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松山藩酒井家の光照寺墓石43基|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

 「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「山形県松山町との市民交流に秘められた『神楽坂光照寺酒井家墓石群43基のナゾ』」(2004年6月4日)を引用します。

 松山町は山形県庄内平野にある町である。地理に詳しくなければ、この町がいづこにあるか、まずピンとこない。地理音痴のわたしは、もちろんピンとこなかった。7年前までは。
 松山町が神楽坂と深く結びついていることは、いまでもほとんどの人が知らない。そのナゾから、神楽坂と松山町の市民交流ははじまっていった。今回はそのショートストーリーである。
 神楽坂一帯は、戦前まで牛込といった。いまの新宿区は、牛込区、四谷区、淀橋区が合併してできている。
 牛込区の歴史は、中世の牛込城に溯る。
 赤城山山麓地方の大胡氏が神楽坂に進出して、いまは光照寺になっている袋町に城をかまえたのが、牛込城の始まりである。
 平城で格別の城郭があったわけではないので、光照寺を牛込城の跡というには少少の気恥ずかしさを感じてしまうが、歴史家はそういっているのでそれに倣おう。
 大胡氏がきたころの牛込台地は広々として、武蔵野台地の端に位置しているので海も近く、草原も形成されていたのだろう。牛の放牧に適していたようである。牛込つまり牛の牧場もあった。
 そんな土地柄なので、ここらは人呼んで牛込といっていた。
 大胡氏は、やがて自らも牛込氏を名乗るようになった。
 牛込氏は、北条方についていたので、徳川幕府開府とともに、この城も取り潰されて、その跡地に神田から光照寺がやってきた。1645年のことである。
 さてその光照寺である。
 ご住職はいかにも住職住職している方である。こういう言い方は変なのだが、むかしのご住職はみな光照寺さんのように住職住職されていた。浮世離れしているといったら怒られるかもしれないが、お寺は浮世から離れているのが本来だから、その点古典的つまり本来の神職の風情により近いお方である。おなじ神楽坂のお寺に善国寺がある。毘紗門さまとしてよく知られ親しまれている。このご住職は、人当たりもよく街に溶け込んでいる。犬の散歩などされている時に会うと、一見普通人然としたまま気さくに声をかけてくれる。
 神楽坂商店街のど真ん中にある所為で、精神的に街との距離も近い。商店会の新年会にもかならず御参加になる。
 さて先の光照寺さんには、異様な墓石群がある。異様なというのは、怪奇なという意味ではない。
 普通人の墓はみな一様につつましい。それにくらべてあまりにも目立ち過ぎ、数も多い。
 じつはこれが、旧松山藩酒井家の一族の墓なのである。
 新宿区の教育委員会は、この墓については文化財と位置づけていないが、区内で江戸時代から残っていて手付かずの墓石は、ここ光照寺の酒井家の墓石群と弁天町の寺のものだけである。
 では酒井家はなぜ光照寺に歴代の墓を築いたのだろうか。
 地元の郷土史家によれば、酒井家初代の奥方が利口だったかららしい。
 江戸初期の酒井家の最初の墓は芝増上寺であった。当時寛永寺、増上寺は幕府の菩提寺であるため、ここに墓を持つことは相当な経費を覚悟しなければならない。
 その財政負担から逃れるため、光照寺が神田から神楽坂へ移ってきたのときにいち早く墓を移転したというのだ。
 二代を除いて、藩主、奥方、側室、子供の墓がなんと43基も揃っている。門構えのある墓などもあり、形容矛盾な言い方だが、豪華絢爛なのである。
 そこに立つと、耳なし芳一になって霊界からの死者と対している気分になるほどだ。
 その武士一族の墓場は、しかし一方では、別の問題で光照寺を苦しめているのである(続く)。
松山町 山形県飽海郡の町で、昭和30年(1955)1月1日発足したが、50年後の平成17年(2005年)11月1日、酒田市、飽海郡八幡町、平田町と合併し、新たに酒田市が発足。江戸時代では正保4年(1647年)、庄内藩主酒井忠勝が三男忠恒に松山の領地を分地し、松山藩が始まっている。
庄内平野 山形県北西部で最上川流域に広がり、南北約50km、東西約40kmの平野。穀倉地帯で有名。

庄内平野の地形図

牛込区、四谷区、淀橋区 昭和22年(1947)3月15日に3区が合併。新宿区になった。
牛込城 新宿区の牛込藁店わらだな(地蔵坂)の坂上、袋町の光照寺付近の台地にあった。牛込城の廃城は1590年ごろ。築城は不明だが、1510〜1520年か?
赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
大胡氏 上野国(群馬県)勢多せたおお郷を基盤とする領主で、武士の一族。
光照寺 新宿区袋町にある浄土宗の寺院。慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開祖。正保2年(1645)に現在地へ移転。
平城 平地に築かれた城。
牛込台地 早稲田通り以南は、牛込台地と本村台地の2つの台地からなっています。

牛込氏を名乗る 牛込氏は牛込に移り住んで、初めは大胡姓を使ってきました。北条氏康に申請して許可を得てから、天文24年(1555)以降は牛込姓を使ってきました。
善国寺 日蓮宗の鎮護山善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、文禄4年(1595)日惺上人が麹町六丁目に創建、寛政5年(1793)当地へ移転。
松山藩酒井家 出羽松山藩(山形県酒田市)の酒井家です。矢来町の矢来屋敷が有名な小浜藩(福井県)の酒井家とは違います。同じ姓名が2人いるのも(若狭小浜藩酒井讃岐守忠勝と松山藩酒井忠勝)混乱します。
弁天町の寺 弁天町には宗参寺、浄輪寺、南春寺、照臨山多聞院があり、江戸時代の墓石はどの寺でも持っています。
芝増上寺 港区芝公園四丁目の浄土宗の三縁さんえんこうぞうじょう寺。徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正18年、1590年)。
寛永寺 かんえいじ。天台宗の東叡山寛永寺円頓院。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
耳なし芳一 盲目の琵琶法師、芳一は、霊に取りつかれる。寺の和尚は芳一の体中にお経を書くのだが、耳には書き忘れた。芳一は耳を怨霊に引きちぎられてしまう。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。
 現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。
 そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。
 酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。
 通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。
 しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。
 もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 ご住職はいま風の方ではないので、多分そうは考えなかったと思うが、傍から見ている下々は、そんなことを考えかねない。
 新宿区は、江戸時代からある43基の大型墓石群は、区内の貴重な史跡であると思っている。事実史跡調査もかけている。
 かといって、財政逼迫のおりからそうそう金銭的援助もできかねる。宗教問題も絡んできて、ややっこしい。
 こうして光照寺の苦悩はますます深まっていった。
 このはなしを耳にした神楽坂まちづくりの衆の何人かが奮い立った。
「なら、おらほで、山形の酒井家と光照寺さんの仲をとりもつべえ」
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
「おせっかいな」
と思われる御仁もいるとおもうが、まちづくりというものは、基本的にはお節介焼きなのだ。
 むかし、町には必ずお節介な世話好きがいたものだ。
「なんだなんだい、おらにまかせておけ」
 じぶんのことはさて置いて、困っている人がいると聞けば東奔西走。困っていない人がいても
「どうしたどうしたい」
と首を突っ込む。
 戦後、行政というものの範囲が広がり、個人の確立、個の自由、権利と義務などスマートで西欧的なルールが導入されて以降、こうした世話好きは他人の生活への闖入者と忌み嫌われ、疎まれた。
 社会の諸制度も確立し、個人主義も蔓延した結果、町の世話好きはもはや絶滅危惧種であった。
 しかし行政は公平主義、手続き主義、機会均等の原則、すべったころんだで縛られるため、現実には町の要望にこたえられない。
 こうして世話好きたちは、ありあまるおのれたちの情熱に捌け口を、まちづくりというあたらしい市民活動のなかに求めてきた。
 だからまちづくり活動は別に新しいことではなく、かつてのまちの世話好きさんがあたらしい装いの出店をしたに過ぎない。
 神楽坂のまちづくりの会のみんなは、光照寺さん応援の意気に燃えた。
 もしこれが上手くまとまれば、光照寺さんはもちろん、新宿区にとっても、また江戸からの貴重な墓石群一式が保存されることでの町おこしのためにも、万万歳、めでたしめでたしということになる。一石三鳥である。
 まちづくりの会の人たちは、功名心というものに無縁の人がほとんどだ。みんなはこのことを純粋に考えて、酒井家を訪ねる庄内旅行に出発することになった。
 この旅は、また大いなる珍道中だった(続く)。
神楽坂まちづくりの会 平成3年、結成。代表者は坂本二朗。神楽坂まちづくり推進計画、神楽坂まちづくり憲章、神楽坂まちづくり協定、神楽坂キーワード表等を作成。平成30年(2018)を最後に休眠中。
致道博物館 ちどうはくぶつかん。庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった。貴重な歴史的建築物(旧西田川郡役所、旧庄内藩主御隠殿、民具の蔵、旧渋谷家住宅、旧鶴岡警察署庁舎)、酒井氏庭園、重要有形民俗文化財収蔵庫などが移築。
おらほ 東北弁などで「私たち」

 庄内旅行は、松山町と隣接する櫛引町も訪問することになった。
 まちづくりの会に所属するFさんの事務所の共同使用者が、櫛引町の東京代表を務めていたからである。
 この旅行はFさん中心で企画されていった。
 Fさんはエコロジーに強い下水道などの設計者で、設計事務所を経営しているのだが、わたしなどが見ていても、どこまでが本業でどこからがボランテイアか判然としない。
 まちづくりの会にはそんな人が多いのでだれも気にしないが、社長業のかたわら庄内旅行を遂行するのは大変だったろう。
 バスを借りることになったので30人は集めようということになり、旅行には3つの会が参加した。神楽坂まちづくりの会、わたしが主催する川を歩く会、Fさんの関係の山方面の会である。
 わたしの会では、時間がなかったため趣旨の伝達が不充分で、課題をはっきり把握していない参加者が混じってしまったが、この混成部隊はいずれにしても目的がバラバラだったことは否めない。
 光照寺さん支援がメインだったが、黒川能鑑賞にひかれたもの、最上川歩きに好奇心を募らせたものなど、観光目的の人々がいたことは事実であった。
 町の歓迎会の席上、松山町、櫛引町がどこかわからないまま参加したという発言を平気でする無邪気なものも出て、わたしたち主催者者側をひやひやさせた。
 町側の歓迎は驚くべきものであった。
 町長以下、助役、総務部長、観光課長、商工課長、農協役員など、総勢20名近くが、わたしたち30名を歓待してくれた。
 その熱意にはほとほと感謝したが、私たちの団体がなにを目的としてきているかを誤解しているのではないかと心配になったほどである。
 わたしたちは、新宿区の行政ではないし、神楽坂の商店会でもない。任意のまちづくり団体である。
 結成して数年が経っているが、それほど力量があるとも思っていない。
 それなのに、この歓迎である。松山町に限らず、櫛引町でもである。
 ありがたいと思う反面申し訳ないとも思い複雑であったが、地方の町が東京と地域交流して、商工でも農産物でも、販売や開発の切っ掛けになればと真剣に思っていることは、手にとるように実感した。
 やがてこの庄内旅行から一定の成果がうまれたのであるが、このときは、多彩な歓迎にただただ恐縮するのみであった。
 ところで、光照寺さんは、致道博物館館長である松山藩のお殿様の末裔と面会した。私たちも同行した。
 博物館は町の中心にある名建築を使用していて、収蔵品も漁具や民具がそろっていて、たいへん優れた博物館であった。
 その応接室で、お二人は対面した。いずれもやんごとなきかたなので、会見はとても不思議であった(続く)
櫛引町 くしびきまち。旧山形県東田川郡の町。2005年10月1日、鶴岡市、藤島町、羽黒町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市に。
黒川能 くろかわのう。山形県鶴岡市黒川の春日神社に奉納された能。氏子で農民の能役者はほぼ世襲で、およそ160名。伝承の規模の大きさ、組織の強固さは、他の民俗芸能に類を見ない。
やんごとなき 家柄や身分がひじょうに高い。高貴だ。止む事無し。「終わりを迎えることは決してない」との表現。転じて「捨て置けない」「とても大事だ」「尊ぶべきだ・高貴だ」の意味が派生。

 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。
 末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。
 随行の人間はこのはなしには加われるはずもないから、ひたすらふたりのはなしに耳を傾けた。
 光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。
 光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。
 いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。
 末裔さんは恬淡として静寂であった。
 こうして光照寺さんと末裔さんは、一期一会の限りであった。
 ふたりはご年配である。今生で再会することはまずあるまい。
 わたしたちは神楽坂から山形に大勢で出かけてきた。そして、酒井家一族の43の墓石を維持管理している光照寺さんと、キリスト教に改宗されて神楽坂とは無縁になられた酒井のお殿様の末裔との歴史的会見を実現した。
 1600年代に芝の増上寺から牛込神楽坂にお墓を移したことから始まった酒井のお殿様と光照寺の祖先の延延350年ものお付き合いがこうして物別れになったことに、わたしは一抹の感慨と不安を抱いた。そしてわたしがそこに立ち会っている不思議さに改めて思い致した。
 この会見を限りに、あるいは光照寺と酒井家との関係は断絶するかもしれない。光照寺は、都心の一等地を占める酒井家の無縁墓地を改修して、一基うん百万円で分譲するかもしれない。
 43の墓については、新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一さんが丹念に調べているが、それは停止した歴史の調査であり、こうした血肉をもって現存する人間の歴史的関係は、時代のある瞬間に突然消滅する。
 神楽坂まちづくりの会の参加者たちは、あと10年もすれば年老いていき、記憶も薄らいでいく。そして単なる団体旅行の思い出話になっていくに違いない。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。
 わたしは、川が好きである。四半世紀、都市河川の環境問題に関わったこともあり、全国の川を歩くのを楽しみにしてきた。
 山形は何といっても「五月雨を——」の芭蕉最上川である。
 旅の一日、わたしたちは、松山町の町長やお偉方に招待されほろ酔いになった夜、小高い丘に投宿した。
 翌朝目覚めて見渡すと、丘の眼前に、大蛇がたゆたうように流れ行く最上川があった。左に出羽三山、右に鳥海山、最上の流れの遥かさきには日本海が広がっていた。
 松山の人たちは、遠くにあってふるさとを思うとき、この丘の上からの眺望を思い描くという。
 これが庄内平野かと、わたしはこの風景を目に焼き付けるためひとときまぶたを閉じた。
 そしていまこれを書いているときも、ひとときまぶたを閉じてみた。
 するとあのときとまったく同じ光景がまぶたの奥に立ちあがってきた。
 あの日この光景に接したとき、わたしの妻が隣にいてくれたのが幸運だった。
 こんなすばらしい風景というものは、めったにあるものではないからだ。
 この丘を眺海の森と、地元では呼んでいる。
 このことが縁で、松山町と神楽坂まちづくりの会は、いまでもずっと細細ながら市民交流を続けているのである。
 ことしもその季節がやってきた。
末裔 まつえい。子孫。後裔。
忖度 そんたく。他人の心中をおしはかること。自分なりに考えて、他人の気持ちをおしはかること。
恬淡 てんたん。あっさりしていて物事に執着しないこと。心やすらかで欲のないこと。
一期一会 いちごいちえ。一生に一度限りの機会。生涯に一度限りであること
一抹 いちまつ。ほんのわずか。わずかにある。かすか。
無縁墓地 墓の継承者や縁故者がいなくなったり、管理費が一定期間支払われなかったりした墓。官報に記載し、該当する墓地の見やすい場所に札を立て1年間公告し、この期間に申し出がなかったら無縁墓と認定できる。
新宿区歴史博物館 新宿歴史博物館。新宿区四谷三栄町にある、新宿区の郷土資料を扱う博物館。
五月雨を—— 五月雨を集めてはやし最上川。さみだれを あつめてはやし もがみがわ。季語は初夏。梅雨の雨が最上川へと流れ込んで流れが早くなっている。
芭蕉 松尾芭蕉。まつおばしょう。江戸前期の俳人。深川の芭蕉庵に住み、蕉風俳諧の頂点をきわめた。紀行文は「奥の細道」など。生年は寛永21年(1644)。没年は元禄7年10月12日(1694年11月28日)
最上川 山形県を流れる一級河川。流れが大きく激しいことで有名。
出羽三山 磐梯朝日国立公園の最北部を占める山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称
鳥海山 ちょうかいさん。出羽富士とも。山形県と秋田県の県境で日本海に面し、標高2236メートル。
眺海の森 ちょうかいのもり。県民の森。アウトドア施設(スキー場、キャンプ場、ピクニックランド)、学習施設(森林学習展示館、天体観測館)がある。

出羽三山と鳥海山、眺海の森、松山城

奥州街道と鎌倉海道|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「戸塚地区 28.奥州街道と鎌倉海道」では……

奥州街道と鎌倉海道
     (戸塚一丁目)
 西北診療所前をさらに西に行くと、右折する細道の西角に五角柱の高さ約40センチほどの道しるべがある。その細道が奥州街道鎌倉海道ともいう)といわれる古道の名残りである。古道は早稲田通りの南に続き、戸塚一丁目と二丁目の境をなしている。それがさらに南の学習院女子部内から戸山ハイツに通じ、西向天神下、新宿二丁目、千駄ヶ谷、霞岳町と続く(四谷45参照)。北は豊島区の宿坂、雑司谷と続くのである。
 その古道を北に行くとすぐ茶屋町通りと出合う。この茶屋町通りが、東からくる鎌倉海道といわれる古道の名残りである。鎌倉海道については、「新編若葉の梢」によると、船で芝付近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本永川から番町を横切り牛込矢来町の酒井家下屋敷にくる。その邸内には沓掛け桜牛込22参照)があり、その下通りの小笹坂下が渡船場でそこから船で戸塚の毘沙門山下の船繋ぎ松(5参照)に着き、早大正門、観音寺前、松原通り(20参照)、早大構内、茶屋町通りと続くと推定している。
 なお「南向茶話追考」には、榎町とは榎の大木があったことから名づけられた町名(牛込55参照)で、その木は古来の鎌倉海道にあったものだと書いているから、室町時代以後は、九段から神楽坂—矢来町酒井邸内沓掛桜—榎町—供養塚—茶屋町通りと、牛込台地端をやや直線的に、続いていたものと思われ、これが現在の早稲田通りの前身だったと考えられる。
 この鎌倉海道はさらに、落合台地下の妙正寺にそって西にのびたのであろう(落合7参照)。
〔参考〕武蔵野の交通路 新編若葉の梢 新宿と伝説

西北診療所 専門は内科、胃腸科、循環器科、外科、整形外科、皮膚科です。
道しるべ 残念ながら道しるべはなくなりました。

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

西北診療所、道しるべ、戸塚1・2丁目

奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち

 ここで江戸時代の奥州街道と、鎌倉時代の鎌倉海道(鎌倉街道)が同じ意味で出てくるのは納得できません。奥州街道の現在の出発地は千住で、普通の意味ではこの街道を奥州街道とは呼びません。鎌倉街道の出発地は鎌倉で、しかも、鎌倉と各地を結ぶ全ての道を総称して鎌倉街道と呼びます。この古道は鎌倉街道の1つといえますが、奥州街道とはいえません。

戸塚一丁目と二丁目 昭和50年に、新しい住所表示に変わり、戸塚1丁目以外はなくなりました。しかし、この本は昭和47年に出版したので、 2丁目は消えません。
南の学習院女子部内から……

古道。雑司が谷から霞ヶ丘町

茶屋町通り 江戸時代、流鏑馬などの馬場練習場中の旗本や、雑司ヶ谷に鬼子母神参拝人のため、松並木の下に地元の農家8軒がそれぞれ茶屋を開店。明治初年、8軒全てが廃業し、他の職種に変更。下は歌川広重作『絵本江戸土産』4編「高田馬場」で、茶屋は右下に。

 たか馬場ばば
穴八幡あなはちまんかたはらにあり このところにて弓馬きうばの 稽古けいこありまた
神事じんじ流鏑馬やぶさめ興行こうぎやう せらるゝことあり東西とうざいへ六丁
東南とうなんのぞめば堤塘つゝみつらなり 南北なんぼく三十余間よけん
むかし頼朝よりともきやう隅田すみだがはより このいたせいぞろいありしと いひつた

この茶屋町通りが…… 茶屋町通りは高田馬場跡の並行2本のうち北の1本です(↓)。「新編若葉の梢」では「古來の街道がその儘あって、尾州公戸山御屋敷に入り、高田馬場の中程の所に御門の見える所に出て、馬場を横切り、嘉兵衛の屋敷の西が古來の舊道(鎌倉街道)であって、理十郎の家の東南の隅、清水公御屋敷車門の前で、松原通りからの海道と落合う。」となっています。

正保年中江戸絵図

新編若葉の梢 金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)が底本。内容を整備、訂正し、口語体に書き改めたものが「新編若葉の梢」。著者は海老澤了之介。新編若葉の梢刊行会。昭和33年。
船で芝付近に…… 「新編若葉の梢」を引用すると「水路鎌倉街道は、船で芝附近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本氷川から番町を横切り牛込の酒井修理大輔(若狭小浜藩主、113千石)の下屋敷にかかるのであった。この酒井家の庭に三抱えもある山桜の大木があり、沓掛桜と呼ばれていた。その下通りの小笹坂という所は、楠不伝が斬られたというので、六十六部の笠の形をした石塔が立っている。ここの泉水の下が渡船場であった。この渡船場から船にのり、入江を渡って、金川の落合、毘沙門山下に着船したのである」
 この「本氷川」がわかりません。まあ「霞ヶ関」と「番町」との間にある土地だと考えていればいいでしょう。
 酒井修理大輔と若狭小浜藩主は同じ人物で、沓掛桜もわかっています。
 ざさざかは、辞書を引けば、文京区と豊島区を分ける坂で、これは違いますね。「楠不伝が斬られた」場所は『新撰東京名所図会』によれば、弁天町らしい。次の文章が弁天町の項に出ています。
「○楠不伝の斬られし地
高田ひばり云、楠不伝が切られし所、榎町宗柏寺向まきかみゆいとこの間なるべし、むかしはざさざかという」

 ここに小笹坂が出てきました。弁天町と宗柏寺の地図は……

弁天町と宗柏寺

 くすのき不伝ふでんとは江戸時代前期の兵法家。由比正雪に楠流軍学を教え、養子にしたという俗説があるそうです。
 次の渡船場もわからない。最古の江戸絵図である「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会、寛永19~20年、1642−43年)を使っても、神田川は遠く、あるのは田圃です。これより古い古い地図がないと本当にわかりません。まあ、あったと考えて「寛永江戸全図」田圃上に青色で航路を書いてみます。

寛永江戸全図(寛永19~20年)

毘沙門山 「新宿の散歩道」の戸山地区5では「商店街を北に行くと、まもなく左手に永田運動具店がある。この店とその奥一帯は昔毘沙門山であったが、昭和8年に道路拡張のため切り崩され、傾斜地になった。藤原秀郷が、天慶四年(941)に平将門を亡ぼして上京する時、秀卿の念持仏で慈覚大師作の毘沙門天像を納めるため毘沙門堂を建てたので毘沙門山と呼ばれたという。毘沙門堂は維新後まもなくとり払われた」

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

左が毘沙門山。「新宿の散歩道」から

船繋ぎ松 『新編若葉の梢』を引用すると「この松は毘沙門堂の後方の山腹にあった。大歓院殿(三代将軍家光)が、この古松は幾年程の樹齢かとお尋ねがあった時に、寺僧がおよそ千年にもなるでしょうと申上げたので、千歳ちとせの松というよい名を賜った。むかし藤原の秀郷が船をこの松に繋いだというので船つなぎ松と呼ばれた。この寺の垣外の田面がみな入海で、金川落口の所が着船場になっていたのである。
「この松は直徳の時代すでに枯れてしまっていたが、その後にまた植えられたものか、やはり船繋の松として伝えられる老松が残っていた。これも、昭和の初年、毘沙門山が切りくずされて分譲地となったとき伐られてしまった。いま法輪寺境内に俵藤太秀郷御紹松造跡という、大きな標示杭が建っているが、ここは全然別の山で、船繫松と何等関係ない所である」

註:藤原秀郷 ふじわら の ひでさと。栃木の武将。平将門を朝廷の命により倒し、乱を平定。
  入(り)海 いりうみ。陸地にはいり込んだ海や湖。湾。入り江。cf. 汐入、潮入:低地や海とつながる池・沼・川などに海水が流入すること、その場所。
  金川 現在は「蟹川」。かにがわ。水源は新宿区戸山公園の池。新宿区馬場下町から早稲田鶴巻町を経て新宿区西早稲田の豊橋付近で神田川に合流する。沢蟹がたくさんいた。
  落口 水の流れが落下する所

船つなぎ松(『新編若葉の梢』から)

 また『新宿の散歩道』(戸塚地区5)では「この毘沙門山には船繋ぎ松という古木があった。藤原秀郷が軍船をこの松につないだので名づけられたものという。また千歳松ともいった。家光が鷹狩りの時ここにきて、この松の樹令を開かれた時、この辺一帯を領していた宝泉寺の寺僧が、およそ千年近いだろうと答えたので名づけられたという」
観音寺 真言宗豊山派の慈雲山大悲院観音寺。早稲田大学の大隈講堂に至近。
松原通り 戸塚地区20に「観音寺と早大構内との間の細道(松原通り)を行くとつき当り左手が早大の戸塚球場である」。戸塚球場とは安部球場のことです。

戸塚地域(「新宿の散歩道」から)

南向茶話追考 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌。『南向茶話追考』(明和2年、1765年)も江戸の地誌。この『追考』では「◯牛込榎町 古老云、昔は大木の榎有。依て号する由、是木は古来鎌倉海道の由申伝」
九段から神楽坂—……

九段下駅から茶屋町通りまで

供養塚 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」牛込地区75「牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」(喜久井町14から20)でしょう。延享2年(1745)から明治2年(1869)まで「牛込供養塚町」が出ています。「牛込供養塚町」と「喜久井町14から20」とは1対1に対応するわけではありません。

牛込供養塚町

牛込台地 落合台地 写真を参照

牛込台地と落合台地 (地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)

妙正寺 杉並区清水3丁目にある日蓮宗の法光山妙正寺。妙正寺川の水源となる妙正寺池を中心とした妙正寺公園もあります。妙正寺川は中野区を流れて江古田川を合わせ、新宿区下落合で神田川に合流します。

高橋春人その軌跡

文学と神楽坂

 高橋春人記録集世話人会「高橋春人その軌跡」(ビスカムクリエイティブ、1999年)です。氏は戦前から絵画・グラフィックデザイン・公共広報デザインの第一人者として活躍し、特に1964年の東京パラリンピックでは公式ポスター、大会マーク、メダルのデザインなどを担当。出生は1914年。死亡は1998年で、84歳。
 死亡の翌年に出た「高橋春人その軌跡」ではまず春人氏の多数の作品を展示し、次に何人もの友人が弔意を表し「ここは牛込、神楽坂」編集長だった立壁正子氏はこう述べています。

立壁正子氏

 恩 
タウン誌からいま
心からの
感謝をこめて

 この春、第15号を迎えたタウン誌『ここは牛込、神楽坂』で、「鏑木清方」の特集を行なった際、清方の名作「築地明石町」にまつわる、思わぬ発見があった。
 矢来町にいた清方のことは、高橋先生からよく伺っていた。その際、必ず出るのが名作中の名作「築地明石町」のことだった。「あのモデルとなった女性は、いいとこの奥さんで、なんでも、その親族がこの近くにいるらしくてね」
「先生、神楽坂の“話し方教室”と“タゴール”のオーナーの江木さんご兄弟が、モデルの江木ませ子さんのお孫さんでした。それで、彼女の写真も出てきました!」
 心の中で真っ先にこうご報告した。
 先生がご存命だったら、どんなに喜んでくださったことだろう。先生がご他界になってこのかた、何度か先生かいらしてくださったらと思ったことがあるが、このときほど残念な思いにかられたことはなかった。

築地明石町

築地明石町 第8回帝国美術院展覧会(昭和2年)で帝国美術院賞を受賞した気品ある美人画。1972年に清方氏が逝去し、サントリー美術館の出品(1975年)を最後に行方不明に。2019年、東京国立近代美術館が購入した。
話し方教室 話し方教室の創始者は江木武彦氏。1954年10月、東京都成人学級の「上手な話し方」を始め、受講者が集まり、1960年代には興隆期に。神楽坂3丁目の五条ビルで話し方教室を開設。
タゴール カフェバー。名前の由来はインドの詩人でノーベル賞文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴール氏から。昭和62年(1987年)8月22日(土)、神楽坂3丁目の五条ビルで開店。閉店は平成16年(2004年)頃。
江木ませ子 生年は明治19年、没年は昭和18年。夫の江木定男氏は農商務省の役人。鏑木清方氏は父の江木保男氏の知人。清方氏の奥様の照氏はませ子氏の女学校時代の友達。15歳のませ子氏は淡路町の姉夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学した。鏑木清方はこの情景を捉えて

江木ませ子

 私が好きでかく明治の中ごろ、新橋の駅がまだ汐留にあつた時分で、もう出るのに間のない客車に、送るのと送られるのとふたりの美しい女学生を見た。送られる方は洋髪の人で車上にゐる。ホームに立つて送るのは桃割れで紫の袴を裾長にスラリとしたうしろすがたは、そのころ女学生をかくのにたくみだつた半古さんの絵のやうであつた。
 昭和二年にかいた「築地明石町」に面影をうつしたM夫人はその時の桃割れの女学生だつた人で、私の家内と女学校のともだちなのだ。【M夫人/鏑木清方】

註:桃割れ 江戸時代後期から昭和まで町人の娘に流行した女髷。頭頂部から後頭部にかけての髷を丸く左右両サイドに分け輪を作り、鬢を膨らませる。その形が桃の花が開くように見えることから、桃割れと呼ぶ。
半古 梶田半古。かじたはんこ。明治の日本画家。写実的で浪漫的な風俗画を得意とし、新聞や雑誌のさし絵でも有名。生年は明治3年6月25日、没年は大正6年4月23日。

亡くなってから改めて気付いたこと
 そういえば、あるとき、道で先生にお会いして、鏑木清方の家の跡をたずねてみようということになり、神楽坂にほど近い、矢来町の住宅街へ出かけたことがあった。その界隈の人に聞いてみたりしたが、誰も知らなかった。先生は、清方の随筆集『こしかたの記』を、繰り返し読んでいられるようで、「あの記述によると、確かこのあたりだが……」と、見当をつけられた。
 今回、雑誌で特集をするにあたり、清方の家に伺ったことのある神楽坂の夏目写真館の夏目正衛氏にご同道いただき、その場所を教えていただいたが、夏目氏が、「様子が大分変わって断定しにくいが、たぶんこのあたり」と言われた場所は、高橋先生の推定とほぼ一致していた。
 清方の特集のために、清方の随筆もかなり読んだが、そのところどころに、あ、これは先生から伺ったことだという箇所がよく見つかった。
 よくこれだけのことを、しかも正確に覚えていて、それを伝えてくださっていたのだと、感嘆させられた。
 そして、先生が、たいへんな読書家で、文学にも造詣の深い方だったということを知らされたのだった。

 まだ続きます。

先生からいただいた宝物をもとに…
 文学といえば、これも雑誌で夏目漱石の特集をした際、漱石の『硝子戸の中』をテキストに、少年時代の漱石がたどった夏目坂から神楽坂に至る道をご一緒に歩いたことがあった。
 先生は、まず牛込台地の説明から始まり、「ここは松平備前守の下屋敷の跡で、その後、池になったところ」とか「ここは、狐が啼くような淋しいところで、このあたりにいた田山花袋も漱石も、神楽坂に出るときは、ここの長い田圃路を通って行ったんだよ」など、道筋に埋もれた歴史を解きあかしては、私たちを驚かせた。
『硝子戸の中』に記された漱石の家の前にあった小川が、いまは暗渠となっていること、その近くにあった床屋のあった場所がここと特定してくださったのも、先生だった。
 ただ、漱石のお姉さんたちが、芝居見物に行くとき、“馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る”というコースに関しては、柿の木横丁がどこか特定できず、ベンディングとなったままになってしまった。
 このほか、父上のお仲間だったということから、ひときわ思い入れをお持ちの田山花袋のこと、そしてご自身が面識のあった稲垣足穂のこと、矢来町の酒井屋敷のことなどなど、そのうちぜひご執筆をとお願いしておいたテーマも、まだいろいろ残されている。
 これからは、お宅に伺ったとき、あるいは先生の作品を展示したギャラリーのソファーで、そして漱石散歩などのまち歩きにご同道いただきながら…その都度伺ったお話など、先生からいただいた大事な贈り物をもとに、一つ一つ、まとめていければと願っている。
 先生ほんとうにありがとうございました。どうぞこれからも宜しくお導きのほど。
牛込台地 山手台地の一部。山側(山の方向)の台地。「手」は方向を表す(上手うわて下手しもて)。

牛込台地と落合台地(地理院地図 : GSI Maps|国土地理院)

松平備前守の下屋敷 赤で描いた範囲が旧津山藩松平越後守高田下屋敷です。

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

狐が啼くような淋しいところ 「ここは牛込、神楽坂」第10号(牛込倶楽部、平成9年)の「金之助少年の歩いた道を行く」で「ここは牛込、神楽坂」編集長の立壁正子氏は「青年期にこの辺に住んでいた田山花袋が『早稲田町ここも都の中なれど雪の降る夜は狐しば鳴く』などど詠んだ淋しいところだったとか。漱石の『硝子戸の中』にも、“当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畑とか、竹薮とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。”とある。『田山花袋もここを通って神楽坂へ出ていたんだよ』と先生」(先生は高橋春人氏)。
 田山花袋氏は喜久井町20番地に住んでいました。これは下屋敷と同じ住所でした。
小川が、いまは暗渠 「硝子戸の中」16章では「うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える」としています。詳しくは「漱石と『硝子戸の中』16
馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る これは漱石と『硝子戸の中』21を参照。