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奥州街道と鎌倉海道|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「戸塚地区 28.奥州街道と鎌倉海道」では……

奥州街道と鎌倉海道
     (戸塚一丁目)
 西北診療所前をさらに西に行くと、右折する細道の西角に五角柱の高さ約40センチほどの道しるべがある。その細道が奥州街道鎌倉海道ともいう)といわれる古道の名残りである。古道は早稲田通りの南に続き、戸塚一丁目と二丁目の境をなしている。それがさらに南の学習院女子部内から戸山ハイツに通じ、西向天神下、新宿二丁目、千駄ヶ谷、霞岳町と続く(四谷45参照)。北は豊島区の宿坂、雑司谷と続くのである。
 その古道を北に行くとすぐ茶屋町通りと出合う。この茶屋町通りが、東からくる鎌倉海道といわれる古道の名残りである。鎌倉海道については、「新編若葉の梢」によると、船で芝付近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本永川から番町を横切り牛込矢来町の酒井家下屋敷にくる。その邸内には沓掛け桜牛込22参照)があり、その下通りの小笹坂下が渡船場でそこから船で戸塚の毘沙門山下の船繋ぎ松(5参照)に着き、早大正門、観音寺前、松原通り(20参照)、早大構内、茶屋町通りと続くと推定している。
 なお「南向茶話追考」には、榎町とは榎の大木があったことから名づけられた町名(牛込55参照)で、その木は古来の鎌倉海道にあったものだと書いているから、室町時代以後は、九段から神楽坂—矢来町酒井邸内沓掛桜—榎町—供養塚—茶屋町通りと、牛込台地端をやや直線的に、続いていたものと思われ、これが現在の早稲田通りの前身だったと考えられる。
 この鎌倉海道はさらに、落合台地下の妙正寺にそって西にのびたのであろう(落合7参照)。
〔参考〕武蔵野の交通路 新編若葉の梢 新宿と伝説

西北診療所 専門は内科、胃腸科、循環器科、外科、整形外科、皮膚科です。
道しるべ 残念ながら道しるべはなくなりました。

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

西北診療所、道しるべ、戸塚1・2丁目

奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち

 ここで江戸時代の奥州街道と、鎌倉時代の鎌倉海道(鎌倉街道)が同じ意味で出てくるのは納得できません。奥州街道の現在の出発地は千住で、普通の意味ではこの街道を奥州街道とは呼びません。鎌倉街道の出発地は鎌倉で、しかも、鎌倉と各地を結ぶ全ての道を総称して鎌倉街道と呼びます。この古道は鎌倉街道の1つといえますが、奥州街道とはいえません。

戸塚一丁目と二丁目 昭和50年に、新しい住所表示に変わり、戸塚1丁目以外はなくなりました。しかし、この本は昭和47年に出版したので、 2丁目は消えません。
南の学習院女子部内から……

古道。雑司が谷から霞ヶ丘町

茶屋町通り 江戸時代、流鏑馬などの馬場練習場中の旗本や、雑司ヶ谷に鬼子母神参拝人のため、松並木の下に地元の農家8軒がそれぞれ茶屋を開店。明治初年、8軒全てが廃業し、他の職種に変更。下は歌川広重作『絵本江戸土産』4編「高田馬場」で、茶屋は右下に。

 たか馬場ばば
穴八幡あなはちまんかたはらにあり このところにて弓馬きうばの 稽古けいこありまた
神事じんじ流鏑馬やぶさめ興行こうぎやう せらるゝことあり東西とうざいへ六丁
東南とうなんのぞめば堤塘つゝみつらなり 南北なんぼく三十余間よけん
むかし頼朝よりともきやう隅田すみだがはより このいたせいぞろいありしと いひつた

この茶屋町通りが…… 茶屋町通りは高田馬場跡の並行2本のうち北の1本です(↓)。「新編若葉の梢」では「古來の街道がその儘あって、尾州公戸山御屋敷に入り、高田馬場の中程の所に御門の見える所に出て、馬場を横切り、嘉兵衛の屋敷の西が古來の舊道(鎌倉街道)であって、理十郎の家の東南の隅、清水公御屋敷車門の前で、松原通りからの海道と落合う。」となっています。

正保年中江戸絵図

新編若葉の梢 金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)が底本。内容を整備、訂正し、口語体に書き改めたもの。著者は海老澤了之介。新編若葉の梢刊行会。昭和33年。
船で芝付近に…… 「新編若葉の梢」を引用すると「水路鎌倉街道は、船で芝附近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本氷川から番町を横切り牛込の酒井修理大輔(若狭小浜藩主、113千石)の下屋敷にかかるのであった。この酒井家の庭に三抱えもある山桜の大木があり、沓掛桜と呼ばれていた。その下通りの小笹坂という所は、楠不伝が斬られたというので、六十六部の笠の形をした石塔が立っている。ここの泉水の下が渡船場であった。この渡船場から船にのり、入江を渡って、金川の落合、毘沙門山下に着船したのである」
 この「本氷川」がわかりません。まあ「霞ヶ関」と「番町」との間にある土地だと考えていればいいでしょう。
 酒井修理大輔と若狭小浜藩主は同じ人物で、沓掛桜もわかっています。
 ざさざかは、辞書を引けば、文京区と豊島区を分ける坂で、これは違いますね。「楠不伝が斬られた」場所は『新撰東京名所図会』によれば、弁天町らしい。次の文章が弁天町の項に出ています。
「○楠不伝の斬られし地
高田ひばり云、楠不伝が切られし所、榎町宗柏寺向まきかみゆいとこの間なるべし、むかしはざさざかという」

 ここに小笹坂が出てきました。弁天町と宗柏寺の地図は……

弁天町と宗柏寺

 くすのき不伝ふでんとは江戸時代前期の兵法家。由比正雪に楠流軍学を教え、養子にしたという俗説があるそうです。
 次の渡船場もわからない。最古の江戸絵図である「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会、寛永19~20年、1642−43年)を使っても、神田川は遠く、あるのは田圃です。これより古い古い地図がないと本当にわかりません。まあ、あったと考えて「寛永江戸全図」田圃上に青色で航路を書いてみます。

寛永江戸全図(寛永19~20年)

毘沙門山 「新宿の散歩道」の戸山地区5では「商店街を北に行くと、まもなく左手に永田運動具店がある。この店とその奥一帯は昔毘沙門山であったが、昭和8年に道路拡張のため切り崩され、傾斜地になった。藤原秀郷が、天慶四年(941)に平将門を亡ぼして上京する時、秀卿の念持仏で慈覚大師作の毘沙門天像を納めるため毘沙門堂を建てたので毘沙門山と呼ばれたという。毘沙門堂は維新後まもなくとり払われた」

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

左が毘沙門山。「新宿の散歩道」から

船繋ぎ松 『新編若葉の梢』を引用すると「この松は毘沙門堂の後方の山腹にあった。大歓院殿(三代将軍家光)が、この古松は幾年程の樹齢かとお尋ねがあった時に、寺僧がおよそ千年にもなるでしょうと申上げたので、千歳ちとせの松というよい名を賜った。むかし藤原の秀郷が船をこの松に繋いだというので船つなぎ松と呼ばれた。この寺の垣外の田面がみな入海で、金川落口の所が着船場になっていたのである。
「この松は直徳の時代すでに枯れてしまっていたが、その後にまた植えられたものか、やはり船繋の松として伝えられる老松が残っていた。これも、昭和の初年、毘沙門山が切りくずされて分譲地となったとき伐られてしまった。いま法輪寺境内に俵藤太秀郷御紹松造跡という、大きな標示杭が建っているが、ここは全然別の山で、船繫松と何等関係ない所である」

【註】藤原秀郷 ふじわら の ひでさと。栃木の武将。平将門を朝廷の命により倒し、乱を平定。
   入(り)海 いりうみ。陸地にはいり込んだ海や湖。湾。入り江。cf. 汐入、潮入:低地や海とつながる池・沼・川などに海水が流入すること、その場所。
   金川 現在は「蟹川」。かにがわ。水源は新宿区戸山公園の池。新宿区馬場下町から早稲田鶴巻町を経て新宿区西早稲田の豊橋付近で神田川に合流する。沢蟹がたくさんいた。
   落口 水の流れが落下する所

船つなぎ松(『新編若葉の梢』から)

 また『新宿の散歩道』(戸塚地区5)では「この毘沙門山には船繋ぎ松という古木があった。藤原秀郷が軍船をこの松につないだので名づけられたものという。また千歳松ともいった。家光が鷹狩りの時ここにきて、この松の樹令を開かれた時、この辺一帯を領していた宝泉寺の寺僧が、およそ千年近いだろうと答えたので名づけられたという」
観音寺 真言宗豊山派の慈雲山大悲院観音寺。早稲田大学の大隈講堂に至近。
松原通り 戸塚地区20に「観音寺と早大構内との間の細道(松原通り)を行くとつき当り左手が早大の戸塚球場である」。戸塚球場とは安部球場のことです。

戸塚地域(「新宿の散歩道」から)

南向茶話追考 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌。『南向茶話追考』(明和2年、1765年)も江戸の地誌。この『追考』では「◯牛込榎町 古老云、昔は大木の榎有。依て号する由、是木は古来鎌倉海道の由申伝」
九段から神楽坂—……

九段下駅から茶屋町通りまで

供養塚 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」牛込地区75「牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」(喜久井町14から20)でしょう。延享2年(1745)から明治2年(1869)に至るまで喜久井町14〜20を「牛込供養塚町」と呼んだこともあります。

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

牛込台地 落合台地 写真を参照

牛込台地と落合台地 (地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)

妙正寺 杉並区清水3丁目にある日蓮宗の法光山妙正寺。妙正寺川の水源となる妙正寺池を中心とした妙正寺公園もあります。妙正寺川は中野区を流れて江古田川を合わせ、新宿区下落合で神田川に合流します。

酒井家矢来屋敷|矢来町

文学と神楽坂

 矢来町については別に書き、ここでは矢来屋敷を書いています。寛永5年(1628)、徳川将軍家より小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。

小浜藩 若狭わかさ)国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜に置いた藩。

小浜藩

 安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)としも屋敷(それ以外)が接近して建っています。黄色で書いた場所は御殿表向(おもてむき)(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(おくむき)(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
矢来屋敷

 この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。

 また竹矢来も×で書きました。ただし、この「竹矢来」は37頁の「下屋敷図」(1697年)の竹矢来を拡大したものです。

竹矢来1

竹矢来

『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来図」(1837年)(↓)は、約140年も月日がたったため、全く普通の竹垣や門が描かれています。

竹矢来

竹矢来

新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井つじいの坂、鍋割なべわり坂、赤見あかみの坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。

 中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)では

 酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。

 この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、わづかにその破風はふ作りの母屋の屋妻やづまが雲と靉靆たなびく桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略)
 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うつさうとして深山しんざん幽谷いうこくの様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。

 では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。

 酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方42間(約83メートル)、西の方263間(約510メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永16年(1639)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。
 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永12年8月22日で、以来数回訪問されたことがある。
 矢来町71番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約108メートル、幅約36メートル、面積80坪(26.4アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約12.6メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。

 いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。

ひたるが池

 明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。

造園碑

『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。名園1


袋町|光照寺

文学と神楽坂

 光照(こうしょう)()です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。

光照寺

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
(うし)(ごめ)(じょう)(あと)

    所 在 地  新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和10年12月六日

 (こう)(しょう)()一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の(ふもと)上野国(群馬県)勢多(せた)おお()の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転してきたものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「(しょ)(こく)(りょ)(じん)()(よう)()」、「便(べん)(べん)(かん)()()()の墓」などがある。

平成七年八月     東京都新宿区教育委員会

 では中に入ってみると最初に鐘楼(しょうろう)堂が見えます。やはり説明文が出ています。

 光照寺は慶長8年(1603年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保2年(1645年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
 鐘楼堂は、明治元年(1868年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937)に復興を見ましたが、昭和20年(1945年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

    平成五年(1993年)1月 浄土宗 光照寺


鐘楼堂と本堂

水 拝啓、父上様では第9話で出てきます。

石畳の道
  除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
 り「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
  地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
  門松。
  しんと眠っている。
 り「拝啓。
  父上様。
  除夜の鐘です」

 では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。

 ①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国(しょこく)旅人(りょじん)()(よう)()

         所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日  昭和61年6月6日

 神田松永町の旅籠(はたご)()紀伊(きの)(くに)()主人(しゅじん)利八(りはち)が、旅籠屋で病死者の菩提(ぼだい)をともらうため、文政8年(1825年)に建立(こんりゅう)した供養碑である。
 はじめは、文政2年(1819)から建立までの7年間に死亡した6名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政5年(1858)まで合計49名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。

   平成7年8月 東京都新宿区教育委員会

諸国旅人供養碑諸国旅人供養碑2

②狂言師「便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。

便々館湖鯉鮒の墓文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)

  所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成2年3月2日

 江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化15年(1818)4月5日没した。享年70歳であった。
 墓石は、高さ152センチである。

     平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

 なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前

 ただし、これは蜀山人の狂歌集の中にはありません。あるのは……

小鳥どもわらはゞわらへ大かたのうき世の事はきかぬみゝづく

③これから少し前に行くと、奥右筆(おくゆうひつ)の「大久保北隠(ほくいん)」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 大久保北隠墓

④さらに右に進みます。奥田抱生墓 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜(いまがわらふ)」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
 さらに中央に進みます。 森敦の墓森敦の碑文

⑥森(あつし)は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は

われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
    常に望洋にあり
      森 敦

⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。

木造地蔵菩薩坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻 (もく)(ぞう)()(ぞう)()(さつ)()(ぞう)
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日
 (よせ)()造り、(くろ)(うるし)塗り。像高31センチ。13世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもともと近江国()()(でら)にあり、()()()天皇の皇后が弘安(こうあん)年間(1278~88)に、のちの()二条(にじょう)天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産(たいさん)地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺(ぞうじょうじ)に移され、正徳(しょうとく)年間(1711~16)に増上寺の(まつ)()である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
木造十一面観音坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻
 (もく)(ぞう)(じゅう)(いち)(めん)観音(かんのん)坐像(ざぞう)
登録年月日 平成9年3月7日
 一木(いちぼく)造り、素木(しらき)仕上げ。像高70センチ。18世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食(もくじき)明満(みょうまん)である。明満(1718~1810)は、円空(えんくう)とならび称される(ぞう)(ぶつ)(ひじり)で、全国を旅して(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成9年5月 新宿区教育委員会

 地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。

阿弥陀三尊来迎図文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画 ()()()(さん)(ぞん)(らい)(ごう)()
所 在 地 新宿区袋町15番地
指定年月日 平成10年2月6日
 絹本(けんぼん)着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子(ずし)に納められている。縦102.2センチ、横39.4センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、14世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
法然上人画像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう
指定年月日 平成10年2月6日
 絹本(けんぼん)着色、掛軸(かけじく)装されている。縦89.5センチ、横41.3センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖(しゅうそ)法然上人の肖像で、15世紀後半(室町時代)の作品と推定される。    平成10年3月 新宿区教育委員会

海ほおずき

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塚」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 15. 海ほうづきの供養碑」についてです。

海ほうづきの供養碑
      (光照寺境内)
 光照寺本堂右側にあるが、全国でも珍しいものである。昭和16年7月に、都内販売同業者41店主が発起人となって建立したものである。
 神楽坂が夜店でにぎわい、その夜店には必ずといってよいほど海ほうづきが売られたものである。海ほうづきは、巻貝の子のことである。この供養塚碑がここにあるのは神楽坂の夜店と結びつけるとふしぎな因縁というべきである。

⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海(あくみ)松山(まつやま)(まち))酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 出羽守酒井家の墓石

   お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止

墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。

               当山住職

 平松南氏は2004年06月16日「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」でこう書いています。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。

 切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。