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牛込氏についての一考察|⑧牛込氏と行元寺

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑧「牛込氏と行元寺」です。

 牛込氏のあった袋町の北方、神楽坂五丁目に前述の行元寺があった。『江戸名所図会』によれば、相当な大寺で総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。またその門の両側に南天の木があったので南天寺と呼ばれていたという。
 源頼朝石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣営を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたという(『御府内備考』続編、天台宗の部、行元寺)。
 頼朝が江戸入りほをしてから鎌倉まで、どのようなコースを通ったかはまだ解明されない。現在、新宿区内随一の古大寺だったこの寺に、このような頼朝立ち寄り伝説があることは、一笑することなく大切に残しておきたい話である。
 また太田道灌が江戸城を築いた時は、当寺を祈願寺にしたという(『続御府内備考』)。
行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。場所は下の通り。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

牛込氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国おおを領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
相当な大寺で…… 行元寺を参照。
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府初代将軍。治承4年(1180)挙兵したが、石橋山の戦に敗れ、安房あわにのがれた。間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。建久3年(1192)征夷大将軍。
武蔵 武蔵国。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
千手観世音 観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿
石橋山 頼朝は300余騎を従えて、鎌倉に向かったが、途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて、10倍を越える平氏の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中から、真鶴から海路で千葉県安房に逃れた。
『御府内備考』続編 「御府内備考」の続編として寺社の沿革をまとめたもの。文政12年(1829)成立。147冊、附録1冊、別に総目録2冊。第35冊に行元寺。
頼朝えりかけの尊像 東京都社寺備考 寺院部 (天台宗之部)では
略縁起云、抑千手の尊像は、恵心僧那の作なり。往古右大将朝頼石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給ふ折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きしと霊夢を蒙り給ひしより、東八ヶ国の諸待頼朝の幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。依之俗にゑりかみの尊像といふとかや 江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
当寺を祈願寺 祈願寺とは祈願のために建立した社寺で、天皇、将軍、大名などが建立したものが多い。『御府内備考』続編は東京都公文書でコピー可能です。また、これは島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じです。「中頃太田備中守入道道灌はしめて江戸城を築きし時、当寺を祈願所となすへしとて」

御府内備考続編

 以上のようなことは、単に当寺が古刹の如く見せるために作ったものであると片づけることなく、もう一度見直してみたい。この行元寺は、前述の兵庫町の人たちの菩提寺であったろうし、最初でも述べたように古くから赤城神社の別当寺にもなっていたのであるから、大胡氏の特別の保護下にあったものと思われる。太田道灌時のように、牛込氏の祈願寺だったことはもちろんであるが、宗参寺建立以前の菩提寺だったのではあるまいか。
 天正18年(1590)7月5日、小田原は落城したが、秀吉が牛込の村々に出した禁制には18年4月とある(『牛込文書』)から、そのころすでに牛込城は落城していたのであろぅ。
 一方、小田原の落城時、北条氏直(氏政の子で家康の女婿、助命されて高野山に追放)の「北の方」が行元寺に逃亡してきたのである。寺はこの時に応接した人の不慮の失火で焼失したということである(『続御府内備考』)。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像されよう。
古刹 こさつ。由緒ある古い寺。古寺。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり寺院が家の菩提寺といわれるようになった。
別当寺 べっとうじ。神社に付属して置かれた寺院。明治元年(1868)の神仏分離で終わった。
秀吉が牛込の村々に出した禁制 天正18年4月、豊臣秀吉禁制写です。矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)では「豊臣秀吉より『武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村』に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない」
牛込文書 室町時代の古文書から、戦国時代江戸幕府までの古文書で21通。直系の子孫である武蔵市の牛込家が所蔵している。
北条氏直 ほうじょううじなお。戦国時代の武将。後北条氏第5代。徳川家康と対立したが和睦。1583年8月家康の娘督姫と結婚して家康と同盟を結ぶ。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、降伏して高野山に追放し、後北条氏は滅亡。
北の方 大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
続御府内備考 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで「天正年中に小田原北條没落の時、氏直の北の方当寺に来らる 按するに当寺の前地蔵坂の上に牛込宮内少輔勝行の城ありしと此人 北條の家人なれはそれらをたより氏直の北の方こゝに来りしにや 時に饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」

御府内備考続編


源頼朝の伝説がある行元寺跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 7.源頼朝の伝説がある行元寺跡」についてです。

源頼朝の伝説がある行元寺(ぎょうがんじ)跡
      (神楽坂5ー6から7)
 毘沙門様を過ぎて右手に行く路地の奥一帯に行元寺があった(明治45年7月品川区西大崎4-780に移転)。
 新宿区内では古く建ったようであるが創建時代は不明である。総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。その門の両側に南天の木が多かったので南天寺と呼ばれていた
 源頼朝が、石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣容を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたというが、この伝説は信じがたい。
 この寺は、牛込氏が建立したのではあるまいか。そして後述するが、牛込城の城下町だったと思われる兵庫町の人たちの菩提寺でもあったろうし、古くから赤城神社別当寺ともなり、宗参寺建立以前の牛込氏菩提寺だったのではあるまいか(1113参照)。
 天正18年(1590)7月5日、小田原城の落城時には、北条氏直(氏政の子で、家康の女婿、助命されて紀伊の高野山に追放)の「北の方」がこの寺に逃亡してきた。寺はこの時応接した人の不慮の失火で火災にあったということである。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像できよう。
〔参考〕南向茶話 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治45年7月 明治45年ではなく、明治40年が正しく、明治40年の区画整理で行元寺は移転しました。
品川区西大崎4-780 現在は、品川区西五反田4-9-10です。
創建 建物や機関などをはじめてつくること。ウィキペディアでは「創建年代は不明である。①源頼朝が当寺で戦勝祈願をしたため平安時代末期以前から存在するとも、②太田道灌が江戸城を築城する際の地鎮祭を行った尊慶による開山ともいわれている」
 一方『江戸名所図会』では③「慈覚大師を開山とすと云ふ」と説明します。慈覚大師(円仁)とは平安時代前期の僧で、遣唐使の船に乗って入唐し、帰国後、天台宗山門派を創りました。実証はできませんが、この場合、開基の時期は9世紀末です。
総門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
中門 外郭と内郭を形づくる築地塀や回廊などがあるとき,内郭の門は中門である。
南天の木 ナンテン木の異称(下図を)

南天寺と呼ばれていた 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古は大寺にて、惣門は牛込御門の内、神楽坂は中門の内、左右に南天の並木ありし故、俗に南天寺と云しとなり」
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府の創立者。征夷大将軍。
石橋山 神奈川県小田原市の石橋山の戦場で、源頼朝軍が敗北した。平家の大庭景親や伊東祐親軍と戦った。

安房 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。安房国は最も南の国。
武蔵 武蔵国。むさしのくに。七世紀中葉以降、律令制の成立に伴ってつくった国の一つ。現、東京都、埼玉県、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市。

千手観世音 せんじゅかんぜおん。「観世音」は「観世音菩薩」の略。慈悲を徳とし、最も広く信仰される菩薩。「千手」は千の手を持ち,各々の手掌に目がある観音。
襟かけ 掛けえりの一種。襦袢(じゅばん)の襟の上に飾りとして掛けるもの。
この伝説 酒井忠昌氏の『南向茶話』(寛延4年、1751年)には「問日、高田馬場辺は古戦場之由承伝侯……」の質問に対して、答えの最後として「牛込の内牛頭山行元寺の観音の縁記にも、頼朝卿之御所持之仏にて、隅田川一戦の後、此地に安置なさしめ給ふと申伝へたり。」
 また、島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古右大将頼朝石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給う折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きし霊夢を蒙し給ひしより、東八ヶ国諸侍を頼朝幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。」
牛込氏が建立したのでは つまり、牛込氏が建立したという仮説④が出ました。
兵庫町 ひょうごまち。起立は不明で、豊島郡野方領牛込村内にあった村が、町屋になったという。はじめ兵庫町といったが、当時から肴屋が多かったという。
菩提寺 ぼだいじ。先祖の位牌を安置して追善供養をし、自身の仏事をも修める寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
別当寺 江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺。
宗参寺 そうさんじ。新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)、重行の嫡男牛込勝行が建立した。
北条氏直 戦国時代の武将で、氏政の長男。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、3か月に及ぶ籠城のすえ、降伏した。高野山で謹慎。翌年許されたがまもなく大坂で死没。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
不慮の失火で火災 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで、「天正年中に小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に来らる時に、饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」。なお、饗応は「酒や食事などを出してもてなすこと」です。