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牛込城の興亡|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「3 牛込の祖、大胡氏について」と「5 牛込城の廃城とその後について」です。もし牛込城がある場合、新しく城を建築したのは何年で、城を解体するのは何年なのかという問題です。つまり、城を維持する期間です。

3 牛込の祖、大胡氏について
(4)大永の乱と牛込の地の継承

 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は、江戸城の上杉朝興を攻め、これを攻略した。朝興は川越へ逃げ、北条氏は江戸城代遠山直景を置いた。この戦乱は上杉朝興側の江戸城代、太田資高道灌の孫)の北条氏への内通で結着がついてしまったのである。弁天町にいた大胡氏は、このような扇谷家の末期的様相を、案外、冷静に見極めていたのかも知れない。
 このとき、牛込は戦場となり、兵庫町の町屋や行元寺が破壊されたという(『江戸名所図会』、『江戸名所花暦の冬雪』)。
 戦乱が一段落すると、大胡重行は北条氏綱、氏康の親子に臣の礼をどり、袋町牛込城を築城する。そして、江戸城代、遠山家とも縁を結ぶ。後の徳川氏への随身もそうであるが、誠に素速い替り身は、これも生き延びてゆくための“戦国の論理”だったかも知れない。
 そして、牛込氏を名乗るようになる。大胡氏が公式に牛込姓を得たのは、勝行の代であったが、重行の代から通称では「牛込」で通していたと、云われている。

大永の乱 高輪原の戦い。高輪原合戦。大永4年1月13日に武蔵高輪原(港区)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦。
北条氏綱 ほうじょううじつな。戦国大名。後北条氏第2代当主。父早雲の後を継ぎ、江戸城に扇谷上杉氏を攻め、河越城を奪い武蔵に進出した。
上杉朝興 うえすぎともおき。戦国大名。扇谷上杉家当主。大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ。同時に太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
遠山直景 とおやまなおかげ。戦国時代の武将。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤める。
太田資高 おおたすけたか。戦国時代の武将。太田道灌の孫。江戸城主上杉朝興につかえたが、離反して北条氏綱に属す。大永4年(1524)江戸城を攻めた。
道灌 太田道灌。おおたどうかん。室町中期の武将。名は資長すけなが。上杉定正の執事として江戸城を築城。
弁天町にいた 大胡氏が弁天町にいたとの明瞭な証拠はありません。
大胡氏 「寛政重修諸家譜」などからまとめると、足利成行の庶子重俊は足利から大胡に改称して大胡太郎と称し、上野国大胡(現在の前橋市大胡地域)を治めていた。以降、代々この地域に住んだが、重行の時に武蔵国牛込に移り住んで、その子の勝行は家号を牛込に改めた。勝正の時(1672年)にこの家系は断絶する。
扇谷家 扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を遠祖とする家。大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から河越へ逃れるが、これは後北条氏は江戸城への侵攻を開始したためである。
兵庫町 現在の神楽坂五丁目。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。行元寺の項では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いてあります。
江戸名所はなごよみ 別名は江戸遊覧花暦。岡島きん編著、長谷川雪旦せったん画。文政10年(1827)のガイドブック。春、夏、秋、冬の四部構成(秋と冬は合冊)で、草木花の名所を紹介しました。ここでは「市ヶ谷八幡宮」について「大永年中の兵乱に破壊す」と書かれています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では

重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす
氏康 北条氏康。ほうじょううじやす。後北条氏第3代目当主。
袋町 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はありませんが「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では……

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

牛込城を築城 上の「天文の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといへり」で、天文は1532年から1555年まで。
勝行 「寛政重修諸家譜」では

勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲

5 牛込城の廃城とその後
(1)牛込城の廃城

 天正18年(1590)7月5日、小田原城は豊臣秀吉の攻厳で落城し、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏は亡んだ。小田原城に先立って、その支城もつぎつぎに攻略され、江戸城も4月22日、徳川家康の臣、戸田忠次に明け渡された。
牛込家文書』に、天正18年牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城をその頃廃城したと思われる。
 この宛名が武蔵国えはらの都えとの内うしこめ七村とあるので、当時は荏原郡に所属していたことがわかる。なお、近世は豊島郡に所属していた。
(2)牛込氏、徳川氏への帰順
 遠山氏をはじめ江戸衆は解体し、その多くは投降した。牛込氏も家康に降伏し恭順の意を表した。伝承によれば家康江戸城へ入城にあたり、牛込村民は川崎まで出迎えたという。
 おそらく牛込氏が先頭になって村々の代表を連れて、出迎えたと思われる。大胡氏が上州から牛込に入って約100年で牛込城は亡んだ。天正18年8月徳川家康は江戸城に入城し(江戸打ち入り)、地方武士の所領を安堵し、治安を図った。牛込氏もいち早く家康に従い、天正19年(1591)、牛込勝重は家康にお目見えを許され、1,100石取りの家人(旗本)となった。

攻厳 こうげん。厳しく攻める。
戸田忠次 とだただつぐ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸田忠次の配した内通者の働きで江戸城は落城
禁制の写し 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したもの。
荏原郡 えばらぐん。品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市川崎区など。近世までは千代田区、港区の一部を含む
豊島郡 千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、練馬区の大部分。
遠山氏 遠山直景。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤めた。
江戸衆 支城には衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。
牛込村民は川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城に入城し、牛込七ヵ村の住民は武蔵国川崎村までお迎えに出向いたと「牛込町方書上」。

牛込町方書上 肴町

約100年で牛込城は亡んだ 以下に説明しています。
安堵 封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。

 牛込城は「天文(1532ー1555)の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといえり」(江戸名所図会)から、築城日は遅くても1532ー1555年。廃城は「天正18年(1590)牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城もその頃廃城した」(上記)から1590年ごろ。約100年の期間だから、築城日は1490年ごろになる。
 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方があり、1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 「牛込氏文書 上」によれば、大永6年(1526)、牛込氏が牛込郷を領有しています。しかし、牛込城ができたのかどうかは、不明です。芳賀善次郎氏のように牛込の宗参寺の所に牧場経営をしていたとも考えらえます。
 一世代が約20年と考えると、この2つ目の考え方を使う場合、1510〜20年に牛込城をつくり、移住したと考えられます。濠がすでに相当あり、丘城だったので、あっという間に城ができたでしょう。
 実際には約100年の期間は長すぎるでしょう。最短時期は35年間ですが、これは短すぎる期間です。

牛込氏についての一考察|⑦牛込城の城下町

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑦「牛込城の城下町」です。

 袋町高台の西北方一帯の神楽坂四五丁目は、もとさかなといった。ここは家康入国前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった(『御府内備考』)。江戸初期牛込に七カ村あったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落で、特に肴町は牛込城の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて西に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。前述したが、ここから戸塚まで古道がある。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀のまだなかった西谷間には市谷本村町から流れてくる川があり、飯田橋あたりの大沼という沼に流れていた。一方今の神田川も、大曲あたりの白鳥沼から大沼に流れ込んでいた。川は大沼から九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。
肴町 神楽坂5丁目を「肴町」と呼びました。神楽坂4丁目は「かみみや町」でした。
兵庫町 「兵庫」は「つわものぐら」「へいこ」「ひょうご」と読み、兵器を納めておく倉。兵器庫。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 肴町については
町方起立之儀は年古義にて書物無之相分不申候得共 往古武州豊島郡野方領牛込村之内有之候処 其後町屋相成御入用之砌 牛込七箇村之者とも武州川崎村ト申処迄御迎ニ罷在候由申伝候 其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候処 大猷院様御代御成ニ期度ニ御肴奉献上候之向後 肴町と相改候様 酒井讃岐守様モ仰渡候ニ付 夫より町名肴町と相唱申候

七カ村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。

戸塚地域

戸塚 戸塚地域。新宿区の中央北部に位置し高低差のある複雑な地形。江戸時代には主に農村で、明治時代になると、東京専門学校(現:早稲田大学)が開校し、学生や文化人の集まる、活気あふれる町に。
大沼 小石川大沼です。下図では水道橋の下に池が書かれています。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町6。神田川が急に曲がっている場所
白鳥池 白鳥池は小石川大沼の上流の池でした。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

上平川 上流の上平川(九段下、神田橋)から下流の下平川(常盤橋、日本橋)に流れて、江戸湾に注いでいた。
常盤橋 日本橋川に架かり、公園から日本銀行側に通じる橋

 太田道灌のころは、この平川の常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町として賑ったものである。牛込城時代にも、この川をさかのぼって大沼まで舟が来たのであろう。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人もいたので兵庫町となっていたのではなかろうか。
 家康の江戸入城時、牛込七カ村の住民は川崎まで出迎えに行ったのである。三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに、町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである(『御府内備考』)。
太田道灌 室町中期の武将。扇谷上杉定正の執事。江戸築城は康正2年(1456)に開始、翌年4月に完成したという。兵法、学芸に秀で、和歌歌人だった。
高橋 千代田区の「常盤橋門跡の概要」では
 中世の常盤橋周辺は江戸前島の東岸にあたり、 のちの江戸と浅草を結ぶ街道(鎌倉往還下道)の要衝であったとされている。(中略)文明8年(1476)の「寄代江戸城静勝軒詩序」(簫庵竜統著)には、城東畔の河(平川)の「高橋」に漁船が出入りし、賑わいを見せていたことが記されている。 常盤橋と呼ばれる前は「高橋」、あるいは「大橋」(『事蹟合考』)と称されていたと考えられ、平川の河口に位置したこの地域(平川村)は、 江戸城からほど近い港として重要な位置を占めていたとされる」
家康の江戸入城 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました
川崎まで出迎え 「御府内備考」を意訳すると「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」
肴町 同じく「徳川家光様は御治世の外出の際では魚を何回も差し上げたところ、今後は肴町と改名しろといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」

源頼朝の伝説がある行元寺跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 7.源頼朝の伝説がある行元寺跡」についてです。

源頼朝の伝説がある行元寺(ぎょうがんじ)跡
      (神楽坂5ー6から7)
 毘沙門様を過ぎて右手に行く路地の奥一帯に行元寺があった(明治45年7月品川区西大崎4-780に移転)。
 新宿区内では古く建ったようであるが創建時代は不明である。総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。その門の両側に南天の木が多かったので南天寺と呼ばれていた
 源頼朝が、石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣容を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたというが、この伝説は信じがたい。
 この寺は、牛込氏が建立したのではあるまいか。そして後述するが、牛込城の城下町だったと思われる兵庫町の人たちの菩提寺でもあったろうし、古くから赤城神社別当寺ともなり、宗参寺建立以前の牛込氏菩提寺だったのではあるまいか(1113参照)。
 天正18年(1590)7月5日、小田原城の落城時には、北条氏直(氏政の子で、家康の女婿、助命されて紀伊の高野山に追放)の「北の方」がこの寺に逃亡してきた。寺はこの時応接した人の不慮の失火で火災にあったということである。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像できよう。
〔参考〕南向茶話 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治45年7月 明治45年ではなく、明治40年が正しく、明治40年の区画整理で行元寺は移転しました。
品川区西大崎4-780 現在は、品川区西五反田4-9-10です。
創建 建物や機関などをはじめてつくること。ウィキペディアでは「創建年代は不明である。①源頼朝が当寺で戦勝祈願をしたため平安時代末期以前から存在するとも、②太田道灌が江戸城を築城する際の地鎮祭を行った尊慶による開山ともいわれている」
 一方『江戸名所図会』では③「慈覚大師を開山とすと云ふ」と説明します。慈覚大師(円仁)とは平安時代前期の僧で、遣唐使の船に乗って入唐し、帰国後、天台宗山門派を創りました。実証はできませんが、この場合、開基の時期は9世紀末です。
総門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
中門 外郭と内郭を形づくる築地塀や回廊などがあるとき,内郭の門は中門である。
南天の木 ナンテン木の異称(下図を)

南天寺と呼ばれていた 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古は大寺にて、惣門は牛込御門の内、神楽坂は中門の内、左右に南天の並木ありし故、俗に南天寺と云しとなり」
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府の創立者。征夷大将軍。
石橋山 神奈川県小田原市の石橋山の戦場で、源頼朝軍が敗北した。平家の大庭景親や伊東祐親軍と戦った。

安房 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。安房国は最も南の国。
武蔵 武蔵国。むさしのくに。七世紀中葉以降、律令制の成立に伴ってつくった国の一つ。現、東京都、埼玉県、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市。

千手観世音 せんじゅかんぜおん。「観世音」は「観世音菩薩」の略。慈悲を徳とし、最も広く信仰される菩薩。「千手」は千の手を持ち,各々の手掌に目がある観音。
襟かけ 掛けえりの一種。襦袢(じゅばん)の襟の上に飾りとして掛けるもの。
この伝説 酒井忠昌氏の『南向茶話』(寛延4年、1751年)には「問日、高田馬場辺は古戦場之由承伝侯……」の質問に対して、答えの最後として「牛込の内牛頭山行元寺の観音の縁記にも、頼朝卿之御所持之仏にて、隅田川一戦の後、此地に安置なさしめ給ふと申伝へたり。」
 また、島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古右大将頼朝石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給う折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きし霊夢を蒙し給ひしより、東八ヶ国諸侍を頼朝幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。」
牛込氏が建立したのでは つまり、牛込氏が建立したという仮説④が出ました。
兵庫町 ひょうごまち。起立は不明で、豊島郡野方領牛込村内にあった村が、町屋になったという。はじめ兵庫町といったが、当時から肴屋が多かったという。
菩提寺 ぼだいじ。先祖の位牌を安置して追善供養をし、自身の仏事をも修める寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
別当寺 江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺。
宗参寺 そうさんじ。新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)、重行の嫡男牛込勝行が建立した。
北条氏直 戦国時代の武将で、氏政の長男。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、3か月に及ぶ籠城のすえ、降伏した。高野山で謹慎。翌年許されたがまもなく大坂で死没。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
不慮の失火で火災 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで、「天正年中に小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に来らる時に、饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」。なお、饗応は「酒や食事などを出してもてなすこと」です。

牛込城の城下町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)「牛込地区 11.牛込城の城下町」では

牛込城の城下町
      (神楽坂五丁目)
 毘沙門様の先に左折するがあるが、そのあたり一帯は、肴(さかな)町といっていた。家康入国以前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった。江戸初期には牛込に七つの村があったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落であって、特に肴町はあとで案内する牛込城13参照)の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて、西部に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀がまだ造られなかったころ、その谷間には川が流れていた。そして飯田橋あたりは大沼という沼地で、その川はこの大沼に流れていた。大沼には、神田川も流れこんでいた。大沼からは、九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。太田道灌のころは、常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町としてにぎわったものである。
 牛込城時代にも、舟がこの川をさかのぼって大沼まで来ていたことであろう。揚場町は荷物の揚場であるが古くは船河原であり、今でも南に町名が残っており、船のとまる場所から名づけられたものである(市谷16参照)。
 この城下町には、この水運によって海産物はじめ諸物資が運び込まれてきたのであろう。その上ここは戸塚に通じている古い交通路の通っていた所である(戸塚28参照)。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人がいたので名づけられた町だったのではあるまいか。
 前にのべた行元寺は、この城下町の人たちの菩提寺でもあったのであろう。
 家康の江戸入城時には、牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向いたものである。
 三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである。昭和26年5月1日神楽坂五丁目となった。
〔参考〕御府内備考 五百年前の東京 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

 藁店わらだなか同じく地蔵坂
七つの村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。
城下町 室町時代以降、武将・大名の城郭を中心に発達し、武士団や商工業者が集住した町
大沼 小石川大沼です。下図では(すいとうばし)の下に池が書かれています。

江戸図「千代田区史 上」千代田区役所。昭和35年

 菊池山哉氏の「500年前の東京」(批評社、1992)は

「後楽園の南半部から三崎町の西へかけて余り深くはないが20尺程度の池がある。後楽園の台地と神楽坂方面の台地とは飯田橋と大曲りの橋の間で陸続きになっている。其の上流小日向の台地と牛込の台地との間の一大盆地が白鳥池である。
 江戸川が流れ込み、末はドン/”\橋で小石川の大沼へ入り小石川の流れを合せて再び平川となつて、一ツ橋から常磐橋へ流れ、末は日本橋川となって江戸橋で東京湾へそぞく」

500年以前江戸城 菊池山哉「500年前の東京」(批評社、1992)

上平川 下平川 15世紀には、現在の江戸城平川門周辺に、上平川村と下平川村の2村があり、推測の域から出ないのですが、上平川村は平川門の北側付近、下平川村は江戸城大手門から東京駅周辺とされます。また、平川門の上下に分けて、平川は上平川と下平川に分かれました。
常盤橋 常盤橋公園から日本銀行までの日本橋川に架かる橋

太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
高橋 平川の河口には大きな橋(「高き橋」「高橋」)がかかり、港町として大賑わいでした。ちなみに、江戸という地名も平川に由来します。「江」とは大きな川、つまり平川で、「戸」とは戸口、河口のこと。平川の河口が江戸になりました。
戸塚 大正3年(1914年)1月1日に町制施行し、戸塚町になり、昭和7年(1932年)10月1日、東京市編入時に大字下戸塚は戸塚町一丁目になり、大字源兵衛は戸塚町二丁目、大字戸塚は戸塚町三丁目と四丁目、大字諏訪は諏訪町になりました。1975年(昭和50年)まで変わりませんでした。

兵庫町 兵庫は兵器の倉庫(武器庫)に由来。
武器製造職人 刀の製作では鉄師、とうしょう(刀鍛冶、刀工)、研ぎ師、彫師や研磨師、鞘師といった複数の職人が必要でした。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんな寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
家康の江戸入城 駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました。
牛込七ヵ村の住民…… 「牛込町方書上」肴町の項で、村から町に変わったと延べ、つづいて「御入国之砌、牛込七ヶ村之者共、武州川崎村と申所迄御迎二罷出候由申傅候」と書いてきます。つまり「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」

牛込町方書上 肴町

兵庫町を肴町と 同じく「牛込町方書上」肴町の項で、「大猷院様御代、御成之都度々々御肴奉献上候、仍之向後肴町と相改候様、酒井讃岐守様被仰渡候二付、夫ゟ町名肴町と相唱申候」と書かれ、大猷院様とは徳川家光のこと、ゟは合字の「より」。「徳川家光様は御治世の外出について、しばしば魚を差し上げたところ、今後は肴町と改名するといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。