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牛込濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

ミスターダンディー(写真)本多横丁、三つ叉横丁、牛込橋 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。

 この1974年に起きたことを簡単に挙げると、総理大臣は田中角栄、「金権選挙」を展開するも、参議院は過半数以下。逆に、ジャーナリストの立花隆が文藝春秋に「田中角栄研究」を掲載。ついに11月、首相は退陣。
 小野田寛郎元少尉はルパング島で30年ぶりに発見され、また巨人軍の長嶋茂雄選手は引退。米国では、ニクソン大統領は「ウォーターゲート事件」のため、辞任しました。

 最初の写真は「戦前から同じ場所にあった大野屋足袋店。看板も、柱に貼ってある札も読めます」と地元の方。場所は本多横丁。家は材木と瓦でできたもので、エアコンはあっても1台だけでしょう。

大野屋足袋店

 次の写真(下図)に行きます。左側の家は「戦前からの名店・呉服の柏屋」と地元の方。右側は住宅地図では個人名になっていますが、「珍味堂のはず。テントがあるのに個人宅はおかしい。建物も珍味堂と同じ。ぶら下がっている板状のものは、最後まで使っていた木の看板じゃないかな」と地元の人。場所も本多横丁です。

呉服の柏屋

1976年。住宅地図。

 3枚目の写真は「三つ叉横丁の角」と説明する地元の方。「みよし」は料亭、白鷹マークがある看板には炉ばた焼きの「1丁」。白鷹は日本酒の銘柄。左側の横丁は「三つ叉横丁」で、右側は「見番横丁」と、それぞれ名前がついています。
 一部を拡大すると、下は赤色は神楽坂演芸場の跡で、見番の駐車場になっています。


1976年。住宅地図。

 次の写真は、どこにでもありそうな光景で、実際には見たことはなく、全く不明。

 最後は一代前の牛込橋。現在の橋は平成8年に架け替えられたもの。一代前の橋は「ぼくの近代建築コレクション」でも出てくる。近くの瓦屋根の1棟は昔のボート乗り場。その隣で真っ黒な1棟は神楽坂1丁目の1軒で、上がる道路からは一段低い。遠くの中央1棟は「家の光」、右の2棟は東京理科大のビル。

牛込橋