夏目写真館」タグアーカイブ

高橋春人その軌跡

文学と神楽坂

 高橋春人記録集世話人会「高橋春人その軌跡」(ビスカムクリエイティブ、1999年)です。氏は戦前から絵画・グラフィックデザイン・公共広報デザインの第一人者として活躍し、特に1964年の東京パラリンピックでは公式ポスター、大会マーク、メダルのデザインなどを担当。出生は1914年。死亡は1998年で、84歳。
 死亡の翌年に出た「高橋春人その軌跡」ではまず春人氏の多数の作品を展示し、次に何人もの友人が弔意を表し「ここは牛込、神楽坂」編集長だった立壁正子氏はこう述べています。

立壁正子氏

 恩 
タウン誌からいま
心からの
感謝をこめて

 この春、第15号を迎えたタウン誌『ここは牛込、神楽坂』で、「鏑木清方」の特集を行なった際、清方の名作「築地明石町」にまつわる、思わぬ発見があった。
 矢来町にいた清方のことは、高橋先生からよく伺っていた。その際、必ず出るのが名作中の名作「築地明石町」のことだった。「あのモデルとなった女性は、いいとこの奥さんで、なんでも、その親族がこの近くにいるらしくてね」
「先生、神楽坂の“話し方教室”と“タゴール”のオーナーの江木さんご兄弟が、モデルの江木ませ子さんのお孫さんでした。それで、彼女の写真も出てきました!」
 心の中で真っ先にこうご報告した。
 先生がご存命だったら、どんなに喜んでくださったことだろう。先生がご他界になってこのかた、何度か先生かいらしてくださったらと思ったことがあるが、このときほど残念な思いにかられたことはなかった。

築地明石町

築地明石町 第8回帝国美術院展覧会(昭和2年)で帝国美術院賞を受賞した気品ある美人画。1972年に清方氏が逝去し、サントリー美術館の出品(1975年)を最後に行方不明に。2019年、東京国立近代美術館が購入した。
話し方教室 話し方教室の創始者は江木武彦氏。1954年10月、東京都成人学級の「上手な話し方」を始め、受講者が集まり、1960年代には興隆期に。神楽坂3丁目の五条ビルで話し方教室を開設。
タゴール カフェバー。名前の由来はインドの詩人でノーベル賞文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴール氏から。昭和62年(1987年)8月22日(土)、神楽坂3丁目の五条ビルで開店。閉店は平成16年(2004年)頃。
江木ませ子 生年は明治19年、没年は昭和18年。夫の江木定男氏は農商務省の役人。鏑木清方氏は父の江木保男氏の知人。清方氏の奥様の照氏はませ子氏の女学校時代の友達。15歳のませ子氏は淡路町の姉夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学した。鏑木清方はこの情景を捉えて

江木ませ子

 私が好きでかく明治の中ごろ、新橋の駅がまだ汐留にあつた時分で、もう出るのに間のない客車に、送るのと送られるのとふたりの美しい女学生を見た。送られる方は洋髪の人で車上にゐる。ホームに立つて送るのは桃割れで紫の袴を裾長にスラリとしたうしろすがたは、そのころ女学生をかくのにたくみだつた半古さんの絵のやうであつた。
 昭和二年にかいた「築地明石町」に面影をうつしたM夫人はその時の桃割れの女学生だつた人で、私の家内と女学校のともだちなのだ。【M夫人/鏑木清方】

註:桃割れ 江戸時代後期から昭和まで町人の娘に流行した女髷。頭頂部から後頭部にかけての髷を丸く左右両サイドに分け輪を作り、鬢を膨らませる。その形が桃の花が開くように見えることから、桃割れと呼ぶ。
半古 梶田半古。かじたはんこ。明治の日本画家。写実的で浪漫的な風俗画を得意とし、新聞や雑誌のさし絵でも有名。生年は明治3年6月25日、没年は大正6年4月23日。

亡くなってから改めて気付いたこと
 そういえば、あるとき、道で先生にお会いして、鏑木清方の家の跡をたずねてみようということになり、神楽坂にほど近い、矢来町の住宅街へ出かけたことがあった。その界隈の人に聞いてみたりしたが、誰も知らなかった。先生は、清方の随筆集『こしかたの記』を、繰り返し読んでいられるようで、「あの記述によると、確かこのあたりだが……」と、見当をつけられた。
 今回、雑誌で特集をするにあたり、清方の家に伺ったことのある神楽坂の夏目写真館の夏目正衛氏にご同道いただき、その場所を教えていただいたが、夏目氏が、「様子が大分変わって断定しにくいが、たぶんこのあたり」と言われた場所は、高橋先生の推定とほぼ一致していた。
 清方の特集のために、清方の随筆もかなり読んだが、そのところどころに、あ、これは先生から伺ったことだという箇所がよく見つかった。
 よくこれだけのことを、しかも正確に覚えていて、それを伝えてくださっていたのだと、感嘆させられた。
 そして、先生が、たいへんな読書家で、文学にも造詣の深い方だったということを知らされたのだった。

 まだ続きます。

先生からいただいた宝物をもとに…
 文学といえば、これも雑誌で夏目漱石の特集をした際、漱石の『硝子戸の中』をテキストに、少年時代の漱石がたどった夏目坂から神楽坂に至る道をご一緒に歩いたことがあった。
 先生は、まず牛込台地の説明から始まり、「ここは松平備前守の下屋敷の跡で、その後、池になったところ」とか「ここは、狐が啼くような淋しいところで、このあたりにいた田山花袋も漱石も、神楽坂に出るときは、ここの長い田圃路を通って行ったんだよ」など、道筋に埋もれた歴史を解きあかしては、私たちを驚かせた。
『硝子戸の中』に記された漱石の家の前にあった小川が、いまは暗渠となっていること、その近くにあった床屋のあった場所がここと特定してくださったのも、先生だった。
 ただ、漱石のお姉さんたちが、芝居見物に行くとき、“馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る”というコースに関しては、柿の木横丁がどこか特定できず、ベンディングとなったままになってしまった。
 このほか、父上のお仲間だったということから、ひときわ思い入れをお持ちの田山花袋のこと、そしてご自身が面識のあった稲垣足穂のこと、矢来町の酒井屋敷のことなどなど、そのうちぜひご執筆をとお願いしておいたテーマも、まだいろいろ残されている。
 これからは、お宅に伺ったとき、あるいは先生の作品を展示したギャラリーのソファーで、そして漱石散歩などのまち歩きにご同道いただきながら…その都度伺ったお話など、先生からいただいた大事な贈り物をもとに、一つ一つ、まとめていければと願っている。
 先生ほんとうにありがとうございました。どうぞこれからも宜しくお導きのほど。
牛込台地 山手台地の一部。山側(山の方向)の台地。「手」は方向を表す(上手うわて下手しもて)。

牛込台地と落合台地(地理院地図 : GSI Maps|国土地理院)

松平備前守の下屋敷 赤で描いた範囲が旧津山藩松平越後守高田下屋敷です。

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

狐が啼くような淋しいところ 「ここは牛込、神楽坂」第10号(牛込倶楽部、平成9年)の「金之助少年の歩いた道を行く」で「ここは牛込、神楽坂」編集長の立壁正子氏は「青年期にこの辺に住んでいた田山花袋が『早稲田町ここも都の中なれど雪の降る夜は狐しば鳴く』などど詠んだ淋しいところだったとか。漱石の『硝子戸の中』にも、“当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畑とか、竹薮とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。”とある。『田山花袋もここを通って神楽坂へ出ていたんだよ』と先生」(先生は高橋春人氏)。
 田山花袋氏は喜久井町20番地に住んでいました。これは下屋敷と同じ住所でした。
小川が、いまは暗渠 「硝子戸の中」16章では「うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える」としています。詳しくは「漱石と『硝子戸の中』16
馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る これは漱石と『硝子戸の中』21を参照。

神楽坂3丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13183~86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13183~86 はカメラを神楽坂3丁目の坂上付近に置き、坂下を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13183 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13184 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13185 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13186 神楽坂歩行者天国

 坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装です。Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。車道の中央には舗装の継ぎ目があります。ここで地元の方は

舗装の継ぎ目はOリングの部分から坂上までずっと続いています。この当時の舗装はアスファルトではなく、コンクリートであったと思われます。少し前の時代のID 12903には、これほど大きな継ぎ目がありません。

といっています。しかし、アスファルトのほうが道路の継ぎ目や接合点は多いし、色合いが決め手だといっても、はっきりはしません。ID 13185では道路の照り返しがOリングがあるほうが強いと思います。
 縁石は黄色と無彩色との2色で(現在もよく見ると2色)、意味は「駐車禁止」。歩道はアスファルト舗装。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。神楽坂通りの中央にはローラースケートを履いた男の子。中央の上空には(横断歩道)の道路標識。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱はモノクロ写真では薄い色でしたが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。「神楽坂通り」が街灯に光っています。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→坂下(昭和48年)
  1. (駐車禁止)(区間内)
  2. (車両進入禁止)
  3. (横断歩道)
    ――神楽坂仲通り
  4. 化粧品さわや
  5. (ビク)ター(リード商会)
  6. 純喫茶クラウン
  7. 喫茶(坂)
  8. 看板「パチンコは(マリーで)」
  9. クスリ 山一薬品
  10. ハ(ッピー)ジャック

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. (ヒデ)美容室 HIDE HEALTH SALON。突き出し看板「ueta エダ」(看板は、おそらく化粧品)
  2. 道路標識(裏面)
  3. くすりは 山本薬局 純良医薬
  4. BAR まき
    ――神楽坂仲坂
  5. BARBER よね(ざわ)
  6. 臼井歯
  7. せともの 太陽堂
  8. ニッポンハム 肉のますだや
  9. ▶電柱看板「歯 石川」「 大久保
  10. UC(大川時計店)かつ一(2階)
  11. ESUYA
  12. コーセー化粧品 十奈美
  13. 夏目写真館 夏目写真館
  14. カブト虫(純喫茶)
  15. ▶電柱看板「石川
  16. 麻雀 サンコール(松本商店)

住宅地図。1974年

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9782

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782は、昭和50年頃(1975年)、神楽坂2丁目から坂下を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782 神楽坂

 車道のすべり止めでOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 外堀通りを越して千代田区側、最も遠い大きなビルはホテルグランドパレスでした(1972年開業-2021年営業終了)

神楽坂2丁目→坂下(昭和50年頃)
  1. 化粧品さわや (MAX) FACTOR 資生堂
  2. 停車中の「ニッポンハム」納品車。
  3. 空き店舗(元の亀井鮨)
  4. ビクターレコード リード商会
    名人荘(麻雀店)
    雪ぐに/ちゃこ/でんでんむし
    (すべて神楽坂ビルのテナント)
  5. 純喫茶クラウン
  6. (陶磁器 陶柿園)昭和47年(1972年)3月に完成。
  7. 珈琲 音楽 (坂)
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 袖看板「パチンコはマリーで」
  10. 山(一薬)品
  11. 屋上看板「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  1. せともの太陽堂
  2. ニッポンハム 肉のますだや
  3. 日本信販 UC シャッターで閉店中(大川時計店)
  4. 電柱看板「 大久保  」「歯 健康保険医 石川 このうら  
  5. とんかつ(かつ一)
  6. 資生堂化粧品 コーセー 十奈美
  7. 夏目写真館
  8. カブト虫(純喫茶)

1976年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9778

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778 神楽坂

 車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。

神楽坂2丁目(昭和48年)
  1. (横断禁止)
  2. たばこ 経済新聞
  3. 「大島歯科」「オリジナルボタン」 「(株)オオシマ」「ᘂ ハマナカ手芸糸」「マジックバック」「カネボウ毛糸 ハマナカ手芸糸」
  4. 神楽家(せんべい)
  5. 純喫茶 カブト虫 Coca Cola
  6. 看板「通学路」
  7. 電柱看板「石川  」「 大(久保)」
  8. 麻雀
  9. 夏目写真館
  10. 西川 みゆき
  11. 地図によれば「仲門堂」
  12. (消火栓)「歯科 石川  ここ」
  13. 電柱看板「歯 石川  」「 大久保」
  14. 地図によれば「巴有吾有」
  15. 地図によれば「十奈美」
  16. とんかつ(かつ一)
  17. ニッポンハム(肉のますだや)
  18. ヒデ美容(室)
  19. 屋上看板「話し方教室」袖看板「旭図書」「話し方教室」(五条ビル)
  20. (遠くに)三菱銀行
  1. 「D/SL気分を/満喫して下さい」「サービス中!!」「マ〇ー/祝/さ・」造花(パチンコマリー)
  2. ニューイトウ(靴):
  3. 珈琲 音楽 坂
  4. 陶柿園。昭和47年(1972年)3月に完成。
  5. 純喫茶 クラウン
  6. 資生堂化粧品(さわや

1976年。住宅地図。

 

神楽坂1丁目(写真)景色 昭和41年 ID 7658

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7658を見ていきましょう。時代は1966年(昭和41年)で、全員長袖で、コートを着ている人もいます。撮影の方向は、神楽坂1丁目から坂上に。街灯は蛍光灯一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。道路にたまった雨水などを排水する側溝があります。歩道は昭和37年夏や、昭和41年の「坂のある街」では表面に滑り止め文様がありましたが、昭和41年の後半にややサイズの大きい平らな正方形のブロックに代わり、きれいに並んでいます。この歩道は改修後でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7658 神楽坂 紀の善付近 1966年

神楽坂1~2丁目(昭和41年)
  1. 1階建て。田口屋生花店だが、ID 54の大きな看板はなくなった。
  2. 街灯看板の「パール ビリヤード」と「神楽坂」
  3. 電柱看板の「川島歯科
  4. 小栗横丁に行く小道
  5. 壁面看板とファサード看板の「花 田口屋生花店」。不明のネオンだが、ID 5081では「花 田口屋」。ここから2丁目
  6. 街灯と「神楽坂」
  7. 「御料理 蒲焼 志満金」と「うなぎ丼」
  8. 電柱看板の「 大久保
  9. 「靴 オザキヤ
  10. たばこ ☎(田金果実店)
  11. (食品 丸八)
  12. 「特約店 大島糸店」 4階建て
  13. サンコール(松本商店)
  14. 夏目写真館
  15. ✚クスリ(神楽坂薬局)
  16. 「洋装生地 林屋」
  17. ヒ(デ美容室)
  18. 五条ビル。5階建て。翌1967年完成だが突き出し看板も出ており完成間近
  19. 遠くに「(三菱)銀行
  1. 街灯
  2. 山田紙店
  3. ヤマザキパン(明治アイスクリーム)コカコーラ。公衆電話。でんわ☎でんぽう。公衆電話の台に第一相互銀行の広告
  4. おしるこ 紀の善
  5. 神楽小路。歩道からは1段下がる。おそらく歩道の改修で段差がついた。
  6. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  7. (Frère WADA)YA(メンズウェアー)ID 86に詳しい
  8. 消(火栓)レストラ(ン)この先〇
  9. 軽い心
  10. ニューイトウ(靴)
  11. 遠くに「資生堂化粧品」(さわや
  12. 遠くに「神楽坂通り/美観街」。「坂のある街」にはないので、歩道改修と同時設置か。

神楽坂3丁目(写真)大東京祭パレード 昭和32年 ID 4943

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943は昭和32年(1957年)「大東京祭」における「花自動車パレード」を撮ったものです。坂下から坂上への自動車、バスやトラックの「花自動車」パレードでした。「祝 大東京祭」を掲げるオープンカーには女性4人が手を振り、左ハンドル車の運転手が座っていました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943 大東京祭 花自動車パレード 神楽坂

 街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。車道は石敷ですが、平坦、滑らかで、センターラインは消え、しかしうっすらと残っています。つまり昭和30年に行った対面通行はやめ、昭和31年には坂を上る方向の一方通行に変えています。もっと遠くのセンターラインは実線が残っています。坂下の交差点の横断幕はおそらく「片側通行帯」で、神楽坂通りが一方通行であることを知らせる目的でしょう。この一方通行が逆転式に変わるのは昭和33年と思われます。
 右側の鈴蘭灯は歩道のど真ん中に立ち、左側の電柱は車道寄りの歩道に立っていました。縁石から約30cm内部に新しいコンクリートの列があり、この間の地下には下水が流れていたようです。
 ヒデ美容室と山本薬局の間の歩道には段があります。昔の神楽坂の階段のなごりかも知れません。
 地元の方はさらに説明します。

 太陽堂の横の路地に積み上げてあるのは「ばち」ですね。大東京祭は都民の日(10月1日)ごろの実施なので、ちょうど需要期でしょう。都の資料によれば大東京祭は昭和31(1956)年が第1回となっています。またオープンカーの頭上の横断幕を、この季節で大胆に予想すれば「紅葉祭」でしょう。
火鉢 暖房具の一種。灰を入れ、炭火すみびをついで手足をあぶり、室内を暖め、湯茶などを沸かした。

神楽坂3丁目(昭和32年)
  1. 看板「パーマネント」の「ネ」。マーサ美容室
  2. おそらく電柱看板「マッサージ 〇サージ院」
  3. 電柱看板「喫茶 七福」「菓子 七福」
  4. さわや
  5. 亀井鮨
  6. ルナ美容室
  7. 喫茶クラウン
  8. 電柱看板「旅館 川田
  1. ビデ美容院
  2. 綜合 ビタミン剤 強力パンビタン  山本(薬局)。看板「抗生物質製剤 クロロマイセチン」
  3. 美術陶器 太陽堂 せともの
  4. BARBER 管理髪館
  5. ス〇 美術〇〇
  6. 時計。メガネ
  7. ✚クスリ
  8. 夏目写真館
  9. 電柱看板「石川歯科

神楽坂2丁目(写真)昭和54年 ID 87とID 11870

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 87とID 11870は、昭和54年(1979年)の神楽坂2丁目の坂下から坂上に向かって撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 87 神楽坂途中より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11870 神楽坂

「あけましておめでとうごさいます」の看板などから正月だと分かります。ID 11869とは逆向きの撮影です。
 ID 72からID 92まで、神楽坂周辺のさまざまな正月風景が見られます。新宿歴史博物館によれば昭和54年1月5日に撮影したものです。これと重複して、ID 11824からID 11872まで、より多くの鮮明な写真が残っています。おそらく前者はプリントで、後者は保存ネガから再録したのでしょう。
 車道はΟリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、側溝と縁石があり、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36年(1961)以降の巨大な円盤形で、「神楽坂通り」を覆うように木と人工葉があり、正月の飾りとして、足元には細長い竹と松が結びつけられています。横断歩道が見え、坂が終わる所には標識「神楽坂通り/美観街」があります。

神楽坂2丁目(昭和54年)
  1. 通学路
  2. と小売。久保質店)。(神)楽坂 (3)-6
  3. 「PHOTOGRAPH 夏目写真館」「 鍼灸治療|夏目鍼灸院←」
  4. 西川 みゆき
  5. 消火栓標識と消火栓広告「神楽坂針灸院←」
  6. 「巴有吾有」(おそらくシャッターの貼り紙は年賀で、正月休み)
  7. きらきら光る人工観葉植物(下図参照)
  8. とん(かつ かつ一 2F)(福田屋?)
  9. @ニッポ(ンハム)(肉屋のますだや)
  10. ヒデ(美容室)
  11. 言研。話し方教室。(割字で株式会社)旭図書。ともに五条ビル
  1. 看板「あけましておめでとうごさいます。本年もよろしくお願い申し上げます」。(おそらくパチンコマリー)
  2. 街路消火器格納箱「この地域の避難場所は/後楽園周辺/第1672号」
  3. NEW IT(ニューイトウ 靴)
  4. 坂(珈琲)
  5. 寿し (やっこ)。やっこのイラスト。奥の土地と一体になってマンション「ラインビルド神楽坂」に変更。竣工は1984年5月。
遠くに道路標識(横断歩道)と実際の横断歩道
さらに遠くに「神楽坂通り/美観街」
最後に(横断歩道)

1977年の日本テレビ系列「気まぐれ本格派」第9話「ダサイ男の噺し」

1980年 住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和33年 ID 57

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
 シャツの人がいますが、半袖の人はいません。つまり夏ではありません。歩道はきれいで平坦です。
 左に建築中のビルは大島ビルで、この築年月は昭和34年(1959年)5月、総階数は4階です。建築後は大島糸店になりました。この撮影日は、佳作座の広告「野ばら」があるので、昭和33年秋や冬でしょう。
 一方、新宿歴史博物館の調べではこの写真は「昭和37年頃」に撮ったといいます。
 横断幕の「本日特売日」があります。
 また、車道のOリングはないのですが、アスファルト舗装では車の馬力が不十分で、石敷でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57 神楽坂入口付近から坂上方向

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目(昭和33年)
  1. 建築中。「タイヤモンド毛糸 大島糸店」になる
  2. 電柱看板。「 倉庫完備 大久保」「石川歯科
  3. (マルヨシ美術店)
  4. 夏目写真(館)
  5. 「+クスリ」。精神安定剤「ハーモニン 神楽坂薬局」
  6. 洋装生地 林屋
  7. (十奈美)
  1. パチンコマリー。Pachinco Mary。右端に佳作座の広告「野ばら」(日本公開は昭和33年8月23日)も。
  2. 壁面看板「ジュ 靴」「ヤマヤタ ⇒」
  3. 看板「洋食 喫茶京屋⇒」(奥にあった)
  4. 「靴はニューイトウ」
  5. 通りに接し「イトウふと(ん)」。「コーヒー 坂」ではない
  6. (陶磁器 陶柿園
  7. 「旅館 かぐら苑」の半分だけが見える
  8. クラウン(喫茶)
  9. ルナ美容室
  10. ポーラ化粧品
  11. 亀井鮨
  12. ひときわ高い看板「資生堂化粧」(さわや
  13. 遠くに看板「テレビ 竹谷電気」。
  14. さらに「万平のみや」の特徴的な吊り看板

神楽坂2丁目(写真)昭和34年 夜景 芸者 ID 36-39

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 36からID 39までを見ましょう。撮影の方向は、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭灯があり、車道には平坦で、Οリングはまだないようです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 36 神楽坂途中から坂上方向夜景、着物の女性たち

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 37 神楽坂途中から坂上方向夜景、着物の女性たち

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 38 神楽坂途中から坂上方向夜景、着物の女性たち

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 39 神楽坂途中から坂上方向夜景、着物の女性たち圉

 ID 36とID 37は車2台のバンパーが流れてぼやけ、またID 37とID 38は印画紙?が乾燥し、ID 39だけがまあまあよさそうです。
 ID 39について『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)に解説されています。

神楽坂、坂下方向よりの夜景(昭和34年) 現・神楽坂2丁目。神楽坂がそれらしくなったのは、江戸時代といわれている。その後、大正時代には花街として隆盛を極めた。昭和34年に、これだけ着物を着た女性が撮影されたのは、やはり料亭や芸者置屋が多いという花柳界ならでは。

 しかし、これも新宿歴史博物館 ID 31-35と同様にやらせでしょうね。

「神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目
  1. 電柱看板「石川歯科」。小栗横丁にある
  2. 「夏目写真館」とネオン「photograph 夏目写真館」
  3. 「+ク」スリ。神楽坂薬局。「☎でんわ」と解熱鎮痛剤「ケロリン」。「ハーモニン 神楽坂薬局」
  4. 「田」丸屋。せんべい。「手焼せん 」
  5. ネオンは「洋装生地 林屋」
  6. 化粧品の十奈美。見えません。
  7. 山岸煎餅店。見えません。
  8. 洋品の「エス」ヤ
  9. 「メガネ」と、ひとつ奥には「ト」ケイと時計10:10。大川時計
  10. 肉・増田、太陽堂。見えません
  11. 神楽坂仲坂。見えません
  12. 山本薬局。見えません
  13. 「ヒデ美容室」
  1. 「パチンコマリー」
  2. 「ヤマヤ ⇒」
  3. 「洋食と喫茶 京屋 どうぞ⇒」。一軒ほど右奥にはいった場所にあります。
  4. 壁面看板「ジュ 」「靴 はニ 」
  5. 「靴 ニューイトウ」。広告のぼりは「セカイチョ」。運動靴の会社「世界長 セカイチョー ゴム株式会社」。「文部省教育用品審査合格品」
  6. 「コーヒー坂」と「陶柿園」は見えません。
  7. 「旅館 かぐら苑」。右奥にはいった場所にあります。
  8. 「珈琲 グラウン」と 「クラウン」
  9. 「ルナ美」容室。
  10. 「ポーラ化粧品」
  11. 「亀井鮨」
  12. 喫茶「七福」

 石川歯科小栗横丁にありました。

昭和59年 住宅地図。石川歯科

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29とID 5081

文学と神楽坂

 昭和27年頃に撮った新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で2枚の写真です。1つは新宿歴史博物館 ID 29で、解像度は921 x 733ピクセルです。

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 これは次のような私の説明があります。

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29
 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。

 次は新宿歴史博物館 ID 5081です。本体の解像度は3286 x 2480ピクセルでしたが、私のWordPressでは最大の解像度は2560ピクセルだけです。

新宿歴史博物館 ID 5081

 これも新宿歴史博物館に次の説明があります。

昭和(戦後) / 昭和27年(1952)頃 創業明治2年(1869)の老舗うなぎ屋志満金の前。

 さて同じ新宿歴史博物館で、どうして解像度がこれほど違うのか、おそらく…と考える前に…
 もう一度、ID 5081を説明しましょう。左端は「花 田口屋」です。夜に光るネオンがあり、ID 29でも分かりにくいけれど、よく見るとあります。
 次が「志満金」。左側には「北京料理」があります。看板は「銘酒 白鷹 料理 志満金」「蒲焼」の2つ。街灯のポールには「コーヒー 〇 フジヤ」と書いてあります。
 次は尾崎屋で、靴屋です。靴の絵と「ライ  ム」があります、「アポロ〇〇〇」もあります。ここにも長靴のネオンがあります。
 次は名前がない2店舗で、都市製図社の火災保険特殊地図(昭和27年)によれば田金器物、八食品で、人文社の「日本分県地図地名総覧」(昭和35年)では「果実 田金」「食品 丸八」です。旗は「歳末大売り出し」ではなく、「全店 大売出し」でした。
 次は大島糸店。看板は「毛糸ボタン 洋裁〇〇〇」。電柱看板の「質 買入 大久保」があります。
 続いて「神楽 菓子」と「〇遠家具」と「夏目写真館」が続き、口中清涼剤「仁丹」は「神楽坂薬局」があるためでしょう。
 さらに電柱看板の「三池旅館」、増田屋の「牛豚肉」、「太陽堂」「セトモノ」の瀬戸物屋。
 最も遠い「千代田銀行」は、三菱銀行です(⇒)。ウィキペディアでは1948年(昭和23年)から 1953年(昭和28年)まで、「株式会社千代田銀行」と改称したといいます。今もほぼ同じ場所に三菱UFJ銀行があります。
 解像度の違いについて、地元の方は「連続して撮影したものと見ていいと思います。
 なぜ、かくも解像度が違うのか。ID 29は保存したプリントからスキャンした。ID 5081はネガが残っていた。その差でしょう。両者に決定的な違いはないと思います」といい、これには大賛成です。でもID 29のネガも残っているのではと思います。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

神楽坂1~2丁目(写真)昭和37年夏 ID 17-19

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 17から19までを見ていきましょう。ID 17と18は降雨はなく、ID 19はあります。多くは半袖です。撮影の方向は、神楽坂1~2丁目から坂上に向いています。街灯は一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。歩道の表面には文様があり、ところどころ割れています。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 18 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 19 神楽坂下から坂上方向

神楽坂1~2丁目
  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金
  7. オザキヤ
  8. たばこ ☎(果実 田金)
  9. (食品 丸八)
  10. タイヤモンド毛糸 大島糸店
  11. 松本商店
  12. 菓子 神楽屋
  13. 夏目写真館
  14. クスリ
  15. 林屋
  16. (十奈美)
  17. エスヤ
  1. ここは2丁目。白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。2階に床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 麻雀⇒(志乃多の前から麻雀ルビーに入ることができる)
  5. 志乃多寿し
  6. グロンサン 山一薬品
  7. パチンコマリー
  8. ニューイトウ靴店
  9. レストラン京屋(奥にあった)
  10. ビリヤード 神楽坂(奥にあった)
  11. 喫茶 音楽 坂
  12. 陶磁器 陶柿園
  13. (旅館 かぐら苑)
  14. クラウン
  15. (美容室 リカ)
  16. ポーラ化粧品
  17. (鮨 亀井)
  18. 資生堂化粧品 さわや

 メトロ映画では1962年の夏用に映画2本立てを出しています。
 ID 17にはきれいなアスファルト舗装が広がります。はるかに彼方に別の舗装があるようで、反射も違っています。ID 18ではオザキヤ頃から上にこの舗装があるようです。しかし、よく見ると、Oリングはまだつけていないようです。

新宿歴史博物館 ID 18の一部

 ID 19もOリングはなく、つまり、1962年7月はOリングのないものを使って舗装をしたのです。おそらく1962年末にはOリングもついているはずです。
 この舗装はコンクリートではなく、石敷いしじき、石だたみでした。地元の方によれば「当時の車のエンジンはパワー不足で、アスファルト舗装では坂を上れなかった。表面のザラザラした石敷だった。ただ石が割れて飛ぶことがあったので、コンクリートに替えることにした。しかしコンクリートでも使っているうちにツルツルになって滑るので、Oリングの溝が必要だった」といいます。

神楽坂2丁目(写真)昭和37-39年頃 ID 5, 12913

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 5とID 12913を見ていきましょう。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年頃と思われます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5 神楽坂途中から坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12913 神楽坂

 撮影の方向は、神楽坂2丁目から坂下に向いています。雨は現在上がっています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道に凸凹が目立ち、石敷いしじき、石だたみがあり、歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 ニューイトウの前の車道には穴を補修したような跡が残っています。この部分は坂の上りはじめで、Oリング(でつくった窪み)の大部分は、坂が急になる神楽坂3丁目にあります。

神楽坂2丁目 (坂上→坂下)
  1. ニューイトウ(靴)
  2. 穴の跡
  3. 奥に「洋食レストラン 京屋」「神楽坂ビリヤード  
  4. パチンコはマリーで。マリー
  5. 志乃多寿し
  6. 街灯。掲示「神楽坂」
  1. 電柱看板「石川歯科  」「質 倉庫完備 大久保
  2. クスリ(神楽坂薬局)
  3. 夏目写真館
  4. 松本商店
  5. 神楽屋 センベイ
  6. 電柱看板「石川歯科」「質 倉庫完備 大久保
  7. ダイヤモンド毛糸 大島糸店 4階
  8. オザキヤ(靴)

「旅館 かぐら苑」は1964年(昭和39年)まで存在し、「旅館 かやの木」は1965年(昭和40年)から存在し「全航空住宅地図帳」では1973年(昭和48年)になくなっています。1962年に写真があったとすると、「かやの木」はありえません。「野乃木」は1963年には存在し、1973年になくなっています。なお、は「」の変体仮名でした。

住宅地図。1963年

全航空住宅地図帳、1965年

昭和10年代の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 昭和12年(1937年)、牛込三業会は「牛込華街読本」に「現在の神楽坂」という写真を提示しました。172頁です。新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」では、ID 1です。しかし、この写っている店の看板の多くは、聞き慣れないものです。

現在の神楽坂

 神楽坂1丁目があった昭和5年(「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)では交差点「牛込見附」(現在の「神楽坂下」)から西に向かって「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」があったといいますが、この写真にはどこにもありません。大正11年ごろの「古老の記憶による関東大震災前の形」(神楽坂界隈の変遷、昭和45年新宿区教育委員会)でも「足袋・赤井、甘栗・堀内、提灯・萩原、山田屋文具、岩瀬糸店、甘味・紀の善」となり、「甘味・紀の善」を除くと、今ではありません。
 あとは昭和12年の都市製図社『火災保険特殊地図』だけです。

昭和12年。都市製図社『火災保険特殊地図』

 これでようやくわかりました。

  1. 「床ヤ」です。くるくる回る「サインポール」もあります。
  2. 「桃園」で、その上に「中華廣東料理」だと思える言葉があり、図の2も「支那料理」です。
  3. 松竹梅之酒蔵」。手軽な一杯飲み屋風でしょうか。ちなみに「紀の善」はここでは神楽小路にあって、この2つの関係は不明です。
  4.  現在の「神楽小路」です。
  5.  キッサ(喫茶)で、写真には「ローレ」という名前が見えます。
  6. 「和(不明)」。ある人によれば「和●淑女特価●」。図は多分「カスリヤ」か「カネリヤ」と読めます。
  7. 「タバコ」で、写真も同じで、震災前は棚橋たばこ店。
  8. 「瀧歯科医院」
  9.  写真では「寫眞撮」。「古老」では夏目写真館でした。
  10. 「浜野式」か「浅野式家」。店舗の何番目がそう見えるかは、わかりません
  11.  反対側に行き「須田町食堂」です。

 インターネットの「西村和夫の神楽坂」(東京理科大学理窓会埼玉支部)では

 戦後は消えてしまったが、坂下の「ブラジル・コーヒー」と「松竹梅酒蔵」の2軒はこれから神楽坂を漫遊しようという人がまず寄るところだった。席が空いていることは少なく、物理学校の生徒がノート整理に使っていた。「松竹梅酒蔵」は坂上の「官許どぶろく飯塚」と共に戦争中国民酒場として最後まで酒が飲めたところだ。戦後間もなくメトロ映画劇場ができたが、客の入りが芳しくなく廃めた。

 また「紀の善」はまだ神楽坂通りに顔を出ていなかったんだと思います。つまり、震災前の「古老の記憶」や昭和5年とは食い違いが目立ちます。ある人は「花街の人から聞き取ったんでしょうね。上宮比町も若宮町も、実に詳細です。それに比べて、坂下の(健全な)商店街が、やや物足りなくても仕方ないと思います」と言っています。一方、夏目写真館はもう通りに顔を出ています。
 あっと驚くことでは「キッサ」が多いこと。現在の「キッサ」は、茶を飲むことや 「喫茶店」しか載っておらず、ほかの定義は出ません。しかし関東大震災後から流行した風俗営業の「カフェ」も少なくなかったと思います。
 なぜか「日の丸」も多い。祝日だったのでしょうか。
 下水の暗渠もなぜか横に広い。これが普通なんですね。

↑ 東(下)大正11年頃昭和5年昭和12年
1山田紙店斉藤洋品店床ヤ
2岩瀬糸店みどりや支那料理
3甘味・紀の善紀の善寿司料理
4 神楽小路
5大畑パン店大畑菓子店キッサ
6吹野食料品富貴野食品カスリヤ
7棚橋タバコ屋隼人屋煙草タバコ
8瀧歯科医濫長軒瀧歯科医院
9 夏目写真館夏目写真館16
↓ 西(上)

 さらに別の写真もありました。東京商工会議所の「東京市内商店街ニ関スル調査」(昭和11年)に載った昭和10年12月19日の写真です。「須田町食堂」が左上に高く見えます。また、この写真は、前の写真に比べて、わずかにバックして撮っています。

  1. 「ぼんぼり」か「灯籠とうろう」では? 六角筒があり、光をともす場所になっている? 神楽坂五丁目でも同じようなランタン(図では3)が出ています。
  2.  紅白の飾り。飾りテープ。お祭り用品?

 お正月のお祝いではと思います。


昭和40年代の神楽坂(写真)

文学と神楽坂

神楽坂 加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』(昭和47年)(植村峻氏『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』、2010年)

  1. 看板「神楽坂通り」
  2. 街灯の途中から斜めに筒が出ていて、季節ごとに飾りや旗を差し込む。この時期は餅花みたいなものを飾っている。そこからぶら下がった提灯が割れてしまったように見える。
  3. 「山田」紙店
  4. 街灯
  5. FUJIYA 不二家洋菓子
  6. FUJIYA コーヒーショップ
  7. 不二家洋菓子
  8. おしるこ 紀の善
  9. 床屋のサインポール。2階が理容バンコック
  10. 1階がテーラー和田屋。
  11. 軽い心
  12. 神楽坂通り
  13. 美観街
  14. 文字のない飾り
  15. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  16. 軽い心
  17. 山一薬品
  18. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  19. 陶柿園
  20. パチンコマリー
  21. 菱屋
  22. MAXFACTOR(さわや)
  23. ニューイトウ(靴)
  24. 柱上変圧器
  25. (カネ)ボウ毛糸(ダイヤ)モンド毛糸 特約(店)。大島糸店
  26. うなぎ/割烹 志満金

神楽坂入口から坂上方向 新宿歴史博物館 ID 65

昭和48年2月。神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 65 から

  1. 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. ここと4の間に山田紙店があるはずだが、この時は地下鉄出口の建設中。
  4. 不二家洋菓子。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  5. 紀の善。切妻の屋根
  6. 理容バンコックのサインポール
  7. 3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック
  8. 神楽坂通り。美観街。文字のない飾り。
  9. 牛込見附
  10. 昔は段差が見えた
  11. 質。大久保質屋。神楽坂仲通りにあった質屋
  12. 斉藤医院。小栗横丁と見番横丁、神楽坂通りで囲んだ医院(下図)。なお、神楽坂4丁目8番地の斉藤医院は戦前にはありましたが、戦後はなくなっています。

    1970年 住宅地図

  13. パチンコ ニューパリー
  14. 将来の有楽町線「飯田橋」。道路を開削し、上に鉄板。埋め戻しは開業後。





神楽坂1ー2丁目(写真)坂のある街 昭和41年

坂のある街
 1966(昭和41)年、メトロアーカイブの「坂のある街」(インターネット)から
 年代:1966(昭和41)年 路線:東西線 駅: 神楽坂 カテゴリ:街の様子 坂と小路の街、神楽坂。写真の神楽坂通りは日本でも珍しい「逆転式一方通行」(進行方向が午前と午後で逆転する)が実施されている。

  1. パチンコマリーの前の歩道が濡れている。昔は自分の店の前にほこりが立たないようジョーロで水まきしました。
  2. オー(Ο)リング。スベリ止めコンクリート
  3. 歩道が30センチ角くらいの石で舗装。この後、神楽坂はアスファルト舗装を経てカラーブロック舗装に。
  4. パチンコマリー
  5. レストラン京屋(右側にはいっていく)
  6. ニューイトウ(靴)
  7. 坂(コーヒー)
  8. 陶柿園
  9. クラウン(喫茶)
  10. カネボウ化粧品(さわや)
  11. レコード
  12. 菱屋(寝具・インテリア)
  13. さわや(化粧品)
  14. 柱上変圧器
  15. 石川歯科
  16. 夏目写真館
  17. 街路灯に看板「神楽坂」
  18. カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 特約店 大島糸店(のちに大島歯科)
  19. 大島糸店
  20. 食品まつはち
  21. 果実田金
  22. オザキヤ(靴)
  23. 質屋(大久保)。神楽坂仲通りの質屋

参考。神楽坂の今昔1

神楽坂下の夜景(写真)昭和34年 ID 39, ID 31, ID 32

文学と神楽坂

 4枚の写真は50~60年代の神楽坂の夜景です。新宿区新宿歴史博物館にいけば、おそらくさらに沢山の写真(坂下中腹)があるのでしょう。

 最初は昭和34年、神楽坂の中腹部です。

『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)(昭和34年)

「神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目
  1. 電柱看板「石川歯科」。小栗横丁にある
  2. 「夏目写真館」とネオン「photograph 夏目写真館」
  3. 「+ク」スリ。神楽坂薬局。「☎でんわ」と解熱鎮痛剤「ケロリン」。「ハーモニン 神楽坂薬局」
  4. 「田」丸屋。せんべい。「手焼せん 」
  5. ネオンは「洋装生地 林屋」
  6. 化粧品の十奈美。見えません。
  7. 山岸煎餅店。見えません。
  8. 洋品の「エス」ヤ
  9. 「メガネ」と、ひとつ奥には「ト」ケイと時計10:10。大川時計
  10. 肉・増田、太陽堂。見えません
  11. 神楽坂仲坂。見えません
  12. 山本薬局。見えません
  13. 「ヒデ美容室」
  1. 「パチンコマリー」。現在はカグラヒルズ。
  2. 「ヤマヤ ⇒」
  3. 「洋食と喫茶 京屋 どうぞ⇒」。一軒ほど右奥にはいった場所にあります。
  4. 壁面看板「ジュ 」「靴 はニ 」
  5. 「靴 ニューイトウ」。広告のぼりは「セカイチョ」。運動靴の会社「世界長 セカイチョー ゴム株式会社」。「文部省教育用品審査合格品」
  6. 「コーヒー坂」と「陶柿園」は見えません。
  7. 「旅館 かぐら苑」。右奥にはいった場所にあります。
  8. 「珈琲 グラウン」と 「クラウン」
  9. 「ルナ美」容室。
  10. 「ポーラ化粧品」
  11. 「亀井鮨」
  12. 喫茶「七福」


 下図は小さな文字で描かれていますが、大きくすると、店舗の名前もわかります。

神楽坂1~2丁目。1963年の住宅地図。

 2番目は神楽坂下から見た写真です。時代は同じく昭和34年。

新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡

➀ 「赤井商店」。戦前は足袋店。戦後は紳士用品や高級シャツの仕立てで「赤井シャツ店」に。1996年、転業し、10年間喫茶店。
➁ 印章・ゴム印で「津田印店」
➂ 「パチンコ」。おそらく「パチンコマリー」
➃ 「清水衣裳店」。結婚式、成人式、卒業式等の貸衣装店。現在は千代田区飯田橋3-2-12に。
➄ 「田原屋」。坂上の田原屋の兄弟店。フルーツパーラー。
➅ 「パチンコ」

 ほかに一方通行の標識があります。この時期、道路は坂を上る方向だけでした。

 3番目「神楽坂まちの手帖」第12号の「昭和30年代とその周辺 僕らの育った神楽坂」は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 32と同じものです。

新宿歴史博物館 ID 32 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 31では

新宿歴史博物館 ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

 加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)。時代は昭和42年。着物を着る芸者はもうなくなっています。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では

赤井足袋店(神楽坂入口付近/明治40年代/『新修 新宿区区史』〈都立中央図書館蔵〉)
神楽坂下の角、現在では不動産屋になっている場所(神楽坂1-12)にあったのが「赤井足袋店」である。足袋の形の大看板に江戸の名残が感じられる。神楽坂の入口の良い目印であった事だろう。戦前は足袋店だったが、戦後は足袋と共に紳士用品や高級シャツの仕立てを行い「赤井シャツ店」となる。1996年に転業して10年間喫茶店を開いていた。2006年から不動産屋となっている

田原や(フルーツパーラー)
氷メニューが豊富でした。美味しかったですよ。ソフトクリームが美味しくて、それを使ったパフェも絶品!甘いものが苦手な人には小ぶりの丸パン3つに違った具をはさんだバンズセットというのが人気でした。当時の私は、お昼のお弁当を食べて、夕方それを食べて、家でまた夕食を食べるという食い気ばかりの高校生でした。(そうそう、そこの氷が独特で、名前も変わっていて、スノーハワイアンっていったかな?)



神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年、1971年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり

 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

 神楽坂通り(昭和46年)

神楽坂通り(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗

 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。



とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店

 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。


白十字 神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では
◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。
三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱UFJ銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。
 なお、写真の説明としては下の三菱銀行は正しいと言われました。加藤さんが書いていたものを再度引用すると「あと気になったのは「神楽坂の今昔1」で、毎日新聞掲載の三菱銀行の写真がありますが、これは現店舗の建て直し中の仮店舗です。現在の福太郎のある場所ですから、当時の記事は間違っていません」と『4丁目北側最東部の歴史』(https://kagurazaka.yamamogura.com/歴史2/)の欄外に書かれています。
 国会図書館の「住宅地図」には1970年と1773年の2つしかありません。わかりませんでした。もっといろいろ教えてください。ありがとうございました。