伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。
硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波、広津柳浪、川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。
玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、 「先生、先生」と口々に呼んだ。 紅葉は目を見開いた。そして言った。 「まづい面を持つて来て、見せろ。」 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「泉です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。 「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。 |
玄関の三畳 後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば
半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ |
と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は
畳二枚に板敷1畳分の玄関 |
と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では
面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである |
と書いています。図はここにあります。
七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声は正しいと思います。「十千万堂塾」や「詩星堂」に入った人は風葉、春葉、秋声の3人に加えて、白峯、紫明、凉葉でした。これがそうでしょうか。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。
「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、 「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、 「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い餡のようなものを食べたいと言うので、金鍔を一口食べさせた。 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、 「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。 「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。 |
カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在なくなった。
金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子
そのあとで紅葉が、思案に、 「石橋、是非解剖してくれ」と言った。 思案が当惑して口ごもると、 「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。 紅葉が言った。 「石橋、曇天だな、なに、雨が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」 そして彼は顔をしかめた。 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見水蔭や川上眉山や広津柳浪や丸岡九華たちがまた駆けつけた。外に長田秋濤、斉藤松洲、角田竹冷などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、 「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。 |
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子