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幡随院長兵衛の死体が流れついた橋|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)に「牛込地区 40. 幡随院長兵衛の死体が流れついた橋」として「隆慶橋」に焦点を当てています。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋
           (新小川町一丁目)
 飯田橋から高速道路添いを大曲に向うと、右手に神田川にかかる隆慶橋がある。
 町奴幡随院長兵衛は、旗本奴の総領水野十郎左衛門の誘いを受け、単身小石川牛天神網干坂にある水野屋敷を訪れた。
 十郎左術門は酒宴を張ったが、長兵衛が酒に酔うと、十郎左衛門の家中の者一人が長兵衛の顔めがけて酒を盛った燗徳利を投げつけた。それを合図に三人の者が斬りつけた。そこへしばらく身を隠していた十郎左衛門は、左の頬から顎にかけて一太刀で斬りつけた。さすがの長兵衛も、この欺し討ちにあってあえない最後をとげたのであった。
 その死体はこもに包んで仲間(ちゅうげん)二人が神田川に投げ捨てた。その死体がここの隆慶橋に流れついたのである。
 死体を発見した者が、浅草舟川戸の留守宅へ知らせると、三人の子分が馳けつけてきて死体を駕寵で浅草の源空寺に巡んで葬った。時に慶安3年(1650)4月13日、36才の男盛りであった。
 なお幡随院長兵衛、水野十郎左衛門については伝説の人で、はっきりしたことは分らない
 〔参考〕 江戸ルポルタージュ  新宿と伝説
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていることや、その場所。新宿区では新小川町で道路や神田川が曲がっている場所を大曲と呼ぶ。

大曲

隆慶橋 新宿区新小川町と文京区後楽2丁目を結び、神田川に架かる橋。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

町奴 江戸初期、はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客きょうかくおとこ伊達だて。「侠客」とは弱い者を助け強い者をくじき、市井無頼の「やくざ者」に対する美称として使う。
幡随院長兵衛 ばんずいいん ちょうべえ。江戸初期の侠客。大名・旗本へ奉公人を斡旋する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功。水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸で殺された。生年は1622年か、没年は1650年(慶安3年)か1657年(明暦3年)。
旗本奴 はたもとやっこ。旗本や御家人のうち異装をし、徒党を組み、無頼ぶらいの生活を送った者。奴とは武家奉公人。しだいに奉公人だけではなく主人の側(旗本)にもその風俗が拡大していった。無頼とは正業に就かず、無法な行いをする「やくざ者」のこと
水野十郎左衛門 みずの じゅうろうざえもん。3000石の幕臣で、大小神祇じんぎ組首領。幡随院長兵衛と争って殺害した。のち幕府に所業をとがめられて寛文4年3月27日切腹。家は断絶。
小石川 東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区。明治11年から昭和22年までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の文京区の西部。
牛天神 うしてんじん。天満宮の異称。東京都文京区の北野神社の俗称
網干坂 あみほしざか。東大付属小石川植物園の西縁に沿って北に向かう。坂下で湯立坂と接続する。坂下の谷は入江で、舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが名前の由来。
燗徳利 かんど(っ)くり。燗酒かんざけを飲むのに適した徳利と(っ)くり。燗酒とは加熱した酒で、おかんともいう。徳利とは細長くて口の狭い、酒などの液体を入れる容器。
こも わらの編み物のなかでも薄く、木などに巻きつける物

仲間 ちゅうげん。中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者。
舟川戸 現在の花川戸。台東区東部で、墨田区(吾妻橋・向島)との区境に当たる。
源空寺 台東区東上野にある浄土宗の仏教寺院。号は五台山文殊院。
はっきりしたことは分らない 東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」について「水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容です」。つまり、これ以上のことはわからないし、屋敷の宴会も、風呂も、死体も、橋も、坂も、あるかないか、全て不明です。しかし、歌舞伎では、これを元にして「幡随院ばんずい長兵衛ちょうべえ精進しょうじん俎板まないた」や「極付きわめつき幡随ばんずい長兵衛ちょうべえ」などを作り出しました。

 ここで網干坂あみほしざかが問題になります。網干坂は神田川の大曲から歩いて約30分かかります。一方、牛天神は約5分でつきます。牛天神に最も近い坂は牛坂、別名は鮫干坂で、北野神社(牛天神)の北側の坂です。あみ干坂ではなく、さめ干坂だったのでないでしょうか。

網干坂と牛坂

「小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改、地図は下図)では「水野右近」という名前がでかでかと書かれています。しかもその下の「牛天神社」、これも大きい。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

 しかし、幡随院長兵衛がでてくるこの事件は「小日向小石川牛込北辺絵図」よりも約200年も昔に起こったもので、さらに寛文4年(1664)には、「年来の不行跡」のため、水野十郎左衛門には切腹を命じ、家は断絶されました。
 一方、この「小日向」の絵図に出てくる「水野右近」は静岡県伊東市宇佐美の一部を所管する旗本でした。つまり「水野右近」と「水野十郎左衛門」とは全く違った人物なのです。
 虚構で固めた物語でも、わかっていることがあります。実際に水野十郎左衛門がいたこと、さらに、その屋敷がどこにあったのかも判明しています。おそらく西神田2丁目でした。

袋町|イチョウと旧日本出版会館

文学と神楽坂

 日本出版会館と日本出版クラブ会館は牛込城があったとされる光照寺の正面に並んで建っていました。
 日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立。1957年(昭32)、181社が参加して日本書籍出版協会を設立し、1957年8月には日本出版クラブ会館が落成。創設60周年を迎える2013年、一般財団に移行しました。
 この会館は財団法人・日本出版クラブが運営し、一般の方でもレストランや宴会場、会議室など複合施設で利用が可能でした。
 隣りにあるのは、日本出版会館。財団法人・日本書籍出版協会が入り、著作権の問題や違法コピーへの対策、読書離れなど、高度情報化社会の発展により生じる新たな問題への対応も行っていました。
 2018年、日本出版クラブはクラブ ライブラリーとして神保町に移転し、かわってマンションを建築。2023年7月、ようやく「プラウド神楽坂ヒルトップ」は落成。

出版会館

かつての出版会館。現在(2019年)は工事中。

 ここには大きなイチョウの木がたっています。その前には

新宿区保護樹木
 樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより)

 現在はイチョウの木と看板だけがあります。

 その上には、現在は何もないのですが、2013年初めまで、この土地の歴史の変遷が書いてありました。

「新暦調御用所(天文屋敷)跡」 新宿区袋町六番地

 この土地の歴史の変遷当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の1部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
 その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衞門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和2年当時使われていた(ほう)(りゃく)(れき)の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の1部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年に修正終了したが、天明2年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明7年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以降天明年中は火除地にもどされ、寬政から慶応までの間、2~3軒の武家屋敷として住み続けられた。
 弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
 戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴 を発見、牛込城の遺跡・江戸城と関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。
  2007(平成十九)年1月
       平木基治記(元文藝春秋)
        ”天文屋敷とは?”……パンフレット あります。
             出版クラブ受付まで

光照寺 光照寺はここに。
定説 実際は定説があり、ないのが間違い。詳説は幡随院長兵衛について
火除地 火除地について
新暦調御用所 浅草天文屋敷について書いています
一平荘 一平荘について、巴水の絵が綺麗
高校 一平荘は税金が払えなかったため、高校に代わりました
横穴 由比正雪の抜け穴ではと大騒ぎになります。切支丹の仏像について

また『拝啓、父上様』の第10話で、こんなエピソードを書いています。

出版クラブ
  お引き()め。
  集まっている人々。
 り「その日は神楽坂の新年会に当たる “お引き初め”が出版クラブであり、その流れで“坂下”も忙しかった。

 テレビででたのは本当に一瞬です。

出版クラブ11

袋町|幡随院長兵衛

文学と神楽坂

 袋町の一平荘が建っていた場所は、はたして(ばん)(ずい)(いん)(ちょう)兵衛(べえ)が殺された場所なのでしょうか? 一平荘はそういっていたようですが。結論を言えば違います。
 幡随院長兵衛は江戸時代の町人で、生まれは元和8年(1622年)、死亡は明暦3年7月18日(1657/8/27)です。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われました。彼と水野(みずの)十郎(じゅうろう)左衛門(ざえもん)はどちらも「かぶきもの」でした。ウィキペディアによると「かぶき者もの(傾奇者・歌舞伎者とも表記)」とは「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと」です。
 また東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」についてこう書かれています。

(「かぶき者」は身分の低い中間・小者・草履取・六尺など武家奉公人を指すのが普通ですが)同様の意識と行動をとった旗本もおり、彼らは「旗本やっこ」と呼ばれ、四代将軍家綱の時代には古屋組・鶺鴒せきれい組・大小神祇じんき組などのグル一プを結成していました。一方、町人の間からは旗本奴に対抗して「町奴」が生まれ、唐犬組・笊籬かご組などが組織されました。
 両者は江戸市中を横行し対立を深め、特に三千石の旗本、水野十郎左衛門が町奴の幡随院長兵衛を斬り殺した事件は、両者の対立の激しさを物語るものとして有名です。
 その殺害事件は明暦の大火から半年たった明暦3年(1657)7月18日に起こりました。水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容ですが、水野の言い分しか残っていないので、事件の真相は不明です。しかし、一説には長兵衛と水野十郎左衛門とが鞘当(さやあて)をして、長兵衛に恥をかかされた水野が恨みに思い、長兵衛を自宅に招いて風呂に入れ、裸になったところを搦め取り殺害したという話も伝えられています。
 この事件は武士対する町人の抵抗を示すものとして、のちに芝居や講談で美化され人気を博し人々によって語り継がれてきています。しかし幡随院長兵衛の事蹟や伝記については確実な資料が乏しく彼の経歴は不明なところが多いのです。

 歌舞伎では、これを元にして「幡随院(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)精進(しょうじん)俎板(まないた)」や「極付(きわめつき)幡随(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)」などを作りました。
 この一平荘が建っていた場所は殺害があった水野屋敷が建っていた場所だと言われました。しかし、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』が正しいのです。水野屋敷が建っていた場所は別で、西神田1丁目11番地なのです。しかし、西神田1丁目11番地は現在なく、代わって西神田2丁目になり、現場に近い西神田小学校も西神田児童センターになりました。まあ、水道橋に近いところで殺害し、ここ神楽坂や袋町ではなかったと覚えておけばいいでしょう。