徳田秋声氏の『黴』37章(1911年)では、この「先生」の臨終の様子をあっさりと書いています。もちろん「先生」は尾崎紅葉氏です。(青空文庫から)
三十七 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつ鎮まって来ると、先生は時々近親の人たちと語を交しなどした。その調子は常時と大した変りはなかった。 興奮――むしろ激昂した時の先生の頭脳はいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、啜りあげるような声でいろいろのことが叫び出された。 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調に復った。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸を医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。 「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑んだ。 「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、曇んだ目にじろりと見廻した。 「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。 腰に絡りついている婦人連の歔欷が、しめやかに聞えていた。二階一杯に塞がった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。 先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。 |