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善國寺の文化財

文学と神楽坂

では本堂に走る前に、文化財の説明を見てみましょう。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺(ぜんこくじ)毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 昭和60年7月5日
「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔(ほうとう)を持ち、磐座(いわざ)に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の(まもり)本尊(ほんぞん)だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞(たもん)天と称し、持国(じこく)天・増長(ぞうちょう)天・広目(こうもく)天と共に四天王の1つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の3毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。

平成21年12月    新宿区教育委員会

毘沙門天の生まれは寅の年、寅の日、寅の刻といわれ、化身である寅の石像は1対境内に向かい合って鎮座しています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財
善國寺の石虎(いしとら)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 平成21年11月6日
G 安山岩製の虎の石像で、像高は阿形あぎょう(右)が82センチ、吽形うんぎょう(左)は85センチで、台石、基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店わらだな」「神楽坂」「肴町さかなまち」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者は善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳村長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。まら、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号きごう水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月  新宿区教育委員会

この刻印は「几」と書いて「キ」と読むもので、高低几号または几号高低標とも漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれるようです。

「大江戸歴史散歩を楽しむ会」(https://wako226.exblog.jp/16086315/)によれば

明治7年(1874)に開始した几号高低測量で刻まれた標高は18m76㎝44㎜であった。その後、大正12年(1923)関東大震災(-86㎜)、平成23年3月11日東北大震災(-24㎜)の地盤沈下(国会議事堂前の日本水準原点)を参考にすると虎石像台座の標高は現在18m65㎝44㎜となる。

善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂


善國寺

 善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

 この前に標柱があります。

かぐざか
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

 では中に入ると……

 善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

 明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

 昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

 1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

 文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

 木柾もくしょうを叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

 中を読むと

 往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判

 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。
 さらにひめこばんについて、まとめてみました。

児玉誉士夫建之

山門の右側の柱に「児玉誉士夫建之」

 ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
  昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。

 もう一つは境内のトイレのそばで
 ○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主

とかかれた慰霊塔の
 昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫

と書いてありました。

ireihi

 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

 またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。


毘沙門に

 最後に下図は1993年の神楽坂。

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)