加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。加藤氏は大阪寿司「大〆」を経営する娘で、父は大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に大〆を開店。100年後の平成29年(2017年)7月、息子が閉店しています。これは、昭和39年12月、神楽坂に地下鉄の東西線が開通して、その前後の状況です。
前にも一寸述べたように、鉄筋店舗を新築して3年目には既に地下鉄工事が始まった。 最近では、沿線の住民も慎重になって、先々の被害もその補償も事前に十分研究して、団結の力も強くなりそう安々と承諾しないと云う話である。 この営団地下鉄との交渉では、何しろ経験のない事ではあり、公共事業ではあるし、不本意ながら承諾の判を押したような事であった。 飯田橋から矢来町へかけて通る予定の路線工事の為、店に隣接する貸地二軒と、向い側の二軒の家はそれぞれ取り壊しとなり、仮住居へ移転した。 大〆の店は幸か、不幸か取り壊されずに済んだ。当時は、仮店舗等の面倒もなくそのまま営業を続けていられると喜んでいた。 処が、いざ工事が始まると思わぬ被害が出始めた。工事の際の建物の下受けの不備が原因か、とにかく鉄筋の建物の一部が二十糎余りも沈下して傾いた。 この為の外壁、内壁の亀裂や傾斜等の被害を営団側では手直しと云う名目で修理はすると云う。 店舗だけでなく、店舗の裏と横に面して建っている木造家屋も土台がずれて、この方がむしろ危険な状態になった。 これも手直しはすると云うだけでは、実際に修理した家屋がこの先何年保つか不安である。 この際、思い切って費用のかかるのは覚悟の上で、アパート併用の木造住宅を建てたのが、地下鉄工事が終って二年目の昭和40年であった。 店舗の補修については、それ以上に被害も出ないだろうと手直しで我慢する事にした。 その翌年、店の隣りに車庫と仕込場を作ってやっと一段落ついた。 この地下鉄工事では、不安と焦燥の中で予期しなかった建物の被害のために、修理や普請が引き続き、こんなに疲れた事はなかった。 考えて見るのに、如何に無駄な家屋の取り壊しや、建て直しを何度もやって来た事であろう。 私達の代になってから今までに費した建築の費用をもってすれば、優に何階建てかの高層建築が出来ていた事であろう―― しかし、此の地下鉄東西線が開通し、その後に有楽町線が通るようになって、益々交通の便がよくなって神楽坂近辺は地価も上昇するばかりのようである。 |
地下鉄工事が始まった 「東京地下鉄道東西線建設史」(帝都高速度交通営団、昭和53年)によれば「昭和35年8月東西線中野・東陽町間の建設計画を決定し、昭和37年10月19日建設工事に着手した」
路線工事 昭和40年の住宅地図は下図。赤い線で書かれた店舗が大〆。
工事が始まる 東西線はありませんが、有楽町で次の写真があります。
下受け 下請。したうけ。元請業者や元請負人の引き受けた仕事の全部や一部を、さらに請け負うこと。反意語は元請け。
営団 公共的事業経営のため特殊な非営利的な企業。第2次世界大戦中に多くの営団が設置。戦後、廃止か公団に改組、平成16年(2004)4月に、最後に残った帝都高速度交通営団は東京地下鉄株式会社(東京メトロ)に改組・民営化し、営団はなくなった。
地下鉄工事が終って 「東京地下鉄道東西線建設史」では「高田馬場・九段下は昭和39年12月23日に…運輸営業を開始した」と書いてあります。
普請 ふしん。道・橋などの土木工事。のち、建築工事一般もいう