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神樂坂風景|小坂たき子

 新知社の「婦人文芸」からさかたき子氏の「神楽坂風景」(昭和12年2月)です。
「婦人文芸」は昭和9年6月から昭和12年8月までの約3年間(全37号)、主宰者の神近市子氏と鈴木厚氏が刊行した婦人文芸誌です。
 小坂たき子氏は明治42年1月27日に生まれ、没年は平成6年。「神楽坂風景」は28歳の作品でした。氏は初めはプロレタリア文学運動の一翼を担い、続く49年間は主婦、その後、ある文芸同人誌に参加しています。
 作品としては戦前の「日華製粉神戸工場」(雑誌『プロレタリア文学』に発表。白揚社、昭和7年)、本名の小坂多喜子氏の「女体」(永田書房、昭和53年)「わたしの神戸 わたしの青春 わたしの逢った作家たち」(三信図書、昭和61年)などです。

 牛込砂土原町へ移り住んでもう半ヶ年近くなる。一週間に二度位の割合で神樂坂へ散歩かたがた買物に出るのだが、ついぞこれはすばらしいと目をそばだてるやうな女性に出會つたことがない。銀座などのやうに歩けば何時も出會ふといふやうな特殊な顏ぶれもなく、何時も異つた顏が歩いてゐる。この近辺のプチ・ブルジョアのモダンお嬢さんや奥さんは買物や、散歩にはおほかた銀座へ出るのであらう。神樂坂に現はれる人は七八拾圓程度の月給をやりくりしてゐるらしいそのへんの世帯やつれのしたお内儀さんや商店の女房や田舎出の女學生などで、銀座へ出るには交通費が惜しいといつた種類の如何にも田舎くさい雜然とした女性ばかりである。商店もそういふ女性相手の特長のない平凡な店ばかりである。けれども神樂坂をいろどる女性に神樂坂藝者がある。咋日牛込館で「ジークフェルト」の割引をぼんやり待つてゐたら、あの坂道をひきもきらず棲を取つて帯をだらりと後にたらした晴衣姿の藝妓が、子供に三味線を持たして、通つて行つた。そのときはどうしたわけか妙におばあちゃん藝者ばかりで、とそ、、機嫌で顔を染めて通つて行つた。なかには田舎の茶屋などで見かける牛の首のやうな黒い肥つたえり、、を突出した女もゐた。みんな黒いこはまちりめん、、、、、、、の幾度も染め返したやうな古くさい晴衣などが足許から伝つてくる底冷えする寒気を一そうさむざむと感じさせた。
 しかし通りを歩いてゐる若い妓のなかにはときたま目をそばだゝせるやうな綺麗な妓がゐる。紅屋などでもぢり、、、外套の若旦那風の男に連れられ、紫の繻子コートなど着た堅氣造りの女のなかには、肌のすきとほるほど蒼い、そのくせぼて/\と肉のついた、おつとりとした美しい女を見かける。深水 の絵などにあるやうな日本の女、、、、の美しさといふやうなものを感じさせる。
 神樂坂をいろどるこれらの藝妓の姿を取りのぞいたら、何んと殺風景な風俗であらう。私などは藝者の姿を見るのが樂しみで、神樂坂を歩くのである。こゝの藝妓は二流か三流どころなのであらうがそれでも楽しい。けち/\と世帯やつれのした女なぞ見たくないなどと云つたら叱られるかしら。しかしかういふ奥様のなかでもとき/”\新婚らしい若い女には紫のしぼり銘仙など着て山手のインテリマダムといつた女にも出會ふが、気をつけて見ると學生は別として髪を切つた女などには出會はない。断髪に和服といふ姿で歩いてゐるのは私ぐらひのものである。かう書いてくると神樂坂には特殊な表情がない。純粋な山の手といふ感じもしないし、さればと言つて下町でもない平凡な何處にでも居るやうな女が歩き、平べつたい店が並んでゐる。
 暮に坂の途中でかなり高級な古着のたゝき賣りがあつた。昔流行つた縞銘仙の着物を着、たぼを入れて髪を結つたお内儀さんや、セルのコートを着たお婆さんや日本髪の若い娘などが、三十分も一時間も風に吹かれて熱心に立つて見てゐたが、誰も買はない。私と一緒に居た神樂坂には古い馴味の友達が、われ/\と同様で、懐中に十圓と纒つた金を持つて歩いてゐる奴はないんだよ、と云つてゐたが、そうかも知れない。少し登つた床屋の前の露店では一圓五十銭の金ぴかの人絹の帯が飛ぶやうに売れてゐた。
牛込砂土原町 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の「夢前川」(図書新聞、2007年)によれば、昭和11年6月~12年、小坂たき子氏は砂土原町二丁目7にいました。

昭和5年 牛込区全図

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年 砂土原町二丁目7

そばだてる 欹てる。物の一端を高く持ち上げる。注意力を集中する。
内儀 他人の妻を敬っていう語。多くは町家の妻。
ジークフェルト ジーグフェルドか。アメリカ映画「巨星ジーグフェルド(The Great Ziegfeld)」。米国の公開日は昭和11年11月。
ひきもきらず 引きも切らず。絶え間なく。ひっきりなしに。「いきもきらす」では「激しく動いたりして、せわしい呼吸をする。あえぐ」
棲を取る 歩くときに引きずらないように、手で裾をつまみ上げること。芸者や舞妓、花嫁に多い。「左褄を取る」とは芸者勤めをすること。
帯をだらりと後にたらした 帯の結び方の一つ。だらりの帯。江戸時代の婦人の間に流行し、後には京都祇園の舞妓が用いた。(芸者はお太鼓結び)

だらりの帯

晴衣 はれぎぬ。表立った場面で着る晴れやかな衣服。晴れ衣装。正月の晴衣を着たのでしょう。
とそ機嫌 屠蘇機嫌きげん。正月、屠蘇を飲んでちょっと酔った、よい気持ち。
えり首 くびのうしろの部分。うなじ。くびすじ。
こはまちりめん 小浜縮緬。絹織物縮緬の一つ。経糸たていと緯糸よこいとの割合が、普通縮緬と金紗縮緬との中間のもの。婦人衣料に用いる。金紗縮緬とはさらに細い生糸を用いて薄く織った絹織
もぢり外套 もじり外套。男性が着物の上に着る、筒袖つつそで角袖かくそでの外套
繻子 しゅす。経糸・緯糸五本以上から構成する。密度が高く地は厚く、柔軟性に長け、光沢が強い。

平織り、綾織り、繻子織り

コート 防寒、防塵、雨よけなどで、普通の衣服の上に着るもの。オーバーコート、レインコートなど
堅気造り まじめな職業についている人のような地味な身なり
ぼてぼて 厚ぼったくて重そうな感じのする様子
深水 伊東深水。出生は1898年(明治31年)2月4日。没年は1972年(昭和47年)5月8日。新版画運動を牽引した美人画の3人の1人。残る2人は川瀬巴水と吉田博。
しぼり銘仙 「絞り」とは人類で1番古い染色法。染料が浸入しないように、布地の所どころを糸で固く縛り、染料の中に浸して白い染め残しをつくる染色法。「銘仙」とは平織した絣かすりの絹織物で、普段着やお洒落着で着用する。
断髪に和服 当時は束髪(髪を一まとめにして束ねる)と和装が大半。一方、断髪(ショートヘアやボブ)と洋装は時代の最先端。断髪に和服も時代の最先端だと言えそうです。ポーラ文化研究所では「大正末期の日本で…モガ(モダンガール)のよそおいを見てみると、断髪や耳隠しに、洋服に身を包みハンドバッグを持ったり、断髪姿に着物をあわせたり…」と書いています。
神楽坂には特殊な表情がない 普通の女性ばかりで、モダンガールなどはいない。
縞銘仙 縞模様の銘仙。「銘仙」とは平織した絣かすりの絹織物で、普段着やお洒落着で着用する。
たぼ 日本髪の後方にはり出た部分
セル 梳毛そもう糸を使った平織りか綾織りの和服用毛織物。セル地。
床屋の前の露店 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(1997年)では昭和5年頃、宮坂金物店前の露店は半襟でした。
人絹 人造絹糸の略。天然の絹糸をまねてつくった化学繊維。レーヨン・アセテートの長繊維

小坂多喜子 昭和11年 牛込砂土原町

文学と神楽坂

 さか多喜子たきこ氏の「わたしの神戸、わたしの青春ーわたしの逢った作家たち」(昭和61年、三信図書)では、1年程、住んだ牛込砂土原町について簡単に書いています。

 牛込砂土原町の家に引越していったのは昭和11年頃のことで、それは二・二六事件に遭遇した上高田の家から引越していったことだけは確かであった。牛込矢来町から新見付にぬけるバス通りを一寸はいったところの崖下にある薄暗い陰気な家で、六畳に玄関三畳台所と二間ほどの小さな家だった。『日暦』同人の古我菊治が日暦の編集所兼住居として、かなり永い間住んでいた家で、そのすぐあとを私達が借りたのだった。
二・二六事件 昭和11年2月26~29日、皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデター
上高田 東京都中野区の地名。
新見附 新見附交差点。新宿区市谷田町二丁目にある交差点
バス通り 現在は牛込中央通り
日暦 ひごよみ。創刊号は昭和8年9月。出版元は春陽堂。編集発行人は古我菊治氏。昭和16年まで続き、第2次世界大戦のため休刊。昭和26年9月の22号は復刊1号。出版元は日暦社、編集発行人は石光葆氏。終刊は84号で平成元年12月。1933年から1989年まで56年に渡って続いた。
古我菊治 こがきくじ。当時は無職。昭和25年から東京書籍。「日暦」の同人は渋川驍、荒木巍、高見順、新田潤、大谷藤子、石光葆、白川渥、甲田正夫、古我菊治。

 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の本「夢前川」(図書新聞、2007年)では……

 昭和11年6月、上高田の家から牛込砂土原町2ー7へ引っ越した。牛込矢来町から新見附にぬけるバス通り(鰻坂)を少し入ったところの崖下にある薄暗い陰気な家たった。六畳に三畳、それに玄関、台所の付いた小さな家で、せまい前庭があった。裏表同じ間取りの二間長屋であった。「日暦」同人の古我菊治が編集所兼住まいとして使っていたところだった。古我菊治は同じ路地の二軒先の家に移り、上高田で隣に住んでいた古澤元真喜夫妻も近くに越してきた。武田麟太郎・留女夫妻は長男文章を連れて日本橋茅場町会館から砂土原町から道ひとつ隔てた麹町下二番町へ越して来ていた。多喜子は、買い物がてら、しばしば神楽坂を散歩した。女たちや神楽坂芸者を観察するのが、多喜子の楽しみのひとつ。
鰻坂 バス通り(牛込中央通り)と、上向きに曲がって現れる鰻坂は別々の通りです。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

古澤元 ふるさわげん。同人誌「人民文庫」の同人。「戦旗社」編集部員。昭和20年、軍兵に。22年5月、戦後、シベリアで栄養失調死。
真喜 まき。作家を志し、古澤元と結婚。昭和47年、脳血栓で寝たきり。昭和49年~52年、同人誌「星霜」に自伝小説「蒼き湖は彼方」を発表。10年後、死亡。昭和57年、夫婦の遺稿集「びしやもんだて夜話」
武田麟太郎 たけだりんたろう。小説家。東京帝国大学仏文科を卒業し、プロレタリア文学だったが、転向し『日本三文オペラ』などの「市井事もの」で有名に。死亡。生年は明治37年5月9日、没年は昭和21年3月31日。42歳、肝硬変で死亡
麹町下二番町 麹町区下二番町の起立は1872年(明治5年)、廃止は1938年(昭和13年)7月31日。

 川端要壽氏の「昭和文学の胎動 ー 同人雑誌『日暦』初期ノート」(福武書店、1991)では、同じ古我菊治氏の住所が出ています。

7年3月には砂土原町へと移った。牛込区砂土原町2ノ7番地である。
 市ヶ谷新見付から飯田橋に向かって濠端を行き、砂土原坂を左折し、牛込北町に向かって納戸町にいたる切石を放射状に敷きつめたゆるやかな坂道を、市ヶ谷駅から十二、三分ぐらい歩いていくと、左側の角に炭屋があり、その炭屋の裏側に古我の家はあった。
 その頃、この砂土原坂には市営の黄バスが通っていた。新橋駅から市ヶ谷駅前を通って、この砂土原坂を抜けて牛込北町、新潮社前から江戸川を下り、音羽から女子大横を通って目白駅に達する路線であった。
 半坪ほどの玄関を上がると、とっつきが三畳間、その左手に六畳と四畳半が続き、その六畳と四畳半を抱えるように小さな庭がついていて、三畳間の押入れの裏側が台所になっており、台所と六畳間と連なって、隣家がちょうど古我の家を裏返したようにくっついている二軒長屋であった。家賃は十五円だった。
砂土原坂 現在は「牛込中央通り」
切石 正方形や長方形に切り出した石を積んで作る
目白駅に達する路線 [橋68]は新橋駅前ー虎ノ門ー溜池ー赤坂見附ー四谷駅西口ー市ヶ谷駅ー矢来町ー江戸川橋ー護国寺前ー目白駅前の路線だった。
二軒長屋 3件の長屋のどれかでしょう。引っ越しは終わった後で、1方は小坂たき子氏、他方は古我菊治氏です。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年