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骨|有島武郎③

文学と神楽坂

 ところが、「おんつぁん」は1週間ほど経って、東京に戻ってきます。二人は一緒になって生活し、「勃凸」は運転手になるため、自動車学校に入ります。

 或る晩、勃凸が大森の方に下宿するから、送別のために出て来ないかといふ招きが来た。それはもう九時過ぎだつたけれども私は神楽坂の或る飲食店へと出かけて行つた。
「お待ちかねでした」といつて案内する女中に導かれて三階の一室にはいつて行つた時には、おんつぁんも、勃凸も、Iも最上の元気で食卓を囲んでゐた。
 勃凸は体中がはずみ上るやうな声を出して叫んだ。
「ほれえ、おんつぁん、凸勃が来たな。畜生! いゝなあ。おい、おんつぁん、騒げ、うつと騒げ、なあI、もつと騒げつたら」
「うむ、騒ぐ、騒ぐ」(中略)
「僕立派な運転手になつて見せるから……芸者が来ないでねえか。畜生」
 丁度その時二人の芸者がはいつて来た。さういふところに来る芸者だから、三味線もよく弾けないやうな人達だつたけれども、その中の一人は、まだ十八九にしか見えない小柄な女の癖に、あばずれきかん気の人らしかつた。
「私ハイカラに結つたら酔はないことにしてゐるんだけれども、お座敷が面白さうだから飲むわ。ついで頂戴」
 といひながら、そこにあつた椀の中のものを盃洗にあけると、もう一人の芸者に酌をさせて、一と息に半分がた飲み干した。
「馬鹿でねえかこいつ」
 もう眼の据つたおんつぁんがその女をたしなめるやうに見やりながら云つた。
田舎もんね、あちら」
「畜生! 田舎もんがどうした。こつちに来い」
 と勃凸が居丈ゐたけ高になつた。
「田舎もん結構よ」
 さういひながらその女は、私のそばから立ち上つて、勃凸とIとの間に割つてはいつた。
 座敷はまるで滅茶苦茶だつた。私はおんつぁんと何かいひながらも、勃凸とその芸者との会話に注意してゐた。
「お前どつち―――だ」
「卑しい稼業よ」
「芸者づらしやがつて威張いばるない」
「いつ私が威張つて。こんな土地で芸者してゐるからには、―――――――――――――上げるわよ」
「お前は女郎を馬鹿にしてるだべ」
「いつ私が……」
「見ろ、畜生!」
「畜生たあ何」
「俺は世の中で―――一番好きなんだ。いつでも女郎を一番馬鹿にするのはお前等ださ。……糞、見つたくも無え」
「何んてこちらは独り合点な……」
「いゝなあ、おい、おんつぁん、とろつとしてよ、とろつと淋しい顔してよ。いゝなあ―――――――――、俺まるつで本当の家に帰つたやうだあ。畜生こんな高慢ちきな奴。……」
「憎らしいねえ、まあお聞きなさいつたら。……学生さんでせう、こちら」
「お前なんか学生とふざけてゐれや丁度いゝべさ」
「よく/\根性まがりの意地悪だねえ……ごまかしたつて駄目よ。まあお聞きなさいよ。私これでも二十三よ。姉さんぶるわけぢやないけど、修業中だけはお謹みなさいね」
「馬鹿々々々々々々……ぶんなぐるぞ」
「なぐれると思ふならなぐつて頂戴、さ」
 勃凸は本当にその芸者の肩に手をかけてなぐりさうな気勢を示した。おんつぁんとIとが本気になつて止めた。その芸者も腹を立てたやうにつうつと立つてまた私のわきに来てしまつた。そしてこれ見よがしに私にへばりつき始めた。私はそれだけ勃凸の作戦の巧妙なのに感心した。巧妙な作戦といふよりも、あふれてゆく彼の性格のほとばしりであるのを知つた。(中略)
 勃凸は大童とでもいふやうな前はだけな取り乱した姿で、私の首玉にかじりつくと、何処といふきらひもなく私の顔を舐めまはした。芸者までが腹をかゝへて笑つた。
「今度はお前ことキスするんだ、なあ」
 勃凸はさつきの芸者の方に迫つて行つた。芸者はうまく勃凸の手をすりぬけて二人とも帰つて行つてしまつた。

凸勃 「勃凸」ではなく、「凸勃」は「私」のこと。
芸者 宴席で三味線、舞、笛、鼓、太鼓などの芸を披露する職業女性。
さういうところに来る芸者 明治大正時代、牛肉屋や蕎麦屋にまで出る芸者は三流四流の芸者でした。詳しくは西村酔夢氏の「夜の神楽坂」を。
女郎 遊女。遊郭で遊客と枕をともにした女。おいらん。娼妓。売春婦。
あばずれ 阿婆擦れ。悪く人ずれしていて、厚かましい女。古くは男にも使った。
きかん気 人に負けたり言いなりになるのを嫌う性質
ハイカラ 西洋風に結った髪。ハイカラ髪。反対は日本髪。
お座敷 芸者・芸人などが呼ばれる酒宴の席
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
一と息 ひと息。一気に。
田舎もん 田舎で育った人を侮蔑する表現
居丈け高 居丈高。威丈高。人を威圧するような態度をとる。
上げる 正確にはわかりません。「宴会1回分の玉代(遊興料)があがる」でしょうか?
独り合点 ひとりがてん。自分だけで、よくわかったつもりになること。ひとりのみこみ。ひとりがってん。
修業中だけはお謹みなさい 勉強中に芸者と遊ばないこと
前はだけ 着衣の合せ目が開く