芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 22.鎌倉海道すじにあった沓掛桜」では……
鎌倉海道すじにあった沓掛桜 (矢来町1から11) 酒井家屋敷内(場所不明)には、沓掛桜(くつかけざくら)という彼岸桜の古木があった。昔はこの屋敷内を奥州街道(鎌倉海道ともいう)が通っていて、旅人がこの桜の下で休み、すり切れたわらじを掛けていく風習があったために名づけたものだという(戸塚28参照)。 〔参考〕 東京名所図会 |
矢来町1から11 これは大正時代の住所。昭和5年には、酒井家屋敷は矢来町1から111までと細分化され、番号は増えています。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩に至る街道。現在の「奥州街道」は江戸千住が出発点なので、この屋敷を通りません。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還、鎌倉道。「この屋敷内を鎌倉街道が通っていて」は、ありえます。
東京名所図会 新撰東京名所図会。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
では、この原本である東陽堂編『新撰東京名所図会』第41編(1904、明治37年)を見てみます。
〇沓懸桜 彼岸桜なり、花特に美なり、古木なり、沓懸の異名は往時街道の時、旅人木陰に憩ひ、切れたる草履を梢に懸けて立ち去る者多し、故に名とすと、一里塚の目印なりき、此桜近年まで、花を発きたりしも、富士見台の撤壊せらるゝに及び、可惜、名木を失ひぬ。 |
梢 こずえ。木の幹や枝の先。木の先端。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。
発く 音は「ひらく」。意味は「でる。生じる。起こす」
富士見台 これは「沓懸桜」の前項で出ています。(下を)
撤壊 てつかい。とり壊す。
可惜 あたら。惜しくも。残念なことに。あったら。
〇富士見台 日下が池の西にありき、高さ、二間余、昔此所に二階建の茶屋ありしが、享保年間、火災に類焼し、再建せず、此台より富士山の眺望、殊に優れたり、因て名とす、遠く八王子秩父の連山、近く目白関口の田畑民家見ゆ、台に紅葉多し、高雄の種を移し栽う、晩秋錦を織る、往年比辺甲州街道にて一里塚の跡とも云ひ伝へたり。 |
茶屋 ちゃや。旅人などに茶や和菓子を提供し、休息させる店。甘味処としても発達した。茶店。
享保年間 1716年から1736年まで
目白関口 文京区の関口・目白台エリアで、神田川沿いに位置し、歴史ある庭園等を多数有する、水と緑があふれる所。
錦 にしき。にしきのように美しい。「にしき」は「金糸や色糸などで模様を織り出した絹織物」
甲州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸城半蔵門から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場がある。
沓懸桜は酒井家の屋敷の中にあったと判断しても、まず間違ってはいないでしょう。酒井家屋敷は江戸時代ではおそらく一般庶民には立入禁止になっていて、「往時街道の時」というのは、それ以前の戦国時代の時で、まだ原っぱや水田、あるいは町屋があっても自由に動ける環境でした。また、ここには沓懸桜(ヒガンザクラ)もあったはずです。奥州街道や甲州街道については戦国時代なので、これら街道はまだ不完全でした。ただし、鎌倉時代に成立した鎌倉海道=鎌倉街道はあったといえそうです。
そして、酒井家の屋敷ができると、竹矢来の塀をこえて満開の沓懸桜や富士見台は外の人々にも見えていたはずです。それが1716〜1736年に、火災が起こり、富士見台がなくなった時に、一緒に沓懸桜もなくなりました。また「三抱えもある桜の大木があり、沓懸桜と呼ばれていた」と『新編若葉の梢』(海老沢了之介、新編若葉の梢刊行会、昭和33年)。
この『新撰東京名所図会』第41編は1904年に出ていますから、この沓懸桜が消えたのは『図会』よりも170〜190年もの昔でした。
富士見台は一里塚に似た丘の上で、しかも「日下が池」の西にあったようです。下図は明治16年の参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」ですが、そんな場所は2か所ありました。