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神楽坂演芸場(補遺)と千葉博己氏

文学と神楽坂

地元の方からです

神楽坂3丁目にあった「神楽坂演芸場(神楽坂演舞場)」について、このブログの記事の補遺として調べました。

この場所には明治4年、出雲松江藩の第10代藩主であった松平定安伯爵の神楽坂邸が作られました。

牛込区史編纂会編『牛込町誌 第1巻』(大正10年)に、その後の経緯が記されています。

 当演芸場の所在地は明治29年まで松平伯爵の邸なりしが、同年貸地となるに及び、石本寅吉氏ここに席亭を建築し石本亭と称せり。
 その後、桜井某の経営に移るや若松と改称し、さらに神田の興津氏これを買い受け神市場と称せり。
 大正6年5月、現府会議員千葉博己氏の手に移るや神楽坂演芸場と改め今日に及べるなり。
(新字新カナで適宜改行、以下同様)

「石本亭」→「若松」→「神市場」→「神楽坂演芸場」と変遷したことになります。前身の2つの寄席は、このブログの別の記事に出てきます。

他の資料——前田曙山編「東洋大都会」(石橋友吉、明治31年)と金子佐平編「東京新繁昌記」(東京新繁昌記発行所、明治30年)——を見ると、「石本亭」と「若松亭」の寄席が同時にあったというのが正しいようです。

また神市場は正しくは「神市場亭」で、『交通及工業大鑑』によれば浪花節の定席でした。

神楽坂演芸場になってからは落語の一流の寄席として知られます。たとえば国民年鑑の記事があります。

金語楼一派の牙城とする神楽坂演芸場は(昭和)6年夏、大衆興業を標榜して入場料金10銭の値安興業を断行して大当たりを取るや、これに刺激されて市内の一流寄席それぞれ入場料を引き下げ従来の約半額となった……(昭和6・9・3)

昭和9年7月、放送局が寄席の中継放送を行うこととなり、まず第1回を上野の鈴本亭、次いで神田の立花亭、神楽坂演芸場等にこれを実行したところ。いずれも近年まれなる大入りを占め……

名称を「神楽坂演舞場」に変えてからもラジオ放送は行われました。当時の写真が残っています。演者の春風亭柳好(野ざらしの柳好)の右前に白い四角いマイク、左横は黒い火鉢が見えます。

神楽坂演舞場。日本放送協会編「日本放送協会史」(日本放送協会、昭和14年)

映画年鑑(昭和18年)では、神楽坂日活(現、スーパー「よしや」)や牛込館とならんで映画館として記載されています。定員は382人でした。上野には「鈴本キネマ」もあり、落語を演じにくくなっていたことが想像できます。

実業家で演芸プロデューサーでもあった秦豊吉は、「昭和の名人会」(自己出版、昭和25年)の中で次のように書いています。

(昭和)18年の3月からは、神楽坂演芸場にも(東宝)名人会を開催することにした。(中略)
神楽坂演芸場は(名人会の)開場約1カ年で、(昭和)19年4月15日焼失した

一般に神楽坂の空襲は昭和20年4月の城北大空襲、5月の山の手大空襲とされています。その前年に、別の理由で寄席が失われていたのかも知れません。

最後に神楽坂演芸場のオーナーであった千葉博己氏について触れておきます。千葉氏は多くの顔を持つ人だったようです。

新聞記者から政友会系の東京府会議員となり、後に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは無関係)社長など複数の企業の役員を務めました。(昭和新聞名家録 昭和5年、日本新聞年鑑 大正14年)

自宅は矢来町20-21番地(現在の120121番地)。

矢来町120と121番地 牛込中央通り


神楽坂演芸場のほか、牛込会館の取締役や鑑査役でもありました。小石川の紅梅亭という寄席も経営していたようです。

千葉知覺(智覺)としている資料もあり、これが号だったのでしょう。

さらに調べると上宮比町(神楽坂4丁目)に待合「御歌女」、若宮町には妻の千葉おと氏が経営する待合「おかえ」もありました。

昭和15年の神楽坂演舞場の経営者は「千葉をと」の名があります。演芸場の最後を見届けたように思います。

出羽様下 再考

文学と神楽坂

 地元の方からです。

 東京は坂と谷の町です。数多くの崖があり、その高低差が「○○上/下」という地名になった場所が多くあります。たとえば千代田区の「九段下/上」「明神下」、新宿区の「馬場下」「池ノ上」などです。神楽坂周辺では「赤城下」「矢来下」などが坂や崖の下の地名です。
 このブログには「出羽様下」という、今では聞かなくなった地名が出てきます。
 これについて、改めて考察します。

「出羽様」は現在の神楽坂3丁目3番地にあった松平定安伯爵の神楽坂邸です。屋敷があったのはさほど長い期間ではなく、明治4年から明治26年までです。松平伯爵はその後、四谷に転居しました。
 松平家は出雲松江藩の元藩主で、官位は出羽守でした。四谷の屋敷のそばに「出羽坂」があり、今もそう呼ばれています。「出羽様」という呼び名が明治以降も一般的だったことが分かります。

 神楽坂の出羽様の屋敷は、南側の裏に崖があります。崖下は江戸期まで小身しょうしん(身分が低い、俸禄の少ない身分)の旗本などの屋敷でしたが、早い時期に町家に転じたことが明治16年東京測量原図で分かります。

松平邸と出羽様下(明治16年 東京測量原図)

 地形的に、この町家一帯が「出羽様下」と呼ばれたと考えるのが自然です。現在で言うと熱海湯を含む小栗横丁の西半分です。

 新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」の図は、「・出羽様下」の「・」の位置を間違えてしまったのではないでしょうか。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

 竹田真砂子の「振り返れば明日が見えるー2」「銀杏は見ている」(「ここは牛込、神楽坂 第2号」牛込倶楽部、平成6年)では

 本多の屋敷跡は、明治15, 6年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正10年10月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。