少々話が通りすぎた、あとへ戻らう。 其の日、万ちやんを誘つた家は、以前、私の住んだ南榎町と同町内で、奧へ辨天町の方へ寄つて居る事はすぐに知れた。が、家々も立て込んで、從つて道も狹く成つたやうな氣がする。殊に夜であつた。むかし住んだ家は一寸見富が着かない。さうだらう兩側とも生垣つゞきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて李の樹が幾本も茂つて居た。李は庭から背戸へ續いて、小さな林といつていゝくらゐ。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のやうな花盛りを忘れない。雨には惱み、風には傷み、月影には微笑んで、淨濯明粧の面影を匂はせた。…… |
[現代語訳] 少々話は通りすぎた。もとに戻ろう。 その日、この万ちゃんの家は、以前、私が住んでいた南榎町と同じ町内だが、弁天町の方へ近いことはすぐにわかった。が、家々は立て込んでいるし、したがって道も狭くなったよう気がする。ことに夜だった。むかし住んだ家はどこなのか、ちょっと見当はつかない。そう、両側とも生垣つづきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて、すももの木が何本も茂っていた。すももは庭から裏門まで続いて、小さな林といってもいいぐらい。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のような花盛を忘れない。雨では悩み、風では腐敗し、月影にはほほえんで、きよらかで美しいよそおいの面影を匂っていた。…… |
南榎町 弁天町。右図を
背戸 家の裏口。裏門。背戸口
浄濯 きよらかで洗う。
明粧 美しいよそおい。美しい化粧。
唯一間よりなかつた、二階の四疊半で、先生の一句がある。
紛胸の乳房かくすや花李
ひとへに白い。乳くびの桃色をさへ、蔽ひかくした美女にくらべられたものらしい。……此の白い花の、散つて葉に成る頃の、その毛蟲の夥多しさと言つては、それは又ない。よくも、あの水を飮んだと思ふ。一釣瓶ごとに榎の實のこぼれたやうな赤い毛蟲を充滿に汲上げた。しばらくすると、此の毛蟲が、盡く眞白な蝶になつて、枝にも、葉にも、再び花片を散らして舞つて亂るゝ。幾千とも數を知らない。三日つゞき、五日、七日つゞいて、飜り且つ飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかゝる風情を見せたのである。 |
[現代語訳] ただ住んでいるのは一間だけだった。二階の四疊半で、先生の一句がある。 紛胸の乳房かくすや花李 (膨らんだ胸の乳房を隠すのか、花すもも) ひとえに白い。乳首の桃色さえ、おおいかくした美女に比べたものらしい。……この白い花が、散って葉になる頃の、その毛虫のおびただしさといっては、もうひどい。よくも、あの水を飮んだと思う。一釣瓶ごとに榎の実のこぼれたような赤い毛虫をいっぱいに汲みあげた。しばらくすると、この毛虫が、ことごとく真っ白な蝶になって、枝にも、葉にも、再び花片をちらして舞ってみだれていく。数は何千あるのか、わからない。三日続き、五日、七日続いて、蝶はひらめき、飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかかる風情を見みせたのである。 やがて実る頃になる。――特に、南の納戸の濡縁にあった垣根には、見事な巴旦杏があって、おおきな実と言い、色といい、艷なるペルシャの女の爛熟した裸身のごとくに匂っていた。今では早速千匹屋でも卸そうなものだが、例の川柳では、(地女は振りもかへらぬ一盛り。訳すと、その土地の女なら無視する、これぞ若さだな)。つまり、意気のさかんな青年は、縁日のトウモロコシは買って食べても、家でなったすももなんか食いはしない。一人として他人様の娘などには、こだわる人はなかったのである。 |
紛 物事がもつれる。
ひとえ そのものだけだ。重ならないこと
翻る ひるがえる。風になびいて揺れ動く。ひらめく。
就中 なかんずく。多くの物事の中から特に一つを取り立てる様子。とりわけ。中でも。特に。
籬 ませ。竹や木で作った、目の粗い低い垣根。多く、庭の植え込みの周りなどに作る。
巴旦杏 はたんきょう。スモモの一品種。果実は大きい。熟すと赤い表皮に白粉を帯びて、甘い。食用。
地女 じおんな。その土地の女。商売女に対して、素人の女
一盛り ひとさかり。一時期盛んであること。若さの盛んな一時期。
こだわる 気にしなくてもいいようなことを気にする。
が、いまは開けた。その頃、友だちが來て、酒屋から麥酒を取ると、泡が立たない、泡が、麥酒は決して泡をくふものはない。が、泡の立たない麥酒は稀有である。酒屋にたゞすと、「拔く時倒にして、ぐん/\お振りなさい、然うすると泡が立ちますよ、へい。」と言つたものである。十日、腹を瀉さなかつたのは僥倖と言ひたい――今はひらけた。 たゞ、惜しい哉。中の丸の大樹の枝垂櫻がもう見えぬ。新館の新潮社の下に、吉田屋と云ふ料理店がある。丁度あの前あたり――其後、晝間通つた時、切株ばかり、根が殘つたやうに見た。盛の時は梢が中空に、花は町を蔽うて、そして地摺に枝を曳いた。夜もほんのりと紅であつた。昔よりして界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店の光照寺に一樹、とともに、三枚振袖、絲櫻の名木と、稱へられたさうである。 向う側の湯屋に柳がある。此間を、男も女も、一頃揃つて、縮緬、七子、羽二重の、黒の五紋を着て往き來した。湯へ行くにも、蕎麥屋へ入るにも紋付だつた事がある、こゝだけでも春の雨、また朧夜の一時代の面影が思はれる。 つい、その一時代前には、そこは一面の大竹藪で、氣の弱い旗本は、いまの交番の處まで晝も駈け拔けたと言ふのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が授けられて開拓した。藪を切ると、蛇の棄て場所にこまつたと言ふ。小さな堂に籠めて祭つたのが、のちに倶樂部の築山の蔭に谷のやうな崖の臨んであつたのを覺えて居る。池、亭、小座敷、寮ごのみで、その棟梁が一度料理店を其處に開いた時のなごりだと聞いた。 |
[現代語訳] が、今では開けた。その頃、友だちが来て、酒屋からビールを取ると、泡が立たない。ビールは泡を食べるのはないが、泡の立たないビールは稀だ。酒屋にただすと、「抜く時にさかさにして、ぐんぐん、ふりなさい。そうすると泡が立ちますよ、へい。」といわれた。十日間、腹をくださなかったのは僥倖といいたい――今は開けた。 ただ、惜しいことがある。中の丸の大樹のしだれ桜がもう見えない。新館の新潮社の下に、吉田屋という料理店がある。ちょうどあの前のあたり――その後、昼間通った時、切株ばかりが見えて、根だけが残ったように見えた。盛りの時は梢が中空に、花は町をおおい、そして地摺りの文様には枝を使っていた。夜もほんのりと紅色だった。昔から界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店の光照寺に一樹とともに、三樹合わせて、三枚振袖として、糸桜の名木と、称えられたそうだ。 向側の銭湯に柳がある。このあいだ、少し前だが、男も女も、そろって、縮緬と羽二重の絹織物、金工技法の魚々子、さらに黒の五紋を着て町に出た。湯へ行くにも、そば屋へ入るにも紋着だった。ここだけでも春の雨、また朧夜という一時代が思い出される。 その一時代前には、一面の大竹藪で、気の弱い旗本は、いまの交番のところまで昼も駆け抜けたというのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が工事を請け負い、開拓した。藪を切ると、何匹も蛇が出てきて、捨てる場所がなく、困ったという。小さな堂にまとめて祭ったのだが、矢来倶楽部の築山の影に谷のような崖があり、堂はそこにあったと覚えている。その棟梁は池、東屋、小座敷、茶室などが大好きで、この堂も一度料理店をそこに開いた時のなごりだと聞いた。 |
僥倖 ぎょうこう。思いがけない幸い。偶然に得る幸運
惜しい おしい。大切なものを失いたくない。むだにすることが忍びない。もったいない。
地摺り じずり。生地に文様を摺り出した織物。地に藍や金泥で模様を摺り出すこと、その織物。
曳く ひく。地面をこすって進むようにする。引きずる
となえる 唱える。称える。名づけていう。呼ぶ。称する。
縮緬 表面に細かい縮) がある絹織物。縦糸に撚りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織した。
七子 ななこ。魚々子。魚子、七子、魶子とも書く。金工技法の一つ。切っ先の刃が小円となった鏨を打ち込み、金属の表面に細かい粟粒をまいたようにみせる技法。
羽二重 日本の代表的な高級絹織物の一種。生糸を用いて平織か綾織にしたのち、精練と漂白をして白生地とし、用途によって無地染や捺染模様染にする。
五紋 着物に付いている家紋の数。一つ紋は家紋は背中心に1つ。三つ紋はさらに両後ろ袖。五つ紋はさらに両胸。紋が増えるほど格が高くなり、黒留袖と喪服は必ず五つ紋。写真は五つ紋。
紋着 紋をいれた着物。「格」が最高な紋着は礼装着(第一礼装)で、打掛、黒留袖、本振袖、喪服など。
授かる さずかる。神仏や上位の人から、大切なものを与えられる。授けられる。 学問や技術を師から与えられる。
堂 神仏を祭る建物。
籠める こめる。物の中にいれる。詰める。表に出さないよう包み隠す。閉じこめる。
亭 眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物。あずまや。
寮 茶室としてつくった小さな建物。数寄屋。江戸の富裕町人の別宅。下屋敷。
ごのみ 好み。名詞の下に付いて、複合語をつくる。好きなものの傾向。ある時代や、ある特定の人に好まれた様式
棧の亭で、遙にポン/\とお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰も居ない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹を敲く音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのださうである。眉唾。眉唾。 尤もいま神樂坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食はねえか」と、醉ぱらつて居るから盤臺は何處かへ忘れて、天秤棒ばかりを振りまはして歩行いた頃で。…… 矢來邊の夜は、たゞ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーン/\と牛の跫音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――眞夜中には――鰯こう――と三聲呼んで、形も影も見えないと云ふ。……怪しい聲が聞えさうな寂しさであつた。 |
[現代語訳] 架け渡した橋の東屋で、遙かにポンポンとお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰もいない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹をたたく音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのだそうである。ご用心。ご用心。 もっともいま神楽坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食わねえか」と、酔っ払っているから魚を運ぶ盤台はどこかに忘れて、天秤棒だけを振りまわして歩いた頃で。…… 矢来あたりの夜は、ただ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーントーンと牛の足音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――真夜中には――鰯こう――と三回、売り子が売る声が聞こるが、形も影も見えないという。……怪しい声が聞こえそうな寂しさだった。 |
桟 サン。かけはし。険しいがけなどに、架け渡した橋。かけはし
はるか 遥か距離が遠く隔たっているさま
灰吹 タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
眉唾 まゆつば。眉に唾をつければ狐や狸にだまされないと信じられたことから、だまされないように用心すること。信用できないこと。真偽の疑わしいこと。
盤台 はんだい。ばんだい。板台。半台。魚屋が魚を運ぶために浅くて大きな楕円形か円形の桶。比較的小型の円形のものはすし飯を作るのに用いる。
天秤棒 両端に荷をかけ物を運ぶための棒。中央を肩にあてかついで運ぶ。天秤とも。
榎町 左図を参照。
いわしこう 鰯こう。後半に「鰯こ」と書いているところもあります。「…こ」「…っこ」は①まだ一人前でない状態の人物や動物などで、乳幼児、ひな、幼虫など。たとえば「売り子」「おばあさんこ」「売れっ子」「江戸っ子」など。②特定の状態にいる人物や動物、物品で、たとえば「振り子」「根っこ」など。いわしを売っていた売り子が「いわしこ」「いわしこう」と声を掛けながら売っていたのでしょう。三浦哲郎が書いた『笹舟日記』の随筆「鰯たちよ」(毎日新聞、1973年)では「鰯っこ」で出ています。家で食べる食品としての鰯なのです。