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悪臭漂う飯田濠を再開発(昭和45-56年)

文学と神楽坂

 昭和45年、朝日新聞に飯田堀は臭いし汚い、との記事が出ました。

 ゆううつな季節
 お堀はゴミ捨て場 

 中央線飯田橋駅。近くの住民は憂うつな思いで夏を迎えようとしている。ホームのすぐ前に広がる通称「飯田堀」の臭気のためだ。この堀は神田川水系の1つで江戸川橋からお茶の水方面に流れる神田川の遊水池的な役割を持っている。しかし流れがごくゆるやかで水も少なく実情はゴミ捨場兼汚水だめと化している。
 住民は口々に憤まんをぶつける。「東京の真中の駅が、いまや一番汚ない駅になっているんです」「飯田橋を渡ってごらんなさい。妊婦なら絶対に吐きますよ」「ナマの汚物が流れ込み、たまっているんですよ」「住民もよくがまんしたけれど、役所もよく放っておいたもんだ」。駅でも弱っている。窓をあけたら食事ものどを通らない。
 堀は公有水面だから国のものだが、管理は都の責任である。とうとう地元、牛込地区連合町会(升本喜兵衛会長)が一万三千人の署名を集めて浄化清掃を都知事などに訴えることになった。新小川町青年部も決議した。「今や世界の東京として誇りを持ち近代化された東京都は誠に結構なことである」という皮肉たっぷりな書出しで始っている。
朝日新聞。昭和45年5月26日

 そこで飯田濠を再開発する計画が出てきます。渡辺功一氏の神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では…

昭和45年(1970)6月に、あらためて都議会へ(飯田濠再開発への)請願が出された。このころの飯田濠は、汚水がたれ流されてドブ川と化し、汚濁と悪臭の発生源となっていた。

 平松南氏の「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」では……

 神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
 ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。

 さて渡辺功一氏の同書によれば…

 飯田濠再開発計画の実態は、千代田区飯田橋、新宿区揚場町、神楽河岸にまたがる飯田橋地区市街地再開発である。都市計画決定は昭和47年7月。計画区域は、飯田濠を埋め立て約千平方㍍を含む2万3千平方メートル。都が地上20階の事務棟と16階の住居棟の高層ツインビルを建設するほか、緑地帯や道路を造成するというものである。

 昭和48年3月31日 飯田濠の埋め立て工事を完了し、さて、再開発を始めましたが、あらゆることがうまくいきません。最初に昭和53年6月、鯉の大量死がありました。

 17日朝、都が再開発事業を進めている国電飯田橋駅わきの飯田濠(ぼり)から神田川にかけて、約1万匹のコイが浮き上がる騒ぎがあったが、付近の住民で作っている「飯田濠を考える会」の千代田区側のメンバーは「これは行政による人災。逃げ遅れたコイに気の毒」と怒っている。一方、新宿区側のある商店主は「コイはこの日照りで酸欠死したのであって、工事とは関係ない」と語るなど、住民たちはコイの大量死にも複雑な反応を示していた。(中略)
 都公害局では、水質検査などを行って原因を調べているが、毒物などは検出されず、飯田濠に入り込んだコイが、潮が引いた際に濠の水位が下がって取り残されて、酸欠状態に陥ったものとみている。
読売新聞 昭和53年6月18日朝刊

東京都建設局再開発部「飯田橋夢あたらし」平成8年。

 大郷材木店は神楽河岸再開発による立ち退きを拒否し、それに対して都が強制代執行するという話まで出ました。

 予定地内の材木店の強い反対で工事が大幅に遅れているが、都は27日までに、この材木店に対し、都市再開発法に基づく異例の強制代執行を発動する方針を固めた。
読売新聞 昭和56年5月28日朝刊

強制代執行 強制執行しっこうとは公法や私法上の義務を国家権力によって強制的に実現する行為。代執行とは、行政庁が義務者に代わってその行為をし、あるいは第三者に行わせ、そのため要した費用を義務者から徴収する行為。

地権者の一人が反対  飯田濠再開発 大喜びの「守る会」
 都の高層ビル建設計画に反対して、「埋め立てられたお濠(ほり)を復元して」と訴えている「飯田濠を守る会」に強力が援軍が現れた。新宿区神楽河岸、材木業大郷実さん(45)で、都の再開発事業にかかる民間地権者3人のうち1人。この大郷さんが事業反対の立場を最終的に表明したからだ。(中略)
(大郷さんの)自宅の裏庭からは、すぐに埋め立てられた飯田濠。わずかに水路が残っているが、そこには都心ではめずらしいわき水があり、水鳥が飛んでくる。「再開発が進められて高層ビルが減っては、こうした光景も……」。守る会の「お濠復活。公園建設」の主張にもつながっていく。守る会側では、大郷さんの姿勢に「百万の援軍だ」と大喜びである。
朝日新聞 昭和53年10月25日朝刊

 しかし、10年に及ぶ抗争はあっという間に終わっていきます。渡辺功一氏の同書では……

 昭和56年(1981)10月20日に、東京都は立ち退きを拒否している新宿区神楽河岸の大郷義道、実親子に対して、10月29日から11月10日にかけて強制代執行をおこなうとの代執行命令書を郵送した。彼らは、話し合いを何十回と重ねてきたか、進展は見られない。これ以上工事を運らせれば事業費がかさみ、公共の福祉に反し、請負業者との契約解除に追い込まれる、と説明する。
 これを受けて大郷側は27日午後、この代執行命令書処分の収り消しと執行停止をもとめる訴訟を東京地裁民事三部に起こした。提訴に対し、泉裁判長は同日午後四時すぎ、大郷実と都側の井手建設局再開発部長ら双方の当事者を同地裁に呼んで事情聴収をおこなった。
 この結果、午後5時すぎ「再開発事業にともなうこのような強制代執行は前例がない」などの判断から、双方の話し合いをもとめ職権によって和解を勧告した。

 朝日新聞(S56/10/30)も読売新聞(S56/5/29)も決着まで詳しく書いています。

せせらぎ12㍍幅に
大郷さん「問題提起果たした」

 都市における「水辺の景観」をめぐって熱い論争の続いていた江戸城の外堀、飯田堀を埋め立てる再開発事業問題が29日、一応の決着をみた。これまでかたくなに都市計画決定は変えられないといい続けてきた都が、わずか8分の1とはいえ堀を残すことに同意。ただ一軒、立ち退きを拒否していた材木商、大郷義道・実さん親子も内容が不満だとして「和解拒否」の形はとりながらも、自主的に立ち退くことを決めた。都の強制代執行の期日が迫る中、最も心配されていた力と力の衝突は完全に回避された。(後略)
朝日新聞 昭和56年5月30日朝刊
 全国初の強制代執行が直前で回避された飯田橋地区市街地再開発事業について、都は28日、代執行の対象だった大郷材木店(大郷義道社長)の支援グループ、飯田濠(ぼり)再開発対策会(川端淳郎代表)と話し合いを行い、飯田濠の一部を開きょとして残す案を提示した。(中略)
 開きょ案は(中略)飯田濠を約50㍍、そのまま残し、一部残っている玉石護岸も生かそうというもの。さらに、この開きょ部分からは、同ビルの前庭地区の下を暗きょで通すが、暗きょの真上に人工せせらぎを作る二重河川方法にする案を示した。大郷さん側が和解の条件とした「堀の水辺の景観を残す」意向を受けたもので、同会議と大郷さん側も、ほぼ同案を受け入れる見通しだ。
読売新聞 昭和56年5月29日朝刊

開きょ 開渠。上部をあけはなしたままで、おおいのない水路。
玉石 たまいし。川や海に産する丸い石。
護岸 ごがん。 海岸、河岸かし、堤防の水流に沿った所を保護して洪水や高潮などの水害を防ぐこと。そのための施設。
暗きょ 暗渠。地下に埋設し、地表にあってもふたをした導水路。

 昭和59年2月、事前の「大規模小売店法(第3条)に基づく事前商業活動調整協議会(商調協)」は結審し、4月、住宅と事務所に入居、9月、セントラルプラザ「ラムラ」は開店。昭和61年3月、事業はすべて完了しました。セントラルプラザの北棟は地上16階、南棟は地上20階です。
 しかし、これだけで終わったわけではありませんでした。平松南氏の同書では……

 そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
 いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
 ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
 藤原さん(当時の東京都環境保全局員)にきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。

 しかし、全くわからなかったという人もいます。坂本二朗氏(「神楽坂まちづくりの会」会長)の「まちづくり うたかたの、語り部」は…

 たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。
 ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。(中略)
 そして一週間の北海道旅行(=新婚旅行)から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。

神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

外濠線にそって|野口冨士男④

 牛込見附を境界にして、飯田堀の反対側の外濠は市ケ谷堀とよばれる。
 ここから赤坂見附弁慶堀に至る外濠は明治五年ごろまでいちめんの蓮池であったらしく、魚釣りも禁じられていた様子だが、私の少年昨代の市ケ谷堀には、禁漁どころか大正十年前後には貸ボート屋まで開業して、その直後に私も乗った。照明をして、夜間営業をしていた一時期もあったように記憶している。それにくらべれば、赤坂の弁慶堀や皇居の内濠の千鳥ヶ淵の貸ボートはずっとあとになってからはじまったもので、城濠のボートに関するかぎり牛込見附の開業はずばぬけて早かった。
 車体の小さな外濠線の市電は、外濠づたいに、運転台と車掌台をシーソーのように交互に上下させながら走っていた。
 運転台と車掌台について一言しておけば、ドアのしまるのは客席だけで、前後の乗務員は雨や雪の日も、ドアのない吹きさらしの運転台と車掌台に立ちつくしていた。だから飛び乗り、飛び降りも可能だったのである。そして、その車内には「煙草すふべからず」「痰唾はくべからず」「ふともも出すべからず」などと書いた印刷物が掲額されていた。

飯田堀(濠) いいだぼり。下図で。外濠を橋でさらに分割し、「○○濠」としました。
市ケ谷堀(濠) いちがやぼり。下図で。現在の名称は牛込濠。
赤坂見附 千代田区紀尾井町と平河町との間にあります。下図で。%e5%a4%96%e6%bf%a0%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%972
牛込見附 見附とは江戸時代、城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所。牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されたもの。
貸ボート屋 牛込壕のボート屋は大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができました。弁慶橋ボート場は戦後すぐに創業します。千鳥ヶ淵のボート場はいつできたか不明です。
ドアのしまるのは客席だけ 明治・大正時代にはオープンデッキ式の車が一般的で、運転士と車掌は車内ではなく、デッキに立っていました(写真)。東京でも昭和初期まではオープンデッキ式の市電がごく当たり前のように都心部を走り回っていました。この場合、運転士と車掌は横から風や雨、水滴がはいってきます。

電気鉄道会社

大正時代の東京電気鉄道会社、

ふともも… 獅子文六氏の『ちんちん電車』(朝日新聞社)では

“ふともも出すべからず″
 というのが、今の人の腑に落ちないらしい。私は、そのことを、若い人に語ったら、
「明治の女は、キモノを着てたから、裾を乱しやすかったのですね」
 と、早合点された。
 いくら、明治の女だって、電車に乗って、フトモモを露わすほど、未開ではなかった。それは、男性専門の注意である。当時の職人や魚屋さんなぞ、勇み肌であって、紺の香の高い腹がけ(旧式の水泳着みたいなもの)を一着に及んだだけで、乗車する者が多かった。これは胸部は隠すが、下部は六尺フンドシとか、日本式サルマタも、隠見するくらいだから、無論、フトモモ全部を、露わす仕掛けになってる。それでは外国人に対して不体裁であるというところから、禁令が出たのだろう。

なお、隠見(いんけん)とは「みえがくれ。みえたりかくれたりすること」。

 震災後もあったとおもうが、牛込見附と新見附との中間にあった逢坂下という停留所が廃止されたのは、いつごろだったろうか。その対岸の土手が遊歩道に開放されて公園になったのは、昭和三年のことである。
 永井荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは昭和六年十月で、女主人公の君江が友人のかつてのパトロンであった川島に久しぶりで再会するのがその土手公園だが、私の少年時代には将棋の駒を短かく切りつめたような形の白ペンキを塗った立札が立っていて、「この土手に登るべからず 警視庁」という川柳調の文字が黒く記されていたばかりか、棒杭に太い針金を張った柵があった。が、その禁札はほとんど無視されていた。私もしばしば禁を犯した一人だが、土手にあがってみると、雑草のあいだには人間が足で踏みかためた小径がくっきり出来上っていた。
 零落してひそかに自裁を決意している『つゆのあとさき』の川島は君江にむかって、《あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》と思い出ふかい小石川大曲方面を眺望しながらつぷやくが、戦前の対岸は暗くて、ビルの櫛比している現在でも正面にみえる牛込の高台の緑は美しい。土手公園も松根油の採取が目的であったかとおもうが、戦時中には松の巨木が次々と伐り倒されて一時は見るかげもなくなっていたが、戦後三十年を経過した現在ではだいぶん景観を取り戻している。ただし、桜が多くなったのはあまり感心できない。土手には、松の緑のほうがふさわしい。

廃止 新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、昭和15年には「逢坂下」停留場は確かにありました(右図。348頁)が、7年後の昭和22年にはなくなっています(380頁)。一方、東京都交通局の『わが町 わが都電』(アドクリエーツ、平成3年)では昭和15年の『電車運転系統図』(76-77頁)では逢坂下停留場はもうなくなっています。つまり昭和15年に逢坂下停留場はある場合とない場合の2つがあり、これから廃止は昭和15年なのでしょう。
逢坂下停留場、昭和15年公園 結局、外濠公園になりました。下の図を参照。
つゆのあとさき 銀座のカフェーを舞台にして、たくましく生きる女給・君江と男たちの様子を描く永井荷風氏の作品。『つゆのあとさき』の最後は、会社の金を使い込んで刑務所にいっていた川島に君江は出会い、酒を飲み、朝起きると、君江への感謝を書いた遺書が置いてあり、これが終わりです。何か、もやもやが残る結末です。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
外濠公園
弁慶堀(濠) 右図で。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。皇居の北西側にある堀。右図で。零落 れいらく。おちぶれること
自裁 じさい。自ら生命を絶つこと。
安藤阪 本来の安藤坂は春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。明治時代になって路面電車の開通のため新坂ができ、西に曲がって大曲(おおまがり)まで行くようになりました。
安藤坂
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
櫛比 しっぴ。(くし)の歯のようにすきまなく並んでいること。
松根油 しょうこんゆ。松の根株や枝を乾留して得られる油

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

酒問屋升本|揚場町

文学と神楽坂

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本ますもと喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

 二代目の升本ますもと喜兵衛は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

升本喜兵衛。酒造りの様子

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

 1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。

1984年、住宅地図

 さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

升本総本店

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。再開発前の飯田堀。