發見したので、御人柄に似合ぬのを不思議に思つて、傍へ行つて訊ねると、先生は朝太夫の情緒ある語り囗を讚美され、樂んで聞いてゐると云はれた。先生の如きも、浄瑠璃に漂つてゐる封建的人情味に感動されるのか。
 あの頃の和良店は、東京の寄席のうちでも、名の聞えた、榮えた演藝場であつて、私のはじめて行つた頃は、圓遊の全盛時代であつた。これも圓朝系統では本格的の噺家ではなかつたさうだが、大衆には人気があった。私はよく聽きに行つた。落語家の東京言葉江戸言葉が、田舎出の私にも面白く聽かれたのだ。神樂坂區域の都曾情味だけでは次第に物足りなくなって、單獨行動で、下町の寄席へも出掛けた。

彼等 この文章の前に彼等とは早稲田の法科の学生だと書いてあります。
和良店 和良店亭の設立時期は判っていません。が、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が公演し、天保年間には「わら新」で義太夫が興行をしました。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席が中心になっていきます。(詳細は和良店を)
牛込亭 牛込亭の場所は6丁目でした。。
色物席 寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。これで色物と呼ぶようになりました。
義太夫 義太夫節。ぎだゆうぶし。江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
朝太夫 竹本朝太夫。たけもとあさたゆう。1856-1933。明治-昭和時代前期の浄瑠璃太夫。
>寄席ばひり 寄席ばいり。寄席這入り。寄席にたびたび行くこと。
安部磯雄 あべ いそお。生まれは元治2年2月4日(1865年3月1日)。死亡は昭和24年(1949年)2月10日。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者。日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」。早稲田大学野球部創設者。
圓遊 2代目三遊亭 圓遊。生まれは慶応3年(1867年)7月、死亡は大正13年(1924年)5月31日。江戸出身の落語家
圓朝 初代三遊亭 圓朝、さんゆうてい えんちょう。生まれは天保10年4月1日(1839年5月13日)。死亡は明治33年(1900年)8月11日。江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した落語家。

私は、學校卒業後は、一年あまり學校の出版部に奉職してゐた。この出版の打ち合せの會を、をりをり神樂坂近邊で高級な西洋料理屋とされてゐた明進軒で催され、忘年會も神樂坂の日本料理屋で開かれてゐたので、私も、學生時代には外から仰ぎ見てゐただけの享樂所へはじめて足を入れた譯であつた。明進軒に於ける編輯曾議には、一度、高田早苗 坪内逍遙兩先生が出席された。私が學生生活を終つてはじめて世間へ出た時の集まりだから、爽やかな氣持でよく記憶してゐる。秋の夕であつた。たつぷりうまい洋食をたべたあとで、高田先生は漬物と茶漬とを所望され、西洋料理のあとではこれがうまいと、さもうまさうに掻込んでゐられた。

明進軒2

出版部 早稲田大学出版部。1886年の設立以来、多くの書籍を出版してきました。
明進軒 昭和12年の「火災保険特殊地図」では明進軒は岩戸町ニ十四番地です。なお後で出てくる求友亭は通寺町75番地でした。また神楽坂通りから明進軒や求友亭をつなぐ横丁を川喜田屋横丁と呼びます。
享樂所 快楽を味わう所

我々の部屋の外を横切った筒つ袖姿で、氣の利いた顏した男に、高田さんは會釋したが、坪内先生はふと振り返つて、「尾崎君ぢやなかつたか。」と云つた。
横寺町の先生は、この頃よくいらつしやるかね。」
と、高田さんは、そこにゐた給仕女に訊いた。この女は明進軒の身内の者で、文學好きの少女として噂されてゐた。私は、牛門の首領尾崎紅葉は、この界隈で名物男として知られてゐることに思ひを寄せた。紳樂坂のあたりは、紅葉一派の縄張り内であるとともに、早稲田一派の縄張り内でもあつたやうだ。
 私は學校卒業後には、川鐵相鴨のうまい事を教へられた。吉熊末よし笹川常盤屋求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。記憶力の衰へた今日でもまだ覺えてゐるから不思議である。こんな家へは、一度か二度行った事があるか、ないかと云ふほどなのだが、東京に於ける故郷として、故郷のたべ物屋がおのづから心に感銘してゐると云ふ譯なのか。

tutusode筒つ袖 つつそで。和服の袖の形で、(たもと)が無いこと
横寺町の先生 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。尾崎紅葉の住所は横寺町でした。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門
相鴨 あいがも。合鴨。野性真鴨とアヒルを交配させたもの
吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左図。地図は現在の地図。
笹川 0328明治40年新宿区立図書館が『神楽坂界隈の変遷』を書き、それによれば 場所は3丁目1番地です(右図)。しかし、1番地の住所は大きすぎて、これ以上は分かりません。
常盤屋 場所は不明。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、4丁目の「料亭常盤」と書いてある店がありますが、「常盤屋」とは同じかどうか、わかりません。
求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
おのづから 自然に。いつのまにか。偶然に。たまたま。まれに

神楽坂今昔(1)|正宗白鳥

文学と神楽坂

 正宗白鳥正宗白鳥氏は小説家・劇作家・評論家。生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。「塵埃」で文壇に登場。「何処へ」「微光」「泥人形」を書き自然主義文学の代表的作家になりました。
 昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書いています。

 ふとした縁で江戸川べりのアパートの一室を滞京中の住居と極めるやうになつてから、昔馴染みの神樂坂に久し振りに親むやうになつた。朝晩の散歩として、筑土の方からか飯田橋の方からか、坂を上り下りして、表通裏通を、あてもなくたゞ歩きながら見てゐると、人通りが疎らで、商店喫茶店なども賑つてゐないらしい感じがするのである。をりをりの上京に、何處へ行つても人口過剰の日本の眞相を見せつけられてゐるやうなのに、昔は山の手第一の盛り場であった神樂坂がこんなにひつそりしてゐるのは不思議である。昔榮えて今さびれた町は趣味深きものである。榮華にほこつた人の落魄した姿を見るのも興味がある。どちらにも文學的味ひがあると云へる。詩が感ぜられるのである。それで、この頃の神樂坂散歩も、一度から二度と、たび重なるにつれて、馴染みの深かつた過去の記憶がこんこんと湧き出て、現在の寂寥たる光景を、詩味豐かにさせるのである。
 坂の大通を、大勢の人が歩いてゐないから町が衰微してゐるといふのは輕率な判斷だ。兩側の商家は一通り復興して、店先は小綺麗になつてゐる。左右の裏通には、昔を今に待合茶屋が居を占めてゐるが、薄汚なかつた昔のそれ等とちがつて、瀟洒たる趣を見せてゐる。入口に骨董品見たいな手水鉢を置いて、秋草がそれを色取つたりしてゐるなんか、下宿屋然たる昔の神樂坂待合情調ではないのである。昔よりも待合の家数は多いやうだが、まだところ/”\に新築までもしかけてゐる。
 それ故、大通の人の往來が乏しかつたり、果物屋菓子屋荒物屋などの店先が賑つてゐないのを見て、土地の盛衰の判斷は出來ないので、案外この地の待合商賣なんかは繁昌してゐるのかも知れない。
 さういふ風に心得てゐながら、私は、夕方になつても、昔はぞろぞろと出盛つてゐた散歩客なんかの全くなささうなひつそり閑としてゐるのを、人間社會の榮枯盛衰の一例ででもあるやうに見倣して、空想の餌食とするのである。
江戸川 神田川の中流域。都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
滞京中の住居 この時期、氏の本宅は長野県軽井沢町でした。
筑土 神楽坂に筑土(津久戸、つくど)から来るというのは、神楽坂坂上から来る場合です。
飯田橋 1881(明治14)年にできた橋で、飯田橋は牛込区下宮比町と麹町区飯田町とを結ぶ橋でした。また目白通りと外堀通りの交差点は「飯田橋交差点」と呼んでいます。飯田橋を起点にすると神楽坂の坂下から坂上に行く場合です。
賑っていない 第二次世界大戦の直後に神楽坂は全く繁昌していませんでした。
昔は山の手第一の盛り場 昭和初期には流行っていました。
落魄 らくはく。らくばく。衰えて惨めになる。落ちぶれること。零落
寂寥 せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと。
昔を今に 昔を今に戻すような。
瀟洒 しょうしゃ。すっきりとあか抜けしている。
手水鉢 手水を入れておく鉢。参拝前の身を清めるために寺社の境内に置きました。
手水鉢
 五十餘年前、二月の下旬の或る晩、不眠の疲勞でぼんやり新橋を下りた私は、未知の同縣人の學生に迎へられて、目鏡橋まで鐵道馬車に乘り、其處から歩いて、牛込見附を通つて、神樂坂を上つて、横寺町下宿屋に辿りついた。朧ろ月に照らされた見附あたりの眺めは、江戸の名残りを繪の如く見てゐるやうであつた。坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。 兔に角東京では、私は最初牛込區の住民となり、牛込の場末の學校に通つてゐたので、第二の故郷か第三の故郷か、故郷といふ言葉の持つてゐる感じを、神樂坂あたりを見るにつけ感ぜられるのである。五十年の昔は歴史的存在のやうで、私は今神樂坂についての遠い昔の歴史のページをひもといてゐるやうな氣持になつてゐる。
五十余年前 初めて早稲田に入学したのは明治29(1896)年です。この随筆が発表されたのは昭和27(1952)年です。したがって、56年の違いがあります。
目鏡橋 実際にここでは万世橋を指します。神田須田町一丁目にある駅を降り、歩いて神楽坂に行きました。なお、目鏡橋は橋の1種で、本来は石造2連アーチ橋を指し、橋自体と水面に映る橋とが合わさって眼鏡のように見えるためです。この時点では東京駅はまだなく、中央線もありませんでした。
鉄道馬車 鉄道上を走る乗り合い馬車。1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として走り始めました。しかし、馬には糞尿をだすことが問題で、電車の運行がはじまると、多くの馬車鉄道はなくなっていきます。東京馬車鉄道も1903年(明治36年)に電化。東京電車鉄道となりました。

目鏡橋鉄道馬車停車場

目鏡橋鉄道馬車停車場

牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
横寺町 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。
下宿屋 何番地がわかればいいのですが、残念ながらこれ以上はわかりません。
朧ろ 現在は「朧」で「おぼろ」と読みます。ぼんやりとかすんでいること。はっきりしないさま。
国民之友 評論雑誌。徳富蘇峰の民友社が1887年(明治20)創刊しました。
学校 東京専門学校(現早稲田大学)です

 横寺町の私の下宿屋と目と鼻の間に紅葉山人が住んでゐた。誰に教へられたのでもなく、私は通り掛りに、尾崎德太郎といふ表札を見て知つたのだが、お粗末な家だなと、意外な感じに打たれただけであつた。紅葉の門下を牛門のなにがしと呼ぶ者もあつて、当時第一の流行作家であつた彼は、牛門の首領として仰がれてゐたのであらう。早稲田も牛込區内に屬してゐても、端つこにあつたので、私は、都會から田舎へ通學してゐるやうな氣持であつた。生れ故郷の地は溫かいためでもあつたが、私は體軀の鍛練を志して寒中足袋を穿かなかつたので、上京後もその習慣を守つてゐた。それで初春三月はじめの雪降る日にも裸足で學校通ひした。足はヒビが切れて、雪の染む痛さを覺えた。その頃の學校の教室には防寒設備はなかつたので、私などは身體を縮めて懷ろ手して講義を聽いてゐたのであつた。自分では無頓着であつたが、馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病状を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勧めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫師よりも信頼されさうな風貌を具へ、診察振りも威厳はあつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に(さかな)をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門です。
生れ故郷 正宗白鳥の出生地は岡山県でした。
曲り角 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。
文明振り 仕方・あり方。「枝ぶり」「勉強ぶり」。これが「歩きっぷり」「男っぷり」「飲みっぷり」のように「っぷり」となることも
 浅田宗伯老の藥はあまり利かなかったやうだが、「米の飯に魚をくらへ。」と云った田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。下宿屋の飯は、米は米でも、子供の時から食べ馴れた米の飯ではなかつた。下宿屋の魚は、子供の時から、食べ馴れたうまい魚ではなかつた。自分の村の沖で捕れた清鮮な魚介。自家所有の田地で實つた滋味ゆたかな米殻。私は、下宿の食膳を前にして、「これではおれの身體は、學問に堪へられないかも知れないな。」と悲觀することもあつた。だが、一歩外へ出ると、神樂坂を中心としたあちらこちらの商店には、見るからうまさうな物、食慾をそゝられる物が、これ見よがしに並べられてあつた。寺町の表通の青木堂の西洋食料品は私などの伺ひ知らない贅澤至極の飮料品であり食品であると思はれた。坂際の四つ辻の一角に屹立してゐるのは、「いろは」と云ふ牛肉屋であり、坂へかゝると、左に日本菓子屋の「べに屋」があり、右に「都ずし」あり、それからパン屋の木村屋があり、うどん屋の「春月」があつた。どれもみなうまさうだ。都會は誘惑に富んでゐたが、學資は一ヶ月に八圓か十圓に極められてゐたのだから、歩行の途上に見られる誘惑物のどれへも手は出せなかつた。さういふ覺悟をして、神樂坂といふ、生れてはじめて接觸した人世の大都會を、毎日のやうに見ながら、たゞ見るだけにしてゐたつもりであつたが、いつとなしに、自分の机の中に、木村屋の餡パンとか、(べに)()の大福餅とか、何とか屋の蓬萊豆、花林糖のたぐひが入つてゐることがあつた。蓬萊豆や花林糖をかじりながら、英語の教科書をぼりぼり讀みかじつて行くことに、云ひやうのない興味を感じてゐた。
 あの頃――日清戰爭直後――の神樂坂は、山の手第一の繁華街であつた。晩食後の散歩にも最も適した町であつた。寅の日の、毘沙門樣の緣日には、露店の植木屋の並ぶのが呼びものとなつてゐて、それを目當ての散歩は、お手軽な風流であつた。私など、この神樂坂地區の住民になつても、年少の身の、さういふ風流にはちつとも心を寄せられなかつたし、散歩のための散歩はあまりしなかつた。だけど、この緣日の夜の賑ひ、さま/”\な東京人が面白さうに歩いてゐる光景は、自分が幼少時代に幾年も、小説や新聞雜誌の記事でまぼろしに描いてゐたものよりも、陽氣で華やかで、都會人といふほこりを持つてゐる人々の群集であるやうに、私の目には映つてゐた。
滋味 じみ。栄養豊富でおいしい食べ物
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と出ています。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目を参照。

地籍台帳・地籍地図 東京

屹立 きつりつ。堂々とそそり立つこと。
都ずし 同じく「都ずし」もここで出てきます。しかし、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」ではもうありません。つまり、「都ずし」は関東大震災前になくなっていました。都ずしから玩具店、昭和27年のパチンコ店、最後におそらく「くすりセイジョー」に変わりました。なお、屋台の都寿司もあったようです。
木村屋 残念ながら絵ではもっと左の方向、神楽坂が下がるはじめにあります。詳細は木村屋
春月 春月も以下の図に書いてあります。詳細は春月で。神楽坂4~6丁目
餡パン あんパン。あずきあんを詰めた菓子パン。本店の木村屋創業者達が考案し、1874(明治7)年に銀座の店で売り出したところ大好評でした。
蓬萊豆 ほうらいまめ。源氏げんじまめ。小麦粉と砂糖で作った衣を煎った落花生の周りにまぶした豆菓子です。源平豆とも。蓬莱豆

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別れたる妻に送る手紙|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江 近松ちかまつ秋江しゅうこうは明治9(1876)年5月4日に生まれ、昭和19(1944)年4月23日に死亡し、死亡時は67歳の作家でした。では、どんな作家でしょうか。

 名前以外には思いつかず、しかし、この「別れたる妻に送る手紙」の名前はなかなかよく、おそらく擬古文を使う明治時代の作家だと思っている。なるほど、残念ながら違います。

 あるいは、秋江を「あきえ」と呼んでしまって昔の男性ではなく女性作家だと思っている。あるいは、夏目漱石や森鴎外には及びもしないけど、それでも明治時代にはまあまあ知られていて、『別れたる妻に送る手紙』などはおそらく切々とした情感がある手紙だと思っている。これも間違いです。

 一言でまとめると、近松秋江の次女、徳田道子氏が、近松秋江著『黒髪、別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫)の「或る男の変身」で、こう書いています。

 収録されている作品はすべて情痴ストーリーで、美しいラブストーリーでもなければ純愛物語でもない。
 書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。

 逆に近松秋江はこう書いています。

 『別れたる妻…』は、紅葉の『多情多恨』と『金色夜叉』のに棄てられた貫一の心とを合したものです。
「新潮」 明治43年9月1日、近松秋江全集第9巻429頁)

 う~ん。なんとまあ。『金色夜叉』に匹敵する小説と考えているんだ。さすがに昭和5年にはこの豪語はなくなります。

   文筆懺悔・ざんげの生活
 自分が、長い間に書いて来た物で、あんなことを書くのではなかったと、今日から回顧して、孔あらば、入りたい心地のするものが、私には数多くある。どれも是れも、そんな物ばかりである。
 一体自分は、以前から、既に筆を持って紙にのぞんでゐる時に、非常な懐疑的態度に襲はれてゐる方で、(こんな物を書いてゐて、それでも好いのかなあ)と、幾度となく反省してみる。その為に筆が鈍るのである。尤もそれは、専ら芸術的立場からの批判であったが。
(「中央公論」昭和5年1月。近松秋江全集第12巻112頁)

 本人の自画像がとてもかわいい。真剣なものをもっと書けば良かったのに。『別れたる妻』なども真剣ですが、真剣な方角を変えたものがもっとあれば良かったのに。晩年は歴史物に流れていきました。

宇野浩二|大正8年3月~9年4月

 宇野浩二氏は大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「(みやこ)館」から撤去します。これは「宇野浩二全集 第十二巻 年譜」でそう書かれています。つまり

大正八年(一九一九) 三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿
大正九年(一九二〇) 四月、牛込袋町の都館を去って、江口渙の紹介で、彼の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町一七番地に一軒の家を構えた。

 わずか1年で、下宿は2軒になるわけです。では「神楽館」から「都館」に移った時間関係はどうなるのでしょう。水上勉氏の書かれた『宇野浩二伝 上』によると、浩二は五月に「都館」に引越ししたと書き、また新宿区の「区内に在住した文学者たち」では 、大正8年3月~同年4月に神楽町【神楽館】、大正8年5月~大正9年4月に袋町【都館】としています。正しいのでしょうか。水上勉氏著の『宇野浩二伝 上』を横に置いて見てみましょう。

 七年の末から八年はじめまで、浩二は「蔵の中」が発表されるまで、このような仕事をして待機していたわけだが、その金で三月末、牛込神楽坂の「神楽館」の部屋を借りて、赤坂にいた母を呼び寄せていた。浩二は母のために、今度は一と部屋を別にとった。それは来客が多かったせいもあるが、いくばくかの収入があったからでもあろう。ところが間もなく、この下宿へ広津和郎氏がやってきた。広津氏もまた転々していたのである。浩二の母は、浩二と広津氏の下着をいつもいっしょに洗濯した。二人は、お互いの褌をあべこべに使ったりした。
(『宇野浩二伝 上』244頁)


蔵の中 大正8(1919)年、28歳で宇野浩二氏は『蔵の中』を書きました。質屋の蔵で着物の虫干しをした男が書いた女たちの思い出です。これは近松秋江の実話をもとに作った小説でした。
このような仕事 翻訳で下訳すること。下訳者が最初の翻訳を行い、それから翻訳者に渡って、チェックして必要があれば書き直します。
神楽館 神楽坂2丁目にある下宿

 これで「三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿」したんだとわかります。さらに12月に、水上勉氏はこう書いています。

 浩二はこの十二月、まだ牛込の「神楽館」にいた。キョウも別室にいた。広津氏も同宿していた。すでにきみ子の自殺(浩二はそのようにいう)が材料になっているので、この作品は死の報が入った後書かれたことが明らかである。浩二にとってきみ子は、ヒステリイ女で重荷ではあったが、物心両面に援けを受けた相手である。(中略)そのきみ子が、別れて二年たつかたたぬまに死んだのだ。しかも自殺である。浩二にとってこれは悲痛な事件である。すくなくとも、大和高田での祖母の死にあれほどの衝撃を受けている浩二にとっては、きみ子の死は他人の死とは思えようはずもない。
(『宇野浩二伝 上』251頁)

この十二月 この十二月は大正8年の12月しかありません。大正7年はまだ神楽坂に来ていませんし、大正9年では下谷区にでています。大正8年12月には、依然「神楽館」にいたというのです。
キョウ 宇野浩二の母。
きみ子 伊沢きみ子。宇野浩二氏を悩まします。しかし、横浜で西洋人の家の小間使をしていた時に、猫イラズ入りの団子を食べて死んでいます。

 水上勉氏は正月過ぎにこう書いています。

 正月過ぎに東京の「神楽館」へ差出人不明の投書がきて、「ゆめ子はお蔭様にて大評判に候」などとあった。浩二はその下諏訪かららしい投書をみると、また仕事を持って出かけて行くのである。ところが鮎子に会いたし会いにくしといった気持から、いつか鮎子に紹介され、演芸会でも会って話した小竹を呼ぶ。そして小竹が鮎子と違い看板持ちの自由な芸者であることも手つだって、急速に二人の仲は進展してしまうのだ。
(『宇野浩二伝 上』274頁)

正月過ぎ これは9年1月です。9年1月にも「神楽館」に連絡したわけです。どこに住んでいるかはわかりません。
ゆめ子 小説ではゆめ子。実生活では鮎子。宇野浩二氏の「山恋ひ」から引用すると『私は原稿を書き疲れると、土地の芸者なぞを呼んでにやにやしてゐたものだつた。その中の一人に、ゆめ子といふ、今年21歳になる、芸者屋の娘兼主人で、養母といふ実の叔母に当る者が別に一軒芸者屋を出してゐて、自分は自分で三人の抱へ子と一人のお酌とを就いて、そして自分も芸者をしてゐるといふ女だつた。何といふことなく私はその女が気に入つたのであつた』
鮎子 本名は原とみ。大正八年九月、浩二は下諏訪の芸者鮎子と初めて会っています。水上勉『宇野浩二伝 上』によれば「当時21歳で、芸妓屋の娘であった。しかし、娘といっても、実の母の妹にあたる叔母の養女となって芸者に出ていた。この芸妓屋には三人の抱え妓がいた。鮎子は当時旦那持で、当歳の子を叔母に預け、芸者はそう好きでもなかったのに座敷へ出なければならない事情にあった。容貌はさして美人というのではないが、かわいらしい受け唇のしゃくれた、小づくりな顔立ちでで、気立てのいい妓だったが、客の前へ出ても自分から喋るというようなことのない無口な性質だった」と書いています。
小竹 本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者。28歳。年齢は鮎子より7歳も上になっています。
看板持ち 芸者として置屋から独立して営業すること。置屋の看板を持つ事から俗称「看板持ち」といいました。「自前になる」

 5月、水上勉氏はこう書いています。5月は大正8年5月でしょうか? それとも9年5月でしょうか。残念ながら、9年5月は新しい場所に引っ越ししていますから8年5月しか残りません。

 この何度目かの諏訪旅行から浩二が帰って半月目の五月初旬、突然小竹は東京へ来る。浩二は小竹に押し切られて結婚してしまう。鮎子という恋人がありながら、その姐芸者と勢いにまかて結婚してしまう経緯は、「一と踊」(「中央公論」大正十年五月号)に詳しい。

 (略)五月、―――彼女は、彼女の家財道具をひきまとめて、彼女は、もと東京の者であつたが、十年(かん)その町に住んでゐたのである、彼女にとって、十年間の浮世の町、私は今日かぎりさらりと身をあらふのだ、さらば、さよなら、と、惜し気もなくその町をひきあげてきたのである。されば、その秋におこなはれた国の国勢調査の日、彼女は、けろりとした顏をして、生まれた時から私につれそうてゐたやうな顔をして、調査員にむかつて、戸籍にもありますとほり、私はなにがしの妻でございます、としやあしやあとして述べたことにちがひない。彼女は、私の家にきて以来、あんな山の中の町、鬼にくはれてしまへ、と思つて、更にふりむかないのである。

 村田キヌが東京へ押しかけてきた先は、牛込袋町の「都館」であった。浩二は神楽坂の「神楽館」からここへ越した矢先で、もちろん母のキョウもいっしょにいた。そこへ小竹は押しかけた。浩二は、それをまったく予測できなかったわけはない。下諏訪で、東京へ行ってもいいかと押されて許諾したか、それとも、押しかければ迎え入れそうな返事をしたかどちらかと判断される。小竹は袋町の下宿へ来て、そこに浩二の母がいるのを見て困ったにちがいない。浩二は、さっそく家さがしに廻る。江口渙氏の紹介で、氏の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町十七番地の一軒へ越していくのである。
(『宇野浩二伝 上』277頁)


5月初旬 五月初旬は今度は大正8年5月です。しかし、下谷区上野桜木町十七番地に移転するのは大正9年4月です。あわてて探したのに11か月も探している。どこか何かがおかしいと思いませんか。
彼女 小竹のこと。
その町 下諏訪のこと
村田キヌ 小竹の本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者にあたる。
牛込袋町の都館 牛込袋町は別名藁店わなだな。神楽坂5丁目から南に行くと袋町に行く。図を参照

牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、牛込館と都館支店はなくなっています。

江口渙 えぐちかん。本名は渙(きよし)。生年は明治20(1887)年7月20日、没年は昭和50(1975)年1月18日。87歳。東京帝大中退。大正、昭和時代の小説家、評論家。夏目漱石門にはいり、「労働者誘拐」で注目。マルクス主義に接近、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に参加した。

結局、いつから神楽館から都館に入ったのか、私には正確ににわかりません。