明治45(1912)年4月13日、啄木は26歳で死亡しました。
明治45(1912)年5月1日、北原白秋は『朱欒』(2巻5号)の「余録」で、
○石川啄木氏が死なれた。私はわけもなく只氏を痛惜する。ただ黙つて考へやう。赤い一杯の酒が、薄汚ない死の手につかまれて、ただ一息に飲み干されて丁つたのだ。氏もまた百年を刹那にちぢめた才人の一人であつた。 |
ここでの『朱欒』は文芸雑誌の名前ですが、本来のサンボア(zamboa)はポルトガル語からきたもので、インドネシア由来の常緑小高木を示します。しかし、サンボアよりも同じ意味のザボンや文旦のほうがはるかに普通でしょう。
『朱欒』は明治44年11月から大正2(1913)年5月まで19冊を発行しています。編集は北原白秋。後期浪漫派の活躍の場となりました。
また、大正15年1月、『フレップ・トリップ』(アルス刊、昭和3年。白秋全集19巻「詩文評論5」、昭和60年、岩波書店)で北原白秋は書き
二十一二の頃、さうだ、私が石川啄木に逢つてまだほんの二三度目の時だったと思ふ。 「盛岡の在です。」と彼は答へた。 「さうですか、奥州や北海道は、僕の国では鬼でもゐさうなところだと思つてゐますよ。五六百里も北だからね。」それはほんの何の気もなく、寧ろ親和の心で私は微笑して云つたのが、それが彼の性来の癇癪にきつく障つたらしい。私には答へないで、すぐに、隣りにゐる人に向つて、 「君、君も鬼のゐる国の人だね。」 と両肩をスツと怒らして云つた。それで私は吃驚して、 「君、君、僕の国だつて熊襲だからね。」 と大真面目であつた。 「ぢやあ、鬼の一種だね。」 「うむ、さうだよ、君の方から見れば鬼の一種だらう、やつぱり。」 あの頃も何かと云へば反抗心の強い、負けずぎらひの少年だつたな、啄木は。尤も細君は持つてゐたが。 |
なんとなく、2人の人となりや人柄の違いがわかるような気がします。胸を張っている啄木と、おどおどする白秋。
石川啄木は明治19年2月20日で東北の岩手県で生まれ、北原白秋は明治18年1月25日で九州の福岡県で生まれています。年齢は一歳しか違っていません。ちなみに、北原白秋は昭和17年の57歳のときに、糖尿病のため死亡しています。