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夜の矢來|武田仰天子

文学と神楽坂

 武田ぎょうてんは小説家で、小学教師から新聞の記者になり、上京し、明治30年、東京朝日新聞に入社。長編時代小説を30編ほど執筆し、大衆文学の先駆者に。生年は1854年8月19日(嘉永7年7月25日)、没年は大正15(1926)年4月10日。73歳。

夜の矢來(やらい)

武田仰天子

「文芸界」 明治35年9月定期増刊号

夜の矢來  (きみ)何方(どちら)ですと(ひと)()はれて、()(やい)ですと答へると、その問うた人が()の句には、矢來は(ひろ)(ところ)ですねえと必ず言ふ、されど()のみ廣い處ではないのです。たゞ本鄕の西片(にしかた)(まち)と同樣で、一()番地の中は中々廣い、家数(やかず)の百餘戸(よこ)もある番地があります。()いては、何番何番地(あざ)何第何十何(がう)と言つたやうな鹽梅(あんばい)に、番地の下に字、字の下に號と、(すこぶ)(わづら)はしく小區分が()てあります。()う區別を()て置かなければ、家の所在が容易に分らないからです。故に始めて我が矢來へ來る人が、外町(ほかまち)の心得で、ただ番地だけ聞いて來た日には、さあ分らない、兩側に(うゑ)(つら)ねられた杉垣根の間を、彼方(あちら)(まは)り、此方(こちら)へ囘り、同じ所へ何度となく返つて來て、つまり指す家を()()()さないで帰つて(しま)ひます。よしまた號までを聞いて來たに()ても、その號がさ、次第好く順々に付いてない處があるのですから、やはり、多少迷付(まごつ)かなければなりません、また迷付(まごつ)くのが規則のやうになつて居るので、(たと)へば始めて訪れて來た人があると、その訪れられた家の者から一番最初に言出(いひだ)す御挨拶が、あなた()く分りましたねえと()うです。呆れ返つたものでせう。()く分つたと言つて不思議がるのですもの。それもさうです。大抵の來人は、二度目でもまだ迷付(まごつ)くので、まづ三四度目から、同じ杉垣根の中だけれど、あの家の筋向うには井戸があったとか、(くるま)宿(やど)から左へ取つて右へ曲つて(つき)(あた)たつて右側だとか、何か思い出して()(じるし)にするやうになりますからどうやら()うやら、折好(をりよ)行逢(いきあ)つた酒屋の小僧に問う世話(せわ)もなく、思ふ家へ行けると言ふもので、ですから()んな人達が、同じ道を何度も()(めぐ)つた足數(あしかず)(のべ)勘定(かんじやう)()て、大層歩いた、矢來は廣い、と()う思ふのですが、なあに、(たか)若州(じやくしう)()(ばま)洒井(さかゐ)家の(やしき)(あと)ですもの、廣さが幾許(いくら)あるもんですか。猫の額ほどの狹い土地です。それゆゑ別に夜の矢來と題を置いて、(こと)(ごと)しく書立てるほどの亊はないのです。ざつと書いて見やうなら、晝間(ひるま)でもこの通りに分り()ねる土地だから、夜始めて來た人は、(まる)八幡の籔へ入ッたやうなものだ、(くらゐ)でも()む事で、一向(つま)りませんけれど、その詰らないのを話の種に、六年(かり)(ずまひ)の矢來通をば、一番揮舞(ふりま)はして見ませうよ。(しか)無論(むろん)夜の分だけ。

左のみ そうむやみに、たいして
西片町 東京都文京区の町名。東京大学が近隣にあり、多数の学者や文化人が住んだため、学者町として知られる。関東大震災や第二次世界大戦の被害はなく、明治時代の雰囲気を残している。
車宿 車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。
若州小浜藩 若州とは若狭の異称。江戸時代、若狭わかさ遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に藩庁をおいた。1871年(明治4)の廃藩置県で小浜県となり、敦賀県、81年福井県に編入
八幡の籔 八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。

さて矢來の(うち)にも、軒並(のきなみ)商家(あきんど)のある所もあります。されど場末の(さび)れ町で、電燈や瓦斯(がす)燈といふ物は更になく、店の灯光(あかり)洋燈(らんぷ)持切(もちき)つて居て、そして(ひと)(どほ)りと言つても、早稲田邊から神樂阪の夜店へ行く人位の事で、詰らないのを話の種にするとは言いながら、(あま)り詰らなさ過ぎますから、所謂八幡の藪の(やしき)町の事だけを…それも街燈ちらほらの()暗い所ですから、目に見る物は()して、ただ耳に聞く物だけを選抜(よりぬ)いて(かゝ)げませう。聞く物は、下町とは樣子の(ことな)つた物がある上に、見る物が少くつて、自ら聞く事に(せん)一ですから、種々の音色が耳に()るのです。
(らい)  樹木(じゆもく)の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。夜の矢來町を夜籟町と書換へた方が適當(てきたう)でせう。何しろ栗や杉の喬木(げうぼく)が夜風を受けで、ざァーざッと騒ぐ樣は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。どうしても山居(さんきよ)心地(こゝち)がするので、(よく)には流水の(ひゞき)があつたらと、餅の皮を()きたくなる(くらゐ)です。
かと思うと、また野趣(やしゆ) (おぼ)しで夜の矢来2
(むし)()  は自慢です。秋の夕暮になると、垣根や()の下や草の中、何所(どこ)と限つた事はなく、種々樣樣の蟲が鳴出します。それが夜に入って露(しげ)なるに從ひ、次第に()()へて來て、何時(いつ)までも止間(やみま)がなく、東の空が(しら)むまで鳴通します。或は枕を(そばた)て、或は窓を()して、深夜にこの蟲の音を聞く(あぢはひ)といったら、(じつ)(なん)とも()へません。落月(らくげつ)微茫(びばう)の時はなほ()し、(やみ)()もまた惡くはない。下町の狹い軒端(のきば)で、(かご)に飼はれて居る蟲の音を聞くのとは、あはれさが違ひます。
蛙聲(あせい)  夏の()(どぶ)の中で蛙が鳴立てます。眞の田甫(たんぼ)の蛙聲と來ては、(やかま)しくつてなりませんが、山川の水がないやうに山の(どぶ)で水がないから、蛙も澤山(たくさん)には居ないです。()いては丁度()(ほど)に鳴きますから、(この)んで聞く氣にもなるので、(これ)はまた田舍(でんしや)心持(こゝろも)()ます。
鶏聲(けいせい)   (これ)もやはり田舍(でんしゃ)の趣味があつて、朝の三四時頃になると、遠近(をちこち)で鳴く一番(どり)、寝坊の私も(たま)には聞く事がありますが、何となく(いさ)ましいものです。

軒並 並んでいる家の一軒一軒。家ごと。「刑事が軒並に聞いてまわる」
 風が物にあたって発する音。
喬木 きょうぼく。 高木(こうぼく)と同じ。反対は低木=灌木(かんぼく)
 ほしがる気持ち。
野趣 自然のおもむき。また、田舎らしい素朴な味わい
 有り余るほど多い。ゆたか
 湿の旧字体。しめる。しめりけ
落月微茫 沈もうとする月はかすかでぼんやりしている
田舎 この時は「でんしゃ」。「でんしゃ」や「でんじゃ」は古語にあたる。一般的には熟字訓の「いなか」

()う數え立てゝ見ると、全く山村の趣味のみのやうですが、場末にも()ろ、(みやこ)(うち)には相違(さうゐ)ないだけに、鳴物(なりもの)も聞こえます。けれど下町から()ると、(おのづ)と野暮で、また自と(いや)しくはありません。
雅樂(ががく)  其筋(そのすぢ)樂人(がくじん)(すま)つて居て、自分でも練習を()家人(かじん)に教へても居ます。(あるひ)(くわん)()り、或は(げん)(かきなら)す時など、聞いて心が()むやうです。(しか)しトラヽタリラの()暗誦(あんしよう)は、耳に(はい)ると肩が()ります。
薩摩(さつま)())  是は師匠の家があつて、書生(れん)が夜稽古にも行き、稽古(がへ)りに琵琶(うた)を唄つても通り、また矢來倶樂部に折々琵琶會がありまして、江戸(まへ)意氣(いき)な歌は聞かれない代りに、この勇壯(いうさう)音曲(おんきよく)幾許(いくら)でも聞けるのですが、また聞くに()へたものです。
〇琴  垣根を(へだ)(やぶ)を隔てゝ、蘭燈(らんとう)の光の()れる(あた)り、(しづか)にして(さはや)かな琴の()が聞える時は、どんな(うる)はしい令嬢だらうと、自然その(ぬし)(しの)ばれます。實際逢つて見たら二度(びつく)で、(あら)(がほ)の、(ちゞ)れつ()の、(ふと)つてうの娘かも知れませんけれど、不思議に美人のやうに(おも)はするのは髙尚(かうしやう)な音色の(とく)でせうか。
謠曲(ようきよく)  一(たん)の流行が今に(すた)らないで、夜中(やちう)()小路(こうぢ)を散歩して見ても、(うたひ)(こゑ)の聞えない所はない位です。(なか)には聞くに()るのもありますけれど、大方(おほかた)は初心の下手(へた)(ぼへ)官吏(くわんり)會社員(くわいしやゐん)(おも)てすが、中に(なに)學士ともあらう人が、泣聲(なにごゑ)棒讀(ぼうよみ)()ては、(おん)(いたは)しや、あれでも大學出の先生かと、肩書の貫目(くわんめ)が疑はれます。(もとよ)り學者は(ただ)でも覺えは好いという理屈はありませんけれど、(ある)()(つたな)いと、總體(そうたい)を拙く見せるのは事實ですから、()した方が無難(ぶなん)で、もし執心(しうしん)なら、晝間(ひるま)世間の(さわ)がしい(うち)()つて(もら)ひたいものです。(さひは)此邊(このへん)では、下手(へた)義太(ぎた)を聞かされる(うれひ)だけはありませんが、この(うたひ)では()てられます。
(そう)々しい足音(あしおと)  毎日曜(まいにちえう)()、寄席の打出(はね)とも謂ふやうな大勢の足音が、丁度寄席の打出の刻限(こくげん)に聞えます。それは耶蘇(やそ)の教會堂から歸る人々ですが、土地に慣れない(あひだ)(あや)しまれました。(ちなみ)に言ひますが、この矢來町には、古來、佛寺(ぶつじ)という物はないのです。たゞ庵室(あんしつ)さへ、地蔵堂さへないほどの狹い土地に、新輸入の耶蘇曾堂のあるのが(めう)です。それにまた墓地のあるのがなほ妙です。併しその墓地は共有ではなく、今は同町全體の地主酒井家の專有(せんいう)で、何々院殿何々(だい)居士(こじ)(おほ)石碑(せきひ)が並んで居て、(かまへ)は極く(ちいさ)いけれど、樹木(じゆもく)(しん)々と(しげ)つてゐますから、女子供は、その傍を夜通るのを嫌ひます。
〇時の鐘  目白とは近く互に向合(むきあ)つた高臺(たかだい)ですから、彼所(あすこ)のが聞えるのは言ふまでもありませんけれど、夜が()けると、上野のゝも淺草のも聞えます。そしてもう一つ遠くつて大きい時の鐘、芝のだらうと思はれるのが聞えますが、これはまだ(しか)とは突止(つきと)めません。

鳴物 一般的には打楽器を中心とした楽器一般
 管楽器。横笛などの笛類
 弦楽器。琵琶・琴などの(いと)
薩摩琵琶 晴眼者が書き起こしたもの
蘭燈 美しい灯籠。美しいともしび
謠曲 ようきょく。能の詞章だけを謡う芸事。役者の動き・囃子・間狂言は除外し、詞章全体を一人で謡う。謡(うたい)。
貫目 かんめ。身に備わった威厳。貫禄
打出 うちだし、はね。芝居や相撲などの終りに太鼓をどんどん打って観客を追ひ出すこと。
耶蘇 イエス・キリスト。イエス(Jesus)の近代中国音訳語は「耶蘇」。日本では広くキリスト教やキリスト教徒の意味で用いられた。
庵室 僧、尼、隠遁者の質素な住まい。いおり

〇汽車の(ひゞき)  甲武の市内線と赤羽線とのが、夜はことに手に取るやうに聞えます。
〇汽船の汽笛  この事は人には(ちよつ)と信じませんけれど、私は以前築地に(すま)つて居て、聞覚えがあるから分るのですが、東風(こち)の吹く()は、大川から芝浦へ出入する汽船の汽笛が、びっびっびーと鮮やかに聞こえます。
賣聲(うりごゑ)  (もとよ)り賣れる場所ではありませんから、毎晩(きま)つて呼賣(よびうり)に來る商人(あきんど)はありません。不圖(ふと)すると、花林糖(くわりんたう)()が來る位の事。過日(いつか)でしたか、どう途惑(とまど)つてか、大層美聲(びせい)の辻(うら)(うり)が、淡路しま通ふ千鳥(ちどり)(なが)して來た事がありましたけれど、果して賣れなかつた爲か、たゞ一()(ぎり)でした。
杜鵑(ほとゞぎす)  たゞ一度(ぎり)、思ひ出したんですが、六年以来たゞ一(こゑ)、月夜の杜鵑を聞きました。この(へん)は、昔は()く鳴渡つたところださうですのに。
門附(かどづけ)  (これ)賣聲(うりごゑ)と同様で、(すま)ふ人が門附を呼止(よびと)める柄ではありませんから、(めつ)たに()つては來ませんけれど、(たま)義太夫(ぎだいう)新内(しんない)が…それも素通(すどほ)りの(なが)(ぞん)
按摩(あんま)  これは毎夜入りさうな土地で居て、やはり賣聲(うりごゑ)と同様で、笛の()(たま)により聞こえません。
(たき)(おと)  何分(なにぶん)巡査(じゆんさ)巡囘(じゆんくわい)の少い邊鄙(へんぴ)の事ですから、是は折々ある事で、おや、垣根で(へん)な音がすると思ふと、それ、往來(わうらい)の人が立止(たちどま)つて…
あゝ、話が(した)()ちましたから、もうこの(へん)切上(きりあ)げせまう。

甲武の市内線 甲武鉄道は明治22年に開業した蒸気鉄道で、飯田町-中野間10.9キロの電化工事を起し、明治37年8月に完成した。
東風 東風(あゆ、こち、こちかぜ、とうふう、とんぷう、はるかぜ、ひがしかぜ)。東から吹いてくる風。
大川 通称で東京都を流れる隅田川の下流部
呼賣 行商人の一種。道々大きな声で客を呼びながら商う呼売がありました。江戸時代から都市で盛んになり、野菜や魚介類など少量の商品を扱っています。振売 (ふりうり) 、棒手振 (ぼてふり) とも呼び、大正期まで多くみられ、現在でも金魚売、豆腐売、焼芋売などが行商人。
花林糖 かりんとう。駄菓子の一種
門附 家の門口で雑芸(万歳・厄払い・人形回し・その他)を演じたり、経を読んで金品を乞う行為や人。
義太夫 義太夫節の略。浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派
新内 しんないぶし。新内節。 浄瑠璃の一流派