文学と神楽坂
善國寺です。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。
この前に標柱があります。
神楽坂
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。 |
となっています。詳しくはここで
では中に入ると……
善國寺毘沙門天です。別名を多聞天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。
明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。
昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。
1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。
文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。
「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。 『続日本紀』には神の乗り物、神馬を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。
木柾を叩いて読経します。
「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。
中を読むと
往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。 |
小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は
神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺
と書いてあります。
さらにひめこばんについて、まとめてみました。
山門の右側の柱に「児玉誉士夫建之」
ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。
もう一つは境内のトイレのそばで
○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主
とかかれた慰霊塔の裏に
昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫
と書いてありました。
家畜慰霊碑は
と書いてあります。
本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。
またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
また書院では隔月で落語をやっています。
「拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では
最後に下図は1993年の神楽坂。
「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)