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大東京繁昌記|早稲田神楽坂15|心のふるさと

文学と神楽坂


心のふるさと
 神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。
  (都の西北、早稲田の森に……)
 今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。

早稲田大学

心のふるさと『大東京繁昌記』。早稲田大学です

戸塚落合 以前の戸塚村と落合村。新宿区の全体は地図上では牛1頭によく似ています。で、戸塚村と落合村はこの頭と背中に当たります。高田馬場などになりました。
新宿区
大講堂 昭和2年に竣工した早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)ではありません。その以前の講堂です。早稲田大学校友会の『早稲田大学八十年の歩み』(1962年)では赤で囲んだ校舎「へ」が当時の講堂になっています。
早稲田2
相馬御風 そうま ぎょふう。生年は1883年(明治16年)7月10日。享年は1950年(昭和25年)5月8日。詩人・歌人・評論家。早稲田大学文学部哲学科卒業。早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ、多くの校歌や童謡の作詞者
大隈 大隈重信。おおくましげのぶ。生年は天保9年2月16日(1838年3月11日)。享年は大正11年(1922年)1月10日。政治家、教育者。政治家としては大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員など。早稲田大学の創設者で、初代総長。
野球々場 現在は早稲田大学総合学術情報センターです。
野球場
鶴巻町通り 現在の「早大通り」。昔は鶴巻(町)通りともいいました。鶴巻町通りの範囲は早大正門前から山吹町交差点まで。なお、提灯行列をしたのは以下の通り。ルートは早稲田大学から二重橋前までです。
早稲田32

彷彿 ありありと想像すること。よく似ているものを見て、そのものを思い浮かべること

 爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今はただいたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどはうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。

茗荷畑 江戸時代に早稲田村や中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町と山吹町)で生産しました。ここに生えるみょうがは赤みが美しく、大振りで晩生おくてのものでした。
鶴巻町 早稲田鶴巻町。早稲田村の鶴巻からとっています。元禄のころ、小石川村の放し飼いの鶴が早稲田村にも出没し、鶴巻町になりました。この中で真ん中を水平に通る道路は「早大通り」と呼び、以前は「鶴巻(町)通り」と呼びました。
早稲田鶴巻町
関口滝 明治43年の「牛込区の地形図」では下図で右の赤い四角です。
山吹の里 太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないという意味だと分かりました。この伝説の土地はいろいろありますが、その1つは都電荒川線面影橋の傍、豊島区高田1-18-1で、ここには「山吹の里の碑」があります。
面影橋 下図で左の赤い四角です。関口滝から面影橋まで周りは一面の「湿地」でした。
東電変圧所 下図で赤丸です。現在は、西早稲田1-13-17で、ここは東京電力早稲田家族寮がありました。この東電変圧所は赤レンガ造りで、明治の終わりに山梨県から高圧の電気を送っていました。下図を見ると、東電変圧所から南に大隈邸が見えます。これは大隈会館になり、現在は大隈庭園に変わっています。また中央左の運動場は早稲田大学運動場です。
関口滝から面影橋
道路 昭和4年の「戸塚町市街図」を見ると、運動場の南に新たな道路が生まれています。右図では右上から左下にかけての赤線の道路です。現在も同じ道路があります。
運動場1
 鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
 実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語るつもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)

山吹町羽衣館 赤城神社の氏子町の説明で「娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館」があったと書いています。しかし、193番地はどこなのか、正確にはわかりません。昭和5年の『牛込区全図』では193番地がありません。
 また、『歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記』(http://blog.livedoor.jp/toden41/archives/21379053.html)では、「都電時代は早稲田の学生街に続く神楽坂の裏町としても賑わいを見せた一画で、電停跡地付近には「羽衣館」という映画館もありました。映画館は戦後も存続し、昭和末年頃にひっそりと姿を消しています」と書いています。
 1970年の「新宿区・1970年度版・渋木逸雄」(国立図書館)の地図では羽衣館はどこにもないのですが、「牛込文化劇場」がありました。「電停跡地付近」にあるので、ここでいいのでしょう。現在は「トヨタレンタリース東京山吹町店」です。

牛込文化劇場

散歩街 「大学前から一直線に町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたり」した道路が筆者の希望でした。しかし、実際にそうなってしまいました。こんな学生街はまあほかにはないと思います。
穴八幡 穴八幡宮。あなはちまんぐう。新宿区の市街地にある神社。利益は蟲封じ、商売繁盛や出世、開運など。旧称は高田八幡宮。下の絵では水色の丸。「高田馬場の流鏑馬」の標板があります。
高等学院 早稲田高等学院のこと。しかし、この高等学院は練馬区上石神井に移動し、現在は早稲田大学戸山図書館になっています。下の図では青の四角。
馬場下の通り 馬場下町を通る道路は1つだけです。したがって、最下図の1つしかありません。
旧高田馬場跡 馬場は寛永13年(1636)に作り、旗本の馬術の練習場でした。上は緑色の四角で。下は嘉永5年と現在。

江戸大絵図・嘉永5年

江戸大絵図・嘉永5年

現在の場所

下戸塚通り 下戸塚村には道路が複数あります。しかし、旧高田馬場跡という名前から考えられる通りは2つ。1つは旧高田馬場跡の上(下の図では旧高田馬場の上方の細い青)、1つは旧高田馬場跡の下(下方の太い青)。しかし下の1つははるかに幅が広いので、この通りでしょう。昭和5年にはもう下の通りのほうが広がっていました。この下の赤の点に標板「旧高田馬場跡」があります。
昭和五年戸塚・落合の地形図
既往 過去

石川啄木|砂土原町

文学と神楽坂


石川啄木

 石川(たくぼく)は明治19年2月20日、岩手県に生まれました。東京には5回上京しています。
 最初の上京は明治32年(13歳)夏。上野駅勤務の義兄を頼っての上京です。上野の杜と品川の海を見て帰ります。
 2回目の上京は明治35年(16歳)。10月、「明星」に歌1首が載り、そこで10月31日、盛岡中学を中退し、上野行きの列車に乗りました。11月1日、東京に着き、2回目の上京で、1回目の長期の上京です。小石川区小日向台町に住み、新詩社に出ていますが、何せ金はなく、翌36年1月『下宿を着のみのままで逐出され』、神田錦町の見も知らぬ佐山という人の安下宿に入り、紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋で1日に1度か2度食いつないでいました。年が明け、2月、病気になり、郷里から来た父と一緒に帰郷します。
 3回目の上京は明治37年10月31日(18歳)。2回目の長期の上京です。向ヶ岡弥生町三に止宿。元気はいっぱい、屈託はなく、勝ち気で、明るく、飄然として、木の妹光子の話によれば、ここでも「いつも大きな法螺を吹いて」いたようでした。
 11月8日、神田駿河台袋町八に転居、11月28日、牛込区砂土原(さどはら)町3丁目22、井田芳太郎方に転居。砂土原町3丁目22は現在「朝霞荘」になっています。

朝霞荘

 金田一京助全集の第13巻「石川啄木」(三省堂)では、

 12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。
 玄関へ入った瞬間に、何か、私を待ちながら、その私の噂を、相宿の男へでもしていた様な石川君の声(と私は睨んだが)で、『文科大学生ですよ、ええ』というのが聞えて、すぐ沈黙した。女中に通されて、その室へ入ると、石川君は、床を敷いていて、その中から、立ち上って迎えてくれたのはよいが、袴をつけて紋付羽織を着たまま寝ていたもので、羽織は、くしゃくしゃ。それよりも驚いたのは、仙台平がもう、折目がすっかり無くなって、袋を穿()いているよう。恐らくは、寝ても起きても、どこへ行くにも、朝から晩まで、この袴をつけていたものでもあろうか、1ヶ月にしかならないのに、縞なりに、もう切れて、裾からは、ぼろが下がっていたのである。
 その云うことが、振っている。一々の言葉の端は覚えていないけれど、大体こういうことだった。
 感冒(かぜ)をひいて、寝てしまって、退屈でつまらないから、蟇口を出して、倒にして振って見たら、バラッと落ちたのは、全財産、大枚十銭五厘。女中を呼んで、これで、みんな葉書を買って来いと云いつけて、葉書を買ってもらって、みんなへ手紙を書いた。一枚余った葉書を、誰へ出そうと考えた。ムム大隈伯へ出して見ようと考えついて、
『あなたのような世界の大政治家と、私のような無名の(陋巷の?)一小詩人と、一堂に会してお話をして見たら、どんなに愉快でしょう』
と書いてやったという。
 私も、呀っとばかり、開いた口が塞らなかったが、この人にしては、有りそうなことだと、興味に釣られて、『そしたら?』と聞くと、『返事が来ましたよ』『え? 大隈さんから?』と私が驚くと、『大隈さんの字ではないんでしょう。自分で書かれないそうだから、やはり代筆でしょうけれど……』『何て云って来たの?』『面白い、兎に角逢おう、やって来い、と来ましたよ』『それでは行くの?』『だってもう、電車賃も無いんですもの』。
 先程からの話で、当然すぎる程、それは当然だった。『一文も無い、それァ困るなあ』と云いながら、私は蟇口を出して、畳の上へボロンボロンと揮って、月末の勘定の残りが3円なにがしがころころ転がったのを切半して帰って来た。
 前後、幾年、凡そ私が石川君に用立てた金は、どうやら此の様な行きさつで私の手から渡るもののようだった。

仙台平 せんだいひら。宮城県仙台市特産の絹の高級袴地「精好仙台平」の通称。
大隈伯 大隈重信。おおくま しげのぶ。政治家としては参議、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任し、早稲田大学の初代総長。

 この上京では長詩をたくさん作っています。詩人として名前は高くなりますが、生活は全くできない。3月10日、牛込区払方町25の大和館に転宿。5月10日、詩集『あこがれ』をだし、上田敏氏の序詩、与謝野氏の(ばつ)(後書き)。しかし、これが売れない。印税で家族を養うはずだったのに。金はなく、縁故もなく、スポンサーもパトロンもない。5月20日、帰郷の途に就きます。
 ここで牛込区砂土原町3丁目22と牛込区払方町25の場所を見ておきます。青で書いてある場所です。現在も変わっていません。牛込区払方町25についてはここに詳しく書いてあります。

啄木の場所

 なお、右の青の隣り、薄緑の場所は現在はマンション数棟ですが、以前は埼玉学生誘掖会埼玉寮でした。100人を超える寮生が生活していました。「誘掖」とは、導き助けるという意味だそうです。
 四回目の上京は明治39年6月。第2詩集を相談するため、また、父の問題で東京の宗務局に行きますが、宗務局の運動はだめ。よかったのは「俺だって書ける」と考えて帰ったこと。これが四回目の東京行きです。
 五回目は明治41年(22歳)。長期の上京としては三回目。北海道を離れ、4月28日、東京に到着。4月29日、金田一京助氏を訪ね、金田一氏の下宿に住んでいます。
 石川木と金田一京助の住所は文京区ですが、しかし(しん)()(しゃ)の友人、1歳上の北原白秋氏は北山伏町33番と神楽坂2丁目に住んでいました。木はここを訪れています。なお、新詩社とは明治32(1899)年、()()()鉄幹(てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体しています。

 明治41年7月27日 木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍って、耳が-左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴ってゐた。
いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言ってゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなってから辞した。途中まで送って、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

 もうすこし駅に近い場所がよかったのでしょうか。北原白秋氏は物理学校のそばに転居します。

 明治41年10年29日 木の日記から。

 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一曰の談話につかれてゐてすぐ床についた。

 物理学校は現在の東京理科大学です。私立大学で本部は新宿区神楽坂1-3。北原氏は明治41年10月にここ神楽坂2丁目に転居し、一年後の明治42年10月、本郷動坂に転居します。北原氏はここで「物理学校裏」という詩をつくっています。

 また木は、相馬屋の原稿用紙を買っています。これから2か月半後の4月13日、死亡しました。

 明治45年1月30日。木27歳の日記から。

 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひ出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞ恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン Пётр Алексе́евич Кропо́ткин (1842/12/9-1921/2/8)。ロシアの革命家、政治思想家、地理学者、社会学者、生物学者。近代アナキズムの発展に尽くした人物で、無政府共産主義を唱えた。

 これについては金田一京助氏は『啄木の美点』でこう書いています。

死ぬ直前、金も米もつきたところへ、朝日新聞社から編集長の好意の見舞金が届いた。何を買うかと思ったら、人力車に乗って神楽坂の本屋にいって本をあさり、結局、彼が人間性の可能の限界をきわめる最高の哲学だとするクロポトキンを買って帰った。この熱度、この真剣さ、妥協を拝する一本気と貧苦にめげない強気と、それに恩愛にすら束縛を感じ、童貞にも圧迫をおぼえる鋭い内省、ついに病の小康とともに天才主義から民衆主義へ、百八十度の転換を完成して、しばらくぶりに長詩ができた6月下旬、やはりしばらくぶりに、二人の間の久しい難問解決の喜びを分かちに来てくれたあの最後の訪問、恩讐(おんしゅう)をこえた、二人の交遊の総決算のような美しい訪問、啄木のこんな真実性に目をふさいで、伝記学者、地下の啄木にそれですむか。