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牛込城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編『日本城郭全集』(人物往来社、1967)では新宿区にある城として3つしか載っていません。牛込城、南北朝時代の早稲田の新田陣屋、築土城です。今回は牛込城に光を当てます。
 残念なことに、いつ築城したのかは不明で、また、廃城は小田原落城と同じ頃に落城したとすると1590年前後でしょう。

牛込うしごめ   新宿区袋町
 牛込城は、牛込藁店わらだなの上(『江戸往古図説』)すなわち、いまの新宿区袋町付近の台地にあった。宗参寺を牛込城の地とする説もあるが、宗参寺は天文13年(1544)建立の寺であり、城址に建てた寺ではない。
 牛込城が、台地を利用した丘城であったことは間違いないが、その規模は明確ではない。『御府内備考』によれば、おおは神楽坂のほうにあったといい、また、「城地の蹟とおぼしき所多くのこれり」とあるが、いまではまったく城址の片鱗も残ってはいない。
 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城 (埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。
 重行の子 宮内少輔勝行は北条氏康に仕え、天文24年(1555)正月6日、大胡を攻めて牛込氏を称した(『寛政重修諸家譜』)。この改氏を『改撰江戸志』では5月としている。このときの勝行の所領は牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総の堀切、千葉にまで及んでいた。勝行は天正12年(1584)、致仕し、三右衛門勝重が跡を継ぎ北条氏直に仕えたが、天正18年(1590)、小田原落城とともに、牛込城も廃城となった。勝重は翌年、徳川家康に仕えたが、その孫伝左衛門勝正にいたって嗣子なく、牛込氏の嫡流は断絶した。
(江崎俊平)

藁店 別名は地蔵坂。細かくは藁店(わらだな)は1軒それとも10軒
江戸往古図説 国書刊行会刊行書「燕石十種 第3」「江戸往古図説」では「牛込城址今の藁店の上城地也と云牛込氏居城」になっています。
城址 じょうし。城のあった跡。城郭や城市のあと。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 牛込城蹟の部分では……

牛込城蹟
牛込家の伝へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほき所多くのこれり云々江戸志 按に今の樹王山光照寺は慶長三年(1598)戊戌の起立なり

追手門 おうてもん。おお門と同じ。城の正面に位置する門
城地 じょうち。城と領地
大胡宮内少輔重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」。宮内は「くない」。少輔は「しょうゆう」か「しょう」
後裔 子孫。すえ。後胤
群馬県勢多郡大胡町 2004年12月5日、前橋市へ編入され、現在は「群馬県前橋市大胡町」に。
寛政重修諸家譜 かんせいちょうしゅうしょかふ。大名や旗本の家譜集。幕府は寛政11年(1799)に堀田正敦まさあつを編集総裁に任命。文化9年(1812)に完成。凡例目録とも1,530巻が同年11月に献上した。
上杉修理大夫朝興 おおぎがやつ上杉朝興ともおき。室町後期の武将。北条早雲と戦って敗れ、のち早雲の子氏綱に江戸城を攻められて河越城(埼玉県)に移る。天文てんぶん6年4月27日河越で死亡。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏第3代。天文15年(1546)、河越城の戦で勝利し上杉氏を圧倒、関東における後北条氏の優位を不動にした。
勝行 「寛政重修諸家譜」では「勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲」
改撰江戸志 原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では
天文十三年牛込の地に於て一寺を健て雲居山宗参寺と号す。是父の法名によってなり。(中略)同廿四年正月六日従五位下に叙し宮内少輔に任す。同年五月氏康に告て大胡氏を改て牛込と号す。時に氏康より書を賜ひ武州牛込今井桜田日尾谷下総の堀切千景 千葉の誤りか を領す。(中略) 改撰江戸志 
致仕 ちし。官職を退く。退官して隠居する
嗣子 しし。親のあとをつぐ子。あととり。
嫡流 ちゃくりゅう。 嫡子から嫡子へと家督を伝えていく本家の血すじ。また、正統の血統。正統の流派

牛込氏についての一考察|①はじめに

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の①「はじめに」です。

  1 はじめに
 武州牛込氏については、『新宿区史』(昭和30年・新宿区役所編)に書かれているが、総合的に考察されていないし、史料が少ないので、まだ不明な点が多い。そこでここに牛込氏についての一考察をのべて今後の研究課題としたいので、諸賢のご批判ご指導を賜りたい。

 これで①は終わりです。あとは「武州牛込氏」と「新宿区史」を説明すればいいのですが、「新宿区史」の説明は長く続きます。

武州牛込氏 武州の別称は武蔵国で、これは東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。「武蔵国にいた牛込氏」「武蔵国牛込氏」などと同じ。
新宿区史 牛込氏については「新宿区史:区成立30周年記念」23頁から25頁までに出てきます。「総合的に考察されていないし、史料が少ない」と書かれていますが、確かに、新宿区の室町幕府〜戦国時代の史料は現在でも少なく、増やせないし、「総合的」な考察もありません。しかし、牛込関係は少なくても、書籍一冊の「新宿区史」は十分に分厚くなっています。では「新宿区史」の牛込関係を見てみましょう。

 鎌倉時代の新宿区は、近くの府中に武蔵国の国衙があり、留守所がおかれていたし、江戸・豊島・葛西氏などこの地方に分布した豪族との関係が深かったものと思われるが、具体的な史料はない。市谷冨久町の自証院に残された高さ1.2メートルの板碑に、弘安6年(1283)6月の造立年月日が記されているのが最古の記録で、区文化財の指定を受けている。しかし、こうした碑が残されていることは、この時代、かなりの財力をもった豪族が、この地域と関係をもっていたことを示しているだろう。
 さらに、正安2年(1300)、現在牛込にある赤城神社が早稲田の田嶋の森(後の元赤城、現在の鶴巻町)に祀られたという社伝も残されているが、史料としては、暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏から芋茎郷名上げ、替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えたことを示すものが残っている。これによれば牛込郷は荏原郡に属していたことが判る。この文書は『牛込家文書』といわれ、牛込、日比谷、堀切、177貫余の所領を本貫とし、牛込袋町に居館を構えた牛込家伝来のもので、内容は江戸氏宛の7通と、牛込氏宛の11通、大胡氏宛2通、牛込七ゕ村宛1通、加藤系図写1通からなっており、牛込氏の由来については、上野国大胡城主大胡重行が天文年間(1532~55)北条氏康の招きで牛込に移ったと、「牛込系譜」に記してある。牛込氏と改めたのは天文24年(1555)のこととある。大胡氏が牛込に移った年代は、史料的には矛盾があり、同じ『牛込家文書』の後北条氏印判状写をみると、大永6年(1526)10月、北条氏綱から牛込助五郎宛に日比谷村の陣夫・夫役の徴用権を与える旨が記されていて、年代の遡りがみられる。『新編武蔵風土記稿』には大湖重行の父重治の代に牛込に移ったとも書かれている。また牛込姓も、系譜にある天文24年以前にすでに称していたようで、古い記録が紛失しているためもあり、明確ではない。牛込氏はその後徳川時代には旗本となり、明治維新には徳川家とともに駿府へ移ったが、何年かののち再び東京に戻ってきた。(暦応3年の文書他の場所に詳細があるので省略)
 後北条氏と牛込氏との関係を示す史料としては、『小田原衆所領役帳』があるが、この帳簿は後北条氏所領内の知行主(給人)を衆別(職種や地域別)にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を書きあげたもので、いわば後北条氏の租税台帳にあたるものである。この帳簿の江戸衆のところに、牛込氏について次のように記されている。
 一、大胡
 六拾四貫四百卅文  江戸牛込
 六拾七貫七百八拾文 同 比々谷本郷
 四拾五貫文     葛西堀切
  此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役
  以上 百七拾七貫弐百十文
   此内八拾弐貫弐百拾文ハ   御赦免有御印判
    此内七捨弐貫五百文  知行役辻半役共
   以上
 この記述で役高の合計が177貫余で、知行役高は72貫500文として登録されていたことが判るが、この役高は他の知行主の平均が50貫前後であったのに比べると、かなり大きいものといってよい。

 これでおしまいです。「新宿区史」の話は江戸氏と太田道灌氏に移っていきます。

武蔵国の国衙 各令制国の中心地にこくなど重要な施設を集めた都市域は「国府」、その中心となる政務機関の役所群は「国衙」、その中枢で国司が儀式や政治を行う施設は「国庁」(政庁)。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の政治中心地「国府」は府中市に置かれた。「衙」は、つかさ、天子のいる所、宮城。
留守所 るすどころ。平安後期以降一般化した地方行政を担う在地の執務機関。
田嶋の森 田島森。新宿区早稲田鶴巻町568にあり、島に似た土地と沼地があるので「田島の森」と呼びました。
暦応3年 鎌倉公方の足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷の替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えた。これは「高師冬奉書」暦応3年8月23日の手紙です。

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

鎌倉公方 室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。
足利義詮 あしかが よしあきら。室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。
執事 室町幕府の将軍と鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職
高師冬 こうのもろふゆ。南北朝時代の武将。
芋茎郷 いもぐきごう。現在は「埼玉県加須市芋茎芋郷」です。
名上げ 「名」には「きこえ、てがら」の意味があり、「名が上がる」には「名声をあらわす、有名になる」という意味があるようです。「牛込家文書」は芋茎郷に何が起こって、何が起こる予定なのか等について全く触れていません。
上野国 こうずけのくに。群馬県域の古代国名。
大胡城 群馬県前橋市河原浜町の城。築城は天文年間(1532年〜1555年)、廃城は元和2年(1616年)。
牛込系譜 「牛込氏系図」です。

牛込氏系図」(牛込区史、昭和5年)

後北条氏印判状写 大永6年10月13日の「北条家朱印状写」です。

「北条家朱印状写」大永6年10月13日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

牛込助五郎 牛込重行です。
新編武蔵風土記稿 大湖重行の父重治の代に牛込に移ったと書いてあります。

 また、赤城神社社史では

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています

 さらに重泰の代に牛込に住んだというものもあります。例えば「江戸名所図会」です。これは江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌で、赤城明神社の説明のところで、「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したのです。なお「重治」も「重泰」も牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

後北条氏 日本の氏族で、本来の氏は「北条(北條)」だが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」「相模北条氏」とも呼ばれる。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

「牛込氏文書 上」戦国時代

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 上」では16世紀の世界を扱います。細かく言うと1526年から1569年までです。戦国時代で最も戦乱が頻発した時代で、上下の関係ははっきりしてきて、贈答品を送る風習もありました。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、カラー写真は[C]、本文は3つ全部から取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 最初に「牛込氏文書 上」をまとめたものを出します。[C]の「武蔵野ふるさと歴史館」です。

小田原衆所領役帳

[C] 江戸氏の後、牛込郷を領有していたのが牛込氏です。前述のように、牛込氏は大胡氏の庶流である大胡重行が北条氏に招かれて牛込の地に移り住んだといわれていますが、江戸氏と牛込氏との関係をあらわす資料は確認できず、両者の出自、関係性については未だ定説に至っていません。
 江戸氏衰退の後、牛込氏が牛込郷を領有していることがうかがえる資料が①号文書です。北条氏が伊豆・相模国の支配を確実に把握すると、大永4年(1524)には武蔵国江戸城、岩付城、河越城などを攻略し、武蔵国支配に乗り出します。北条氏は家臣団を軍事集団ごとに衆として組織し、牛込氏は戦時には江戸城代の指揮を受ける江戸衆の一員とされました。『小田原衆所領役帳』(永禄2年(1559))によれば、牛込氏の所領は牛込、日比谷本郷、堀切 (葛飾郡)だったようです。
 牛込氏は重行のころに牛込に移り住みしばらくは大胡姓を名乗っていましたが、牛込姓を名乗ることを北条氏康に申請し、その許可を得て天文24年(1555)以降は牛込と称しています。牛込氏文書上巻から、牛込氏は北条氏から普請役や戦時の軍事力としても期待され、また恒常的に贈答品を送ることで良好な関係を築いていたことがうかがえます。


① 北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

[A] 北条氏から牛込助五郎(重行)に宛てた朱印状の写である。牛込氏の初見史料で、比々谷村(現千代田区)の陣夫・小屋夫役を免許されている。
[B] 北条氏綱が牛込助五郎に対し、日比谷村の陣夫と小屋夫の徴用を免除した内容。
[C] 牛込助五郎(重行力)が北条氏に日比谷村から陣夫(戦時中に物資を運ぶために徴用される人夫)役等を徴収することを免許された文書。牛込氏は、大永4年(1524)、北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点であった江戸城を攻略した頃に北条氏家臣となったと考えられます。本文書はその後、北条氏が武蔵国支配を進めていくなかで発給した文書です。
陣夫 じんぷ。中世、軍需品の輸送、道橋修理のための労役夫として領内から徴用した人夫。軍夫
免許する ある特定の事を行うのを官公庁が許す。また、法令によって、一般には禁止されている行為を、特定の場合、特定の人だけに許す行政処分

② 北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

[A] 北条氏康が牛込宮内少輔(勝行)に宛てて、牛込を本名に名乗ることを認めた判物である。本文と氏康の花押の墨が同じであり、全文一筆と判断され、写の可能性がある。
[B] 勝行に本名を牛込と号すことを許し、宮内少輔を称することを認めたもの。
[C] 牛込勝行からの願い出により、牛込と名乗ることについて北条氏康が許可をした文書。さらに宮内少輔の官途を遣わされています。この後から史料上で勝行は牛込宮内少輔と称されています。戦国大名は分国支配文書のうち、特に所領給与や安堵、特権付与・承認などの永続的効力を付与するべき文書に自らの花押を据えた判物(直状)を発給しました。

③ 北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

[A] 北条氏康より大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状の写で、「当口之儀」について飛脚が来たこと、「両種」が到来したことへの礼をしている。「当口」「両種」については判然としない。氏康の取ぎは遠山藤九郎(江戸城代遠山綱景嫡子)で、遠山氏からも牛込氏に宛てて書状が出されたことになるが、現存しない。藤九郎が牛込氏の取次ぎを勤めているのは、遠山氏が牛込氏ら江戸衆の指南を勤めていることに起因すると思われる。なお、発給年代は氏康の花押判形より、天文13(1544)年もしくは14(1545)年のものと推定される。
 牛込氏文書のなかには大胡氏宛ての文書があることから、本来「牛込」の呼称は在所名で、本名は「大胡」であったと思われる。この文書によって、天女24(1555)年以降は「牛込」を本名としたことになる。しかし、永禄2(1559)年の奥書を持つ『小田原衆所領役帳』のなかで、江戸衆として牛込・比々谷を領しているのは「牛込」でなく、「大胡」となっている。つまり牛込氏は、その後も公式には「大胡」と認識されていたのである。北条氏の発給文書のなかで、このような内容を持つものは他に類を見ない上、発給する必然性そのものに疑問が残るため、慎重な判断が求められよう。
[B] 氏康は氏綱の子で、天文十年家督した。宛名が大胡であることから、割と早い時期のものである。
[C] 北条氏康が大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状。平五郎からの「当口」「両種」に対して賞したことを伝えています。「当口」や「両種」については明らかではありませんが、文意からおそらく平五郎から氏康への贈り物であると考えられます。発給年は不明ですが、②号文書(天文24年(1555))の後に勝行が牛込氏と名乗るようになったことから、その前に発給されたものと推察されます。また、氏康の文書発給開始年と文中に登場する遠山藤九郎の没年を考慮すると、天文7年~17年(1538~1547)間に発給されたと考えられます。

④ 北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

[A] 北条長綱より大胡平五郎(勝行力)に出された書状の写で、新年の祝儀として鯉を送られたことに対する礼に扇子を三本送ったことを伝えている。鯉は、先述した北条氏政への新年の祝儀に加えて、北条氏綱からも鯉を送られた礼状を受けており、牛込氏の恒例の贈答品ということになろう。本文書は、切封墨引に勢いがあり、本文の筆跡も含めて原本に忠実な写、いわばレプリカと考えられる。
[B] 長綱はその花押から北条幻庵ではない。
[C] 大胡平五郎(牛込勝行力)が北条長網に正月の祝儀として鯉などを送り、その返礼として長綱から扇子3本が送られました。長網(幻庵)は北条早雲の子息で、北条氏網の弟として北条氏当主に長く仕えた人物です。本文書も発給年は不明ですが、③号文書同様に天文24年(1555)以前であると考えられます。

⑤ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

 ここで「鈴三」や「鈴」(リョウ、レイ、リン、すず)の意味は何なのでしょうか。単純に人の名前? でも、矢島氏は「酒」(シュ、シュウ、さけ、さか)と捉えて、武蔵野ふるさと歴史館は「頸」(キョウ、ギョウ、ケイ、くび)と考えているようです。右の文章は武蔵野ふるさと歴史館のもので、「鈴」の右手に〔頸〕が書かれています。

[A] 北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。普請の後に敵の夜襲があり、これに応戦した牛込氏が、安否を気づかう氏綱に酒を送った。その戦功を氏綱が賞している。しかし、どこの普請なのか、誰との戦いなのか判然としない。花押判形から大永5年以降のものである。氏網の署名は北条姓を伴っており、氏綱が伊勢から北条に改姓したのが大永4(1525)年であることを考えると、かなり早い段階のものの可能性がある。なお、宛所の隣に、後に宮内少輔と改めた旨が追記されている。この追筆部は筆跡が共通することから、助五郎が宮内少輔であるという判断は、後の人間、しかも同一人物の解釈といえる。
[B] 北条氏綱は天文十年七月に没している。敵が夜討をかけたと聞いて心配し、よく用心するよう申しつけたもの。
[C] 北条氏網から牛込助五郎(重行力)に対して送られた書状。普請の後に牛込氏が夜襲をうけ、氏網の心配するところでしたが、牛込氏から氏綱に敵の首が届けられ、安心するとともに牛込氏の働きを評価し気遣っています。北条氏と牛込氏の主従関係がうかがえます。

⑥ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年不詳)11月17日[竪切紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 同じく北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。先述したように、鯉を送られたことに対する礼状だが、「猶以御用心儀不可有御油断候」とあることから、前者と同時期に出された可能性がある。両者とも、花押判形から大永5年以降のものである。
[B] 北条氏網書状写 11月17日 牛込助五郎宛
[C] 牛込助五郎(重行力)から北条氏網に送られた鯉に対する礼状。

⑦ 北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

牛込氏文書から

[A] 牛込宮内少輔(勝行)宛の北条家朱印状である。勝行の中間が合戦で戦死した功として、その子に牛込村の棟別銭一貫四百文を下すこと、末々は足立で田地として遣わし、その節は棟別銭を納めるべき旨を伝えている。この文書に据えられた虎朱印は、朱が薄く、印文も一部が辛うじて判読出来る程度である。寸法もやや小さい。文書全体の行間も他の文書とくらべて狭く、バランスが悪い。内容も、この文書群の中で唯一の感状である。本文として扱うことに検討の余地がある。
[B] 去年、牛込勝行の中間が戦死したが、その忠節に対し、その子供に牛込村棟別銭の内一貫四百文を与える。なお将来は、足立郷において田地を与えるから、その時には、棟別銭の方を以前のように納めるようにという内容である。棟別銭は後北条氏の場合、一軒につき百文ないし50文であった。
[C] 永禄5年(1562)の合戦で牛込勝行の中間(従者)が戦死したことを受け、その子に牛込村の棟別銭1貫400文を下す旨を記した文書。年月日の上に北条氏の虎の印判(「禄壽應穏」)が据えられています。

⑧ 北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 牛込宮内少輔(勝行)に宛てた北条家朱印状の写で、近年江戸衆の中村次郎右衛門尉(宗晴)に与えていた比々谷の陣夫役6貫文を牛込氏に免許している。この陣夫役は以前重行が北条氏より免除されていたもので(①号文書)、後に陣夫役が賦課され、中村宗晴に下されていたものを、勝行の訴訟の趣旨が認められ再び牛込氏に免許された、ということになる。本書の年代(己巳)は、永禄12(1569)年と推定される。
[B] 日比谷村の陣夫銭を中村氏に付与したところ、郷民から異議が出たので、従来どうりに赦免するという内容。
[C] 日比谷村の陣夫役6貫文について、その徴収権が近年中村右衛門尉に下されていることについて牛込勝行からの詫言を受けて、北条氏から発給された文書。北条氏は勝行の訴えに応じて、日比谷村に対する陣夫役の徴収を改めて勝行に下しました。

大永6年152610月13日北条氏綱は牛込重行(か勝行)による
日比谷村の陣夫・小屋夫を認めた。
大永5年以降?1525以降11月13日北条氏綱は牛込重行を賞し、酒を送った。
あるいは重行は氏綱に敵の首を送った。
大永5年以降?1525以降11月17日牛込重行が鯉を送って、
北条氏綱がその礼状
天文7年~17年?1538~154710月27日牛込勝行力の「当口・両種」が来て、
北条氏康が礼状
天文24年以前?1555以前1月10日牛込勝行力が北条長綱に鯉などを送り、
代わって長綱から扇子3本を送られた。
天文24年15551月6日北条氏康が牛込勝行に
牛込を名乗ることを許可。
永禄6年15638月17日牛込勝行の従者が戦死し、
北条家は従者の子に棟別銭を下した。
永禄12年1569閨5月25日日比谷村に陣夫役の徴収権は
牛込勝行のものと北条家は判断