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新坂|袋町と若宮町の間に(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「新坂」は横関栄一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)によれば18か所もあるといいます。新宿区では2か所で、ここでは袋町と若宮町の間を西に上がる坂です。さて、左側は元禄12年(1699)です。右側は享保(1716年)・元文(1736)の年に当たります。大きな違いは?

新坂2

新坂2

 まず巨大な戸田左門の屋敷があるかないかが違います。左図にはありますが、右図にはなくなりました。かわりに左上から中央に下がる道路(茶色の矢印)ができています。これが新坂です。

新坂

新坂

 明治時代も現在もあまり変わってはいません。上は袋町で下は若宮町です。これらの町の間をこの坂は通過します。

 昭和51年、新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に新しく聞かれた坂だから名づいた

と書き、平成22年、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂(しんさか)という。江戸中期に武家屋敷地の中に新しく開かれた坂であるために名付けられた。若宮八幡からの坂なので若宮坂ともいう

 横関英一の『江戸の坂東京の坂』では

 江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切通し型になっている場合は、切通坂(きりどおしざか)と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂(なかざか)と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と言うべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだのにすぎないのである。中坂は、左右二つの坂よりも新しい坂であるということは、まず原則といってよい。

 新宿区の標柱では

 新坂(しんざか)
『御府内沿革図書』によると、享保十六年(一七三一)四月に諏紡安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

 美濃大垣藩(岐阜)戸田左門(10万石)の屋敷でしたが、享保10年(1725)の古地図では信濃高島藩(長野)諏訪安芸守(3万石)の屋敷になっています。享保16年4月に新坂が開かれました。

 ひっそりと新坂の標柱は立っています。周りのほとんどは4階ぐらいの小規模マンションで、一戸建てはあっても少なくなりました。一方通行で、車は上(西)から下(東)に向かいます。
標柱

幡随院長兵衛 光照寺の切支丹の仏像 由比正雪の抜け穴 地蔵坂の由来 一平荘 光照寺 袋町の由来 逢坂 庾嶺坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園 お蔵坂

2013年6月23日→2019年10月24日

毘沙門天(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 毘沙門天を360°全天球カメラで撮りました。時間は2019年4~6月まで。

 全体をみたもの。

中根坂(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 中根坂は市谷加賀町一丁目と市谷左内町の間を北に、納戸町まで上がる坂です。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では…

中根坂(『東京の坂道-生きている江戸の歴史』から)

中根坂(なかねざか) 市谷加賀町と長延寺町の境、大日本印刷会社の東わきを納戸町へ上る坂路。「新撰東京名所図会」には「中根坂 左内坂町と加賀町一丁目の間に坂あり、中根坂といふ、以前坂の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる。」とかかれている。またこの坂下の大日本印刷会社の前身の秀英舎についても「秀英舎工場は市谷加賀町一丁目、中根坂下にあり、即ち中根恵三郎の屋敷跡なり。明治十八年京橋区西紺屋町なる秀英舎の分舎として、此地に創設せらる。」とかいている。この坂下にはむかし拝み石(石橋)があり、これを拝めば子供の咳がかおるものと信心されていたことが「求涼雑記」にみえている。

 横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和45年)では

中根坂  新宿区市谷加賀町大日本印刷会社の前を北へ上る坂

 昭和56年の「新宿区史跡地図」(『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)では中根坂は中央の谷から北と南の2方向に上る坂でした。

 江戸時代でも中央の谷から北と南に上がる坂道でした。
1857年と1849年の地図中根坂

 360°カメラでは、中根坂と鼠坂を撮ってあります。中根坂、左に行くと鼠坂です。

 道標では

(なか)()(ざか)  昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。

と書いてあります。

 歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、平成10年)では

   中根坂(なかねさか)
(1)所在地
 市谷加賀町一丁目と市谷左内町の間を北に、納戸町まで上がる。
(2)特  徴
 この坂は、坂の中間あたりまで下がって、そこからは上がるという、上り下り「逆への字型」の坂である。傾斜は、納戸町側がきつい。
 市谷左内町側は、工場などが多く建物もシンメトリーであまり面白くはない。納戸町側は住宅街で、いわゆるお屋敷から、こじんまりした住宅までさまざまな建物が目に入る。緑も多い。
(3)由  来
「新撰東京名所図会」には、「…以前左の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる。」と記されている。昔、坂下には「拝み石」(石橋)があって、子供の咳止めの御利益があるらしく、信心されていたそうだ。
(4)周辺の状況
 市谷左内町側の坂上周辺は、市谷加賀町に「大日本印刷」の工場、市谷本村町に陸上自衛隊の駐屯地などがある。工場やビルが多く、規模もヒューマンスケールではないので、殺風景な感じである。
 納戸町側の坂上周辺は、中学校、住宅街となっている。市谷左内町側に比べ、緑も多く歩いていても殺伐感はない。坂上から東に歩を進めると、古びた蔵が見える。塀も同じくらい古そうだ。奥に見える建物も、年代物のようだ。

中根坂(昭和)

中根坂(『歩いてみたい東京の坂』から)

 いずれにしても、かつてはVの字のように下って、再び上がる急坂でした。それが現在のようにはっきりしたVはなくなり、一見では橋だとはわかりませんが、橋で、しかもすべて区道です。