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沼地だった大曲付近|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 42.沼地だった大曲付近」を見ていきます。「昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである」という考え方は部分的に正しく、「昭和のはじめごろ」はおかしいと思えます。

沼地だった大曲付近
     (新小川町一、二、三丁目
 大曲一帯は、江戸時代初期には白鳥沼という大きな沼であった。また前にのべたが飯田橋あたりは大沼という沼地であった(11参照)。それを、万治年間(1658ー60)、お茶の水堀を掘る時、掘りとった土や白銀町の台地(御殿山)を崩した土で埋めたてたのである。そして神田小川町の武家屋敷をここに移したので新小川町と名づけられた。大曲のところの橋を白鳥橋というのは、昔の白鳥沼の名前をとったのである。
 神田川は、このあたり低地を蛇行して流れていた。大雨の時などは川が氾濫して、まわりの田畑は洪水の害を受けることが多かった。
 そこで昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである。新小川町などは、はじめ文京区の小石川地区であったが、明治13年11月に牛込区に編入されたものである。
 落合から下流飯田橋までをはじめ江戸川と呼んでいたが、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことになった。下流のお茶の水、浅草橋、隅田川までは、江戸時代に江戸城外堀として掘られた人工の川である。
 お茶の水堀ができない前は、神田川は、白鳥沼から大沼、小石川橋九段下神田橋常盤橋日本橋鎧橋を通って江戸湾に注いでいた。古くは大沼から一ツ橋あたりまでを上平川、それから下流を下平川と呼んでいた。
 神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年である。
〔参考〕江戸砂子 沈み行く東京 江戸町づくし稿中巻
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていること。その場所。新宿区と文京区では神田川の流路がほぼ直角に曲がっている所。
新小川町一、二、三丁目 現在は昭和57年(1982)の住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合、なくなり、新小川町だけになりました。
白鳥沼 小石川大沼の上流の池。
大沼 小石川大沼。江戸初期以前では神田川(平川)と小石川の合流地点。湿地帯だった。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

埋めたてた 「御府内備考」「牛込之一」「総論」では

万治のころ松平陸奥守綱宗仰をうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へかけてほりぬき水戸家の前をすき牛込御門の際まで堀しかははしめて牛込へ船入もいてきしこのほり上たる土を以て小日向の築地小川町の築地なり武士の居やしきをもたてり、この築地ならさる前は赤城の明神より自白の不動まで家居一軒もあらて畑はかりなりしか、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり
 新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では
新小川町は、明暦四年(1658)の3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して埋め立てたのである。また、万治年中(1658一60)には仙台の伊達綱宗がお茶の水堀を掘って神田川の水を隅田川に通ずる工事をした時、その掘り土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋め立て地を新小川町といった。
 新宿区生涯学習財団「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では
万治年中(1658-61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ。
 東京市麹町区編「麹町区史」(昭和10年)では
 翌万治3年2月10日、有名な神田川開疏が行われ、伊達家の担当で牛込から此の門(筋違橋門)際舟入りとなる。

昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐに 間違えています。寛文11-13年(1671-73)からは、氾濫がない場合に、江戸川橋より下流では今とほぼ同じ流路でした。

新板江戸外絵図。寛文11-13年。(1671-1674)

昭和22年 住宅地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

昔の江戸川の流路 何が原因で区境になったのでしょうか? 正保元年(1644)頃の正保年中江戸絵図を見てみます(下図)。前図からさらに古い地図ですが、神田川は江戸川橋から東方になっても蛇行をしているようです。

正保年中江戸絵図。嘉永6年(1853)に模写。原図は正保元年(1644)か2年に作成か

 そこで伏目弘氏は『牛込改代町とその周辺』(自己出版、平成16年)で「仮称『江戸川大沼』の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは」と考えています。

交錯する江戸川橋付近の区境 現在の江戸川橋交差点付近には、神田川を境に文京区と新宿区の区境が錯綜している地域がある。文京区は、昭和39年から42年にかけて、町成立の歴史認識を無視し、町名変更を実施したのである。
 旧町名の小日向町・東古川町・西古川町・松ヶ枝町・関口水道町・関口町の六カ町は、一律に関口一丁目・二丁目となったのである。これらの旧町と新宿区の町境を歩いてみると、まるで迷路のようである。ここで仮説を交え、その原因を探ってみる。
 単純に立地条件を考慮してみると、江戸川橋交差点付近は往古は沼地であったと推定できる。西北に、目白関口台地と続いて雑司谷があり、雑司谷を水源とした野川は蛇行して音羽の谷に流水し、小日向台地下に弦巻川大下水を形成し、目白関口台地下には鼠谷大下水があった。
 他方南の牛込台地の流水は、音羽の谷(現江戸川橋交差点)に自然集水し、沼地となっていたと思われる。やがて江戸期になり神田上水と江戸川改修で沼地は耕作地帯に変貌し、明治期に区制が成立した際に区境の位置が問題になり、往古の仮称「江戸川大沼」の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは、と推測をするのである。

 別の考え方には「蟹川」があり、その流路は図の最低標高線になり、そして2区の境界になったと考えられます。

東京実測図。明治18-20年。参謀本部陸軍部測量局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

牛込区に編入 岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)には

 明治5年7月に、旧称をそのまま町名として、東から一、二、三丁目と分けた。その当時は小石川区に属していたが、明治13年11月から牛込区に編入された。

江戸川 神田川中流。かつては文京区水道関口のおおあらいぜきからふなわらばしまでの神田川を「江戸川」と呼んだが、昭和39年制定の新河川法で、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことに。名前の由来は、1603年に徳川家康が上水を整備した際に橋も建設したから。井の頭公園はその源流。以前は関口大滝橋までの上流を「神田上水」、船河原橋からの下流を「神田川」と呼んだ。
小石川橋 千代田区飯田橋と文京区後楽との橋。
九段下 千代田区のかつての町名。現在の九段北・九段南に相当する。
神田橋 千代田区の日比谷通りの橋。右岸は大手町一丁目、左岸上流側は神田錦町二丁目、下流は内神田一丁目など。
常盤橋 ときわばし。千代田区大手町と中央区日本橋本石町との橋。
日本橋 中央区の橋。江戸時代1603年(慶長8年)、江戸で最初に町割りが行われた場所にあった川の木造の橋。現在の橋は1911年(明治44年)に竣工した石造りの2連アーチ橋
鎧橋 よろいばし。中央区の橋。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、下流は日本橋茅場町など。

日本橋川 [8303040045] 荒川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット


一ツ橋 千代田区の日本橋川の橋。一ツ橋一丁目と大手町一丁目の間から一ツ橋二丁目と神田錦町三丁目の間までの橋。
上平川下平川 平川とは日本橋川のこと。平川は武蔵国豊嶋郡と荏原郡との境界であり、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路、江戸城を守る濠として利用された。
神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年 首都高速5号池袋線(千代田区の竹橋ジャンクションから埼玉県戸田市のジャンクションまで)だけが神田川の上を走ります。西神田出入口と護国寺出入口との間の開通は1969年(昭和44年)6月27日でした。

牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。

宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では

赤城明神旧地 同所田の畔、小川に傍ふてあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は、神輿を此地に渡しまいらす。

 この「小川」はかに川でしょう。新撰東京名所図会第41編では

   ◯元赤城神社
早稲田村(185番地)にあり、今鶴巻町に編入す、祭神石筒雄命、正安3年草創、牛込郷社赤城神社の古跡なり、古来より赤城神の持なりしが、明治6年1月更に赤城神社附属社となれり。
本社石祠、高さ2尺巾1尺5寸、境内35坪立木3本あり。

元赤城神社。鳥居の左側は記念碑「田島森碑」。後ろに神社。コンクリートの建物は「元赤城神社 社務所」

元赤城神社。中央右に「元赤城神社新築資金寄附者御芳名」の板。

元赤城神社。説明板「神崎の牛牧」がある。

小さい祠 「ほこら」は「やしろ。おたまや。先祖の霊をまつる所」。海老沢了之介 著「新編若葉の梢 : 江戸西北郊郷土誌」(新編若葉の梢刊行、1958)は、金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)を底本しており、「牛込氏と赤城神社」を書いています。

元赤城神社仮殿(昭和31年)

牛込氏と赤城神社
 牛込忠左衛門の屋敷は、胸突坂上の番所の前に在る。この牛込家の遠祖は、大胡太郎重俊なる者であった。子孫の大胡重行の代に及んで、この牛込に移住した。その嫡男を牛込宮内少輔藤原勝行といい、父の菩堤を弔わんがために、雲居山宗参寺を開基した。
 昔その祖先の大胡常陸なる者が、上野国赤城山の三夜沢の神を敬信し、その領地の赤城山麓大胡の地に勧請し、それを近戸明神と呼んで今もある。
 大胡常陸の末孫牛込忠左衛門の先祖、即ち大胡重行が、大胡氏の氏神である上州赤城の神を、牛込惣領守として、早稲田の田の中の小森に勧請したが更に今の赤城神社の所に遷座した。よって最初の地を元赤城といっている。
 日光山の記にいう。下野国二荒山、今の日光山の神と、上野国赤城山の神とが中禅寺の湖水のことで争った。その時、二荒山の神はうわばみとなり、赤城山の神は蜈蚣むかでとなって戦ったという。
 私(直徳)が先頃旅をした時、新町と倉賀野との間の田の中において、忽ち疾風起こり、黒雲が覆い来たって、日中暗闇となった。雨は水をあびるが如く、雹は槌をもって打つが如くであったが、三時ばかりして拭うが如く晴れた。それからというものは一寸した風が直にあたっても、恐ろしくなって病気になる程であった。
 元赤城は正安二年(1300)早稲田に鎮座との説がある。これによると、大胡氏の牛込に来るより230余年前からあることとなる。なお赤城神社には、文安元年(1444)の奥書納経(大般若経)がある。これも大胡氏より百年前のものである。

註:菩提 ぼだい。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達すること。
蟒  うわばみ。巨大な蛇、大蛇、おろち
蜈蚣 ごこう。「むかで(百足)」の異名。

 また、鳥居の左側に「田島森碑」が立っています。「温故知しん!じゅく散歩」は

概要
赤城神社の由来と「田島の森」と呼ばれた当地の歴史を伝える記念碑である。当地は、牛込早稲田村の「田島の森」と呼ばれる沼地であったところへ、正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡氏(後に牛込氏に改姓)が故郷の赤城明神を祀ったと伝えられる。碑文には、赤城神社が寛正元年(1460)太田道灌によって牛込に移され、弘治元年(1555)に現在地へ遷座した後も、元赤城神社として崇敬者の手によって維持されてきたことが刻まれている(※ 実際に大胡氏が牛込に移り住んだのは15世紀末頃と推定されている)。

田島森碑

 「この宮處は古へ「田島の森」と云ひ、又、椚の大樹ありしを以て「椚の森」とも称へ。赤城元町にある「赤城神社」の旧址跡にて、今より六百三十一年前、後伏見天皇の正安二年といふに創めて赤城の大神を濟ひ鎮め奉りし處なれば、元赤城神社と称へ奉りき。そも牛込の地は北條氏菅領地たりし頃、牛込氏の領地なりしか。同氏は上野國赤城山の麓なる大胡の里より移り来しかは素より赤城の大神を尊び奉れり(以下略)」とyama’s noteは書いています。

神社縁起 赤城大明神縁起がありますが、天暦2年(948年)に書いた縁起なので、これは使えません。赤城神社の【御由緒】では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

新撰東京名所図会第41編では……

〇由緒
正安2年牛込早稲田村田島の森中に小祠を奉祠す、其後160余年を経て寛正元年太田持資、田島の小祠を牛込台に遷座す、後ち上野国大胡の城主大胡宮内少輔重行、神威を尊敬し、赤城姫命を合殿に祀り、弘治元乙卯年9月19日、方今の地に移し、赤城神社と称せり。別当は天台宗赤耀山等覚寺なり。

田島森碑

正安3年5月25日の銘がある板碑 正安3年は1301年の昔ですと、まず一言断わっておき、群馬県地域文化研究協議会編「群馬文化」(1967)では……

 神社で大切に保存してきたものに一枚の板碑があった。昭和20年に戦災で失ったが、神社誌に写真が載っており、その説明に高さ4尺、巾1尺余で、阿弥陀如来三尊の種子がそれぞれ蓮台上にあり、銘文は
   池中蓮華 大如車輪
  正安三年辛丑五月二十五日
   青色青光 黄色黄光
とあったという。出土地は早稲田鶴巻町185番地にあった田島の森という赤城神社の旧地で別当等覚寺所蔵のものであった。正安3年は板碑として写真をみた限りではよいようだが、神社との関係はわからないし、むしろ偶然に板碑が発見され所蔵していたとするのが正しいであろう。神社では何時ごろからかわからないが、祭日が9月19日なので、この日を創建の月日にあて、板碑の年月日が正安3年5月25日だから神社草創はそれ以前の9月19日、即ち正安2年9月19日としたのであろう。—————————————————

註:写真は東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)から。「神社誌」がさす文書は不明。

 なお、現在「田島森の板碑」は赤城明神勧請と無関係だとわかっています。新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「2 牛込のあけぼの「赤城神社」考」「(1) 牛込の赤城神社(元赤城明神と番町台、牛込台への遷座」「① 元赤城明神(元赤城神社)」では……

戦前、田島森附近から正安3年(1301)5月25日記銘の板碑が出土しており、『牛込区史』ではこれが大胡氏が赤城明神を勧請した傍証としていたが、戦後落合附近から徳治2年(1307)、建武5年(1338)、貞治6年(1367)の3枚、放生寺より南北朝時代のもの1枚、自証院附近からも3枚の板碑が出土、鎌倉末期、北朝年号もまじる供養塔で、田島の森の板碑も同類で、赤城明神勧請に直接関係のないことがわかった。

 田島森あたりは、想像するに、戸山町から北流してくる金川(一名かに川)が早稲田大学の大隈講堂あたりで東流してくるのと、南方市谷薬王寺町から牛込柳町、弁天町を通って北流してくる川(加二川)とが合流する所であり、そこが沼地になり、島状の地もあったので金川以北から神田川までは、田島森と呼ばれたものと思われる。
 大胡氏が宗参寺の所に移住してくると、この田島森に上州の赤城神社を勧請して鎮守にしたものである。なぜそこを鎮守の森にしたのであろうか。上州の赤城神社は、大胡町の北方にあり、赤城山頂の大沼のほとりにある沼(水)神である。一方この地は弁天町の大胡氏居住地の北方にあたる沼地である。こうみてくるとここに故郷の赤城神社を勧請するには好適の地であったためであろう。

金川(一名蟹川) 水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。
加二川 水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。

江戸川小の歴史散歩③ 牛込地区に坂が多いのはなぜ①

東京実測図。明治18-20年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

鎮守 ちんじゅ。辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。奈良・平安時代では、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛する。一国や村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。霊的な疫災から守護する神や神社。
上州の赤城神社 御祭神は「赤城神社は、赤城山の麓に佇む、自然と歴史が交差する聖地です。この神社は崇高な赤城山の神と水源を司る沼の神を崇拝し、農業と産業の神として、そして東国開拓の神として崇められています」

 鶴巻町は、『新編武蔵風土記稿』によると、鶏を放し飼いし、鶴番人がいたことから名づけられた町名といっているが、これは後世の意味づけである。「鶴巻」の本義は、世田谷区の「弦巻」も同様であるが、朝鮮語からきたツル(荒野・原野)のマキ(牧)の意であるという(中島利一郎著『日本地名学研究』)。
 牛込という地名は、牛の牧場という意味で、『延喜式』にある「神崎牛牧」は牛込の地に擬されているが(『南向茶話』、『御府内備考』)、それもこの辺だったのではなかろうか。
 神田川にかかる駒留橋というのも牧場に関係あるものだろう。
 大胡氏は、高田八幡(穴八幡)の高台下と、宗参寺東との二つの谷間に柵をつくれば、前述したように、戸山町からの金川、柳町からの加二川に囲まれた 形の地域内は立派な牧場になる。牧場はその北の神田川まで広げて考えてもよい。その牧場を南の高台である宗参寺の所に居館を建てて管理し、前述の田島森に鎮守の赤城神社を建てたということになろう。

鶴巻町 新編武蔵風土記稿東京都区部編 第1巻では

早稲田ノ二所ニオリシ由其頃当村ニモ鶴番人アリシコト或書ニ見コ鶴巻ノ名ハ恐クハ是ヨリ起リシナラン

新編武蔵風土記稿 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
中島利一郎 東洋比較言語学者。国士舘大学教授。生年は明治17年1月2日、没年は昭和34年1月6日
日本地名学研究 「日本地名学研究」で

この地方は弦巻に連接し、一帯の曠野で、農作に適せぬので、牧場として発達したわけ。荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、「つるまき」は「曠野ツルまき」という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである。ここに駒留橋あり、世田谷に駒留八幡神社あり。由来は牧場からである。

延喜式 経済雑誌社「国史大系第13巻」(明治33年)の「延喜式」では「諸国馬牛牧」として武蔵国は檜前馬牧と神崎牛牧2種を上げています。
神崎牛牧 かんざきのうしまき。兵部省所管の武蔵国の牛牧。「東京市史稿」では新宿区牛込のあたりだと推定。
南向茶話 これ以外にいい問答がなさそうです。

  問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉。
答曰、此地は数年居住仕候故、幼年より承り伝へ候儀も有之候。先牛込の名目は、風土記に相見へ不申候得共、古き名と被存候。凡当国は往古曠野の地なれば、駒込馬込(目黒辺)何れも牧の名にて、込は和字にて多く集る意なり。(南向茶話

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考によれば、

此所は往古武蔵野の牧の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に馬込村あり  等の名もしかなりと 南向茶話 さもありしならん江戸古図にも牛込村見へたり

この辺だった 実は元赤城神社には「神崎の牛牧」という説明板があります。

江戸・東京の農業 神崎かんざき牛牧うしまき
 もん天皇の時代(701〜704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意思により32ヶ所の牧場(ちょくまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
平成9年度JA東京グループ    
農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kanzaki Dairy Farm
  In the era of the Emperor Monmu (701-704), government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis. The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and, therefore, called ‘Ushigome’ (cow throngs). The area of this shrine was also cow ranches.
  In the dairy farm, there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.

駒留橋 こまどめばし。丸太橋で放牧された馬がここまで来ても先には行けないので名付けたという(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年)。現在は駒塚こまつかばしです。文京区の神田上水に架かって、文京区目白台1・関口2と文京区関口1丁目を結ぶ小橋。創架時期は不明。