祖父も祖母も顚げるやうに一度に蹶起きて、蚊帳越に面を揃へて自分を視る。 「病人は様子が善くないやうだから、病院へ送ることにしたよ。然し、心配するほどのことは無い。」 「避病院へかい。」 と祖母は呆れる。祖父は戦々兢々と、 「大丈夫かい、大丈夫かい。」 と轟く胸を鎮めかねてゐた。 「大丈夫だよ。明朝まであゝして置くと、却つて険難だから、手後にならない内に送院した方が可いのさ。それから、今に巡査や警部が来るから、此が往来になるかも知れないから、二階へ行つてお寝なさい。」 祖父母は益驚いて、はや蚊帳を出やうとする。 「少し待つて、今二階を片附けるから。」 と自分は二階へ昇つた。K氏は在らぬ。病室に春葉を呼ぶ声がした。国手は第二回の皮下注射を施してゐるのであつた。 |
[現代語訳]祖父も祖母もころげるように一度に跳ね起きて、蚊帳ごしに顔をそろえて自分を見る。 「病人の様子がよくないようだから、病院へ送ることにしたよ。しかし、心配するほどのことはない。」 「伝染病院へかい。」 と祖母はあきれる。祖父は戦々兢々として、 「大丈夫かい、大丈夫かい。」 ととどろく胸を静めかねていた。 「大丈夫だよ。明朝までああしておくと、かえって不安だから、手遅れにならないうちに病院に行った方がいいのさ。それから、今に巡査や警部が来て、ここは他人のほうが大勢来るかもしれないから、二階へ行っておやすみなさい。」 祖父母はますます驚いて、はや蚊帳からでようとする。 「すこし待って、今、二階を片付けるから。」 と自分は二階へあがった。K氏は不在。病室に春葉を呼ぶ声がした。医師は二回目の皮下注射をしていたのであった。 |
避病院 以前は法定伝染病患者を隔離する伝染病院を避病院と呼びました。現在は感染症法で規定する感染症病院で、避病院とはいいません。東京23区では駒込病院、荏原病院、墨東病院、豊島病院の4病院で、うち駒込病院、荏原病院、墨東病院は避病院でした。
険難 けんのん。剣呑。危険な感じがする。不安を覚える様子。
往来 おうらい。行ったり来たりすること。行き来。人や乗り物が行き来する場所。
はや すぐに。さっさと。はやく。ある事柄の実現が意外に早い。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
国手 こくしゅ。医者を敬っていう語。名医。上医。ここではK氏のこと。
皮下注射 おそらくカンフル注射でしょうか。