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瞬間の累積|渋沢篤二写真集

 最初は芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)の52頁にこんな写真とキャプションがありました。

 これは渋沢篤二氏の「瞬間の累積 渋沢篤二明治後期撮影写真集」(出版者は渋沢敬三、1963)の再録でした。

446 江戸川電車通り 42年8月

 当然、キャプションは違っています。つまり、芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」のキャプションは「明治42年8月の飯田橋交差点(渋沢氏の”瞬間の累積”)」。渋沢篤二氏の「瞬間の累積」では「446 江戸川電車通り42年8月」と2つあるのです。

 昭和40年以前では「江戸川」が「神田川中流」を指します。より正確には、当時の「江戸川」は文京区水道関口のおおあらいぜきから飯田橋(正しくは船河原橋)までの神田川のことです。また「電車通り」が「路面電車の道」に書き換えられます。つまり渋沢氏の「江戸川電車通り」の書き換えは「神田川中流の路面電車の道」になるのです。

 もう1つ、問題があります。写真で見ると、路面電車が2方向に分かれています。この分かれる理由は? 実際に路面電車の行き先が2つ以上ある以外に考えられません。
 では、明治42年8月にはどんな線路があるのでしょうか。皇居の外濠を走った外濠線は土橋—新橋間を除いて38年11月全て開通しました(東京市電・都電路線史年表)。さらに明治39年9月27日、「飯田橋」から「新小川町二丁目」(のちの「大曲」)への線路も通っていました。この2つの線路があり、しかも、向きは90度位違っています。
 なお4か月後の明治42年12月3日、「小石川表町」(後の「伝通院前」)から「大曲」(旧「新小川町二丁目」)までの線路ができ上がります。さらに大正元年に「飯田橋」から「牛込柳町」まで開通します。
 以上「江戸川電車通り」は「飯田橋交差点」と意味はほぼ同じです。
 道路は大きく、空間も広く、中央には法被はっぴと帽子を着た人がいます。路面電車は四輪単車で、外濠線は821以上の番号が与えられました。しかし、ここではこの番号は見えません。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂02|私と神楽坂

文学と神楽坂

私と神楽坂牛込神楽坂

それにしても、私はこれまで幾度その鏡に私の顔を姿をうつして来たことだろう。思えばその鏡こそは、これまで十七年も八年もの長い年月の間、青年から中年に更にまた老年の域へと一歩々々近づいて行きつつある私の姿を、絶えずじっと凝視ぎょうしして来た無言の観察者であったのだ。どこの何者とも知れない一人の男が――私は性来無口で、そんなに長くその店へ行きつけているけれど、滅多に誰とも口をきくこともなく、いわんや私の名前や身分や職業などについては、未だかつて一言も漏らしたことがないので、そこの主人でもただ長い顔馴染かおなじみというだけで、恐らく私についてはほとんど何事も知らないだろう――そのどこの誰とも知れない一人の男が、十数年この方毎月ふらっとやって来ては、用が終えると又同じようにだまってふらっと帰って行く、その同じことを長の年月繰返している間に、気がつくといつもなしにその男の髪が白くなり、顔にはしわが深く寄せている。非情の鏡といえども恐らくは感慨の深いものがあるであろう。私はそれを思う毎に、いつもそこに或る小説的な興味をさえ感ずるのである。
 こういう変化は、いうまでもなく何人の上にも、又何物の上にも行われていることである。しかも、それは極めて徐々に時の経過と共に自然に行われるのであって、何時うして何うということなどのいえないようなものである。長い年月を経た後に、ふと何かの機会にそれと気がついて驚くことはあっても、ふだん始終見つけている者には、何か特別の事情のない限り殆ど眼に立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとしている牛込うしごめ神楽坂かぐらざかのことに関しても、矢張り同様の感を抱かざるを得ない。

凝視 目を大きく見開いてじっと見つめること
本紙 東京日日新聞です。1927(昭和2)年6月の紙面に載りました。

私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日までずっと、常にこの神楽坂を中心にして生活して来たようなものである。最初の三、四年間は、故あって芝の高輪の方から早稲田大学へ通っていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換えや何かの都合で、毎日外濠線の電車を神楽坂下で乗り降りしたものだった。その後学校附近に下宿するようになってからは、何度その下宿を転々しても、又一家を構えるようになって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に住み換えて見ようとか思い立ったことも幾度かあったが、その度毎に住み馴れた土地に対する愛著あいちゃくと、未知の土地に対する不安とが、常に私の心を元の所に引止め、私の身体を縛りつけてしまうのであった。今や牛込は、私にとっては第二の故郷も同様であり、又どうやらこのまま永住の地になってしまうらしい。し今後何等かの事情で他に転住しなければならぬようなことがあるならば、私はあたかも父祖伝来の墳墓の地を捨てて、遠い異国に移住する者の如き大なる勇気を要すると同時に、またその者と同じい深い離愁を味わわねばならないだろう。しかしこうして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。
 かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、かつそこを愛する一人として、朝夕の散歩にも足自らそこに向うといった風で、その変遷推移の有様も絶えず眼にして来たわけであるが、そして一々こまかくしらべたならば、はじめて見た時と今とでは、四辺の光景も全く見違えるほどに一変してしまっているに違いないが、さて何時どこがどんな風に変ったかという段になると、丁度私の頭髪が何時どうして白くなったかと問われると同じく、はっきりしか/″\と答えることは困難である。長い間に、いつとはなく、又どことなく、自然に移り変って、久しく見なかった人の眼には驚くばかりの変化や発展を示しているに違いないが、毎日見馴れている私にとっては、大体において矢張り以前と同じようだといわざるを得ない。

東京へ出て 加能作次郎は、明治18年(1885年)石川県羽咋郡に生まれました。1905年(明治38年)、上京し、1907年(明治40年)4月、22歳で早稲田大学文学部文学科高等予科に入学しています。
芝の高輪 以前の芝区、現在の港区の高輪で、高輪南町、高輪北町、高輪台町などからなっていました。品川駅などがあります。
早稲田線 15系統の都電は、高田馬場駅前、戸塚二丁目、面影橋、早稲田、早稲田車庫、関口町、鶴巻町、江戸川橋、石切町、東五軒町、大曲、飯田橋、九段下、専修大学、神保町、駿河台下、小川町、美土代町、神田橋、大手町、丸ノ内一丁目、呉服橋、日本橋、茅場町でした。
大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
外濠線 飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る都電3系統路線。はじめは東京電気鉄道会社の経営、後に東京市に移管。
墳墓の地 ふんぼのち。墓のある土地。特に、先祖代々の墓がある土地。故郷
離愁 りしゅう。別れの悲しみ。別離の寂しさ