外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

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