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牛込城の興亡|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「3 牛込の祖、大胡氏について」と「5 牛込城の廃城とその後について」です。もし牛込城がある場合、新しく城を建築したのは何年で、城を解体するのは何年なのかという問題です。つまり、城を維持する期間です。

3 牛込の祖、大胡氏について
(4)大永の乱と牛込の地の継承

 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は、江戸城の上杉朝興を攻め、これを攻略した。朝興は川越へ逃げ、北条氏は江戸城代遠山直景を置いた。この戦乱は上杉朝興側の江戸城代、太田資高道灌の孫)の北条氏への内通で結着がついてしまったのである。弁天町にいた大胡氏は、このような扇谷家の末期的様相を、案外、冷静に見極めていたのかも知れない。
 このとき、牛込は戦場となり、兵庫町の町屋や行元寺が破壊されたという(『江戸名所図会』、『江戸名所花暦の冬雪』)。
 戦乱が一段落すると、大胡重行は北条氏綱、氏康の親子に臣の礼をどり、袋町牛込城を築城する。そして、江戸城代、遠山家とも縁を結ぶ。後の徳川氏への随身もそうであるが、誠に素速い替り身は、これも生き延びてゆくための“戦国の論理”だったかも知れない。
 そして、牛込氏を名乗るようになる。大胡氏が公式に牛込姓を得たのは、勝行の代であったが、重行の代から通称では「牛込」で通していたと、云われている。

大永の乱 高輪原の戦い。高輪原合戦。大永4年1月13日に武蔵高輪原(港区)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦。
北条氏綱 ほうじょううじつな。戦国大名。後北条氏第2代当主。父早雲の後を継ぎ、江戸城に扇谷上杉氏を攻め、河越城を奪い武蔵に進出した。
上杉朝興 うえすぎともおき。戦国大名。扇谷上杉家当主。大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ。同時に太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
遠山直景 とおやまなおかげ。戦国時代の武将。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤める。
太田資高 おおたすけたか。戦国時代の武将。太田道灌の孫。江戸城主上杉朝興につかえたが、離反して北条氏綱に属す。大永4年(1524)江戸城を攻めた。
道灌 太田道灌。おおたどうかん。室町中期の武将。名は資長すけなが。上杉定正の執事として江戸城を築城。
弁天町にいた 大胡氏が弁天町にいたとの明瞭な証拠はありません。
大胡氏 「寛政重修諸家譜」などからまとめると、足利成行の庶子重俊は足利から大胡に改称して大胡太郎と称し、上野国大胡(現在の前橋市大胡地域)を治めていた。以降、代々この地域に住んだが、重行の時に武蔵国牛込に移り住んで、その子の勝行は家号を牛込に改めた。勝正の時(1672年)にこの家系は断絶する。
扇谷家 扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を遠祖とする家。大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から河越へ逃れるが、これは後北条氏は江戸城への侵攻を開始したためである。
兵庫町 現在の神楽坂五丁目。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。行元寺の項では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いてあります。
江戸名所はなごよみ 別名は江戸遊覧花暦。岡島きん編著、長谷川雪旦せったん画。文政10年(1827)のガイドブック。春、夏、秋、冬の四部構成(秋と冬は合冊)で、草木花の名所を紹介しました。ここでは「市ヶ谷八幡宮」について「大永年中の兵乱に破壊す」と書かれています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では

重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす
氏康 北条氏康。ほうじょううじやす。後北条氏第3代目当主。
袋町 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はありませんが「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では……

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

牛込城を築城 上の「天文の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといへり」で、天文は1532年から1555年まで。
勝行 「寛政重修諸家譜」では

勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲

5 牛込城の廃城とその後
(1)牛込城の廃城

 天正18年(1590)7月5日、小田原城は豊臣秀吉の攻厳で落城し、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏は亡んだ。小田原城に先立って、その支城もつぎつぎに攻略され、江戸城も4月22日、徳川家康の臣、戸田忠次に明け渡された。
牛込家文書』に、天正18年牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城をその頃廃城したと思われる。
 この宛名が武蔵国えはらの都えとの内うしこめ七村とあるので、当時は荏原郡に所属していたことがわかる。なお、近世は豊島郡に所属していた。
(2)牛込氏、徳川氏への帰順
 遠山氏をはじめ江戸衆は解体し、その多くは投降した。牛込氏も家康に降伏し恭順の意を表した。伝承によれば家康江戸城へ入城にあたり、牛込村民は川崎まで出迎えたという。
 おそらく牛込氏が先頭になって村々の代表を連れて、出迎えたと思われる。大胡氏が上州から牛込に入って約100年で牛込城は亡んだ。天正18年8月徳川家康は江戸城に入城し(江戸打ち入り)、地方武士の所領を安堵し、治安を図った。牛込氏もいち早く家康に従い、天正19年(1591)、牛込勝重は家康にお目見えを許され、1,100石取りの家人(旗本)となった。

攻厳 こうげん。厳しく攻める。
戸田忠次 とだただつぐ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸田忠次の配した内通者の働きで江戸城は落城
禁制の写し 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したもの。
荏原郡 えばらぐん。品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市川崎区など。近世までは千代田区、港区の一部を含む
豊島郡 千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、練馬区の大部分。
遠山氏 遠山直景。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤めた。
江戸衆 支城には衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。
牛込村民は川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城に入城し、牛込七ヵ村の住民は武蔵国川崎村までお迎えに出向いたと「牛込町方書上」。

牛込町方書上 肴町

約100年で牛込城は亡んだ 以下に説明しています。
安堵 封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。

 牛込城は「天文(1532ー1555)の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといえり」(江戸名所図会)から、築城日は遅くても1532ー1555年。廃城は「天正18年(1590)牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城もその頃廃城した」(上記)から1590年ごろ。約100年の期間だから、築城日は1490年ごろになる。
 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方があり、1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 「牛込氏文書 上」によれば、大永6年(1526)、牛込氏が牛込郷を領有しています。しかし、牛込城ができたのかどうかは、不明です。芳賀善次郎氏のように牛込の宗参寺の所に牧場経営をしていたとも考えらえます。
 一世代が約20年と考えると、この2つ目の考え方を使う場合、1510〜20年に牛込城をつくり、移住したと考えられます。濠がすでに相当あり、丘城だったので、あっという間に城ができたでしょう。
 実際には約100年の期間は長すぎるでしょう。最短時期は35年間ですが、これは短すぎる期間です。

「牛込氏文書 上」戦国時代

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 上」では16世紀の世界を扱います。細かく言うと1526年から1569年までです。戦国時代で最も戦乱が頻発した時代で、上下の関係ははっきりしてきて、贈答品を送る風習もありました。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、カラー写真は[C]、本文は3つ全部から取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 最初に「牛込氏文書 上」をまとめたものを出します。[C]の「武蔵野ふるさと歴史館」です。

小田原衆所領役帳

[C] 江戸氏の後、牛込郷を領有していたのが牛込氏です。前述のように、牛込氏は大胡氏の庶流である大胡重行が北条氏に招かれて牛込の地に移り住んだといわれていますが、江戸氏と牛込氏との関係をあらわす資料は確認できず、両者の出自、関係性については未だ定説に至っていません。
 江戸氏衰退の後、牛込氏が牛込郷を領有していることがうかがえる資料が①号文書です。北条氏が伊豆・相模国の支配を確実に把握すると、大永4年(1524)には武蔵国江戸城、岩付城、河越城などを攻略し、武蔵国支配に乗り出します。北条氏は家臣団を軍事集団ごとに衆として組織し、牛込氏は戦時には江戸城代の指揮を受ける江戸衆の一員とされました。『小田原衆所領役帳』(永禄2年(1559))によれば、牛込氏の所領は牛込、日比谷本郷、堀切 (葛飾郡)だったようです。
 牛込氏は重行のころに牛込に移り住みしばらくは大胡姓を名乗っていましたが、牛込姓を名乗ることを北条氏康に申請し、その許可を得て天文24年(1555)以降は牛込と称しています。牛込氏文書上巻から、牛込氏は北条氏から普請役や戦時の軍事力としても期待され、また恒常的に贈答品を送ることで良好な関係を築いていたことがうかがえます。


① 北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

[A] 北条氏から牛込助五郎(重行)に宛てた朱印状の写である。牛込氏の初見史料で、比々谷村(現千代田区)の陣夫・小屋夫役を免許されている。
[B] 北条氏綱が牛込助五郎に対し、日比谷村の陣夫と小屋夫の徴用を免除した内容。
[C] 牛込助五郎(重行力)が北条氏に日比谷村から陣夫(戦時中に物資を運ぶために徴用される人夫)役等を徴収することを免許された文書。牛込氏は、大永4年(1524)、北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点であった江戸城を攻略した頃に北条氏家臣となったと考えられます。本文書はその後、北条氏が武蔵国支配を進めていくなかで発給した文書です。
陣夫 じんぷ。中世、軍需品の輸送、道橋修理のための労役夫として領内から徴用した人夫。軍夫
免許する ある特定の事を行うのを官公庁が許す。また、法令によって、一般には禁止されている行為を、特定の場合、特定の人だけに許す行政処分

② 北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

[A] 北条氏康が牛込宮内少輔(勝行)に宛てて、牛込を本名に名乗ることを認めた判物である。本文と氏康の花押の墨が同じであり、全文一筆と判断され、写の可能性がある。
[B] 勝行に本名を牛込と号すことを許し、宮内少輔を称することを認めたもの。
[C] 牛込勝行からの願い出により、牛込と名乗ることについて北条氏康が許可をした文書。さらに宮内少輔の官途を遣わされています。この後から史料上で勝行は牛込宮内少輔と称されています。戦国大名は分国支配文書のうち、特に所領給与や安堵、特権付与・承認などの永続的効力を付与するべき文書に自らの花押を据えた判物(直状)を発給しました。

③ 北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

[A] 北条氏康より大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状の写で、「当口之儀」について飛脚が来たこと、「両種」が到来したことへの礼をしている。「当口」「両種」については判然としない。氏康の取ぎは遠山藤九郎(江戸城代遠山綱景嫡子)で、遠山氏からも牛込氏に宛てて書状が出されたことになるが、現存しない。藤九郎が牛込氏の取次ぎを勤めているのは、遠山氏が牛込氏ら江戸衆の指南を勤めていることに起因すると思われる。なお、発給年代は氏康の花押判形より、天文13(1544)年もしくは14(1545)年のものと推定される。
 牛込氏文書のなかには大胡氏宛ての文書があることから、本来「牛込」の呼称は在所名で、本名は「大胡」であったと思われる。この文書によって、天女24(1555)年以降は「牛込」を本名としたことになる。しかし、永禄2(1559)年の奥書を持つ『小田原衆所領役帳』のなかで、江戸衆として牛込・比々谷を領しているのは「牛込」でなく、「大胡」となっている。つまり牛込氏は、その後も公式には「大胡」と認識されていたのである。北条氏の発給文書のなかで、このような内容を持つものは他に類を見ない上、発給する必然性そのものに疑問が残るため、慎重な判断が求められよう。
[B] 氏康は氏綱の子で、天文十年家督した。宛名が大胡であることから、割と早い時期のものである。
[C] 北条氏康が大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状。平五郎からの「当口」「両種」に対して賞したことを伝えています。「当口」や「両種」については明らかではありませんが、文意からおそらく平五郎から氏康への贈り物であると考えられます。発給年は不明ですが、②号文書(天文24年(1555))の後に勝行が牛込氏と名乗るようになったことから、その前に発給されたものと推察されます。また、氏康の文書発給開始年と文中に登場する遠山藤九郎の没年を考慮すると、天文7年~17年(1538~1547)間に発給されたと考えられます。

④ 北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

[A] 北条長綱より大胡平五郎(勝行力)に出された書状の写で、新年の祝儀として鯉を送られたことに対する礼に扇子を三本送ったことを伝えている。鯉は、先述した北条氏政への新年の祝儀に加えて、北条氏綱からも鯉を送られた礼状を受けており、牛込氏の恒例の贈答品ということになろう。本文書は、切封墨引に勢いがあり、本文の筆跡も含めて原本に忠実な写、いわばレプリカと考えられる。
[B] 長綱はその花押から北条幻庵ではない。
[C] 大胡平五郎(牛込勝行力)が北条長網に正月の祝儀として鯉などを送り、その返礼として長綱から扇子3本が送られました。長網(幻庵)は北条早雲の子息で、北条氏網の弟として北条氏当主に長く仕えた人物です。本文書も発給年は不明ですが、③号文書同様に天文24年(1555)以前であると考えられます。

⑤ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

 ここで「鈴三」や「鈴」(リョウ、レイ、リン、すず)の意味は何なのでしょうか。単純に人の名前? でも、矢島氏は「酒」(シュ、シュウ、さけ、さか)と捉えて、武蔵野ふるさと歴史館は「頸」(キョウ、ギョウ、ケイ、くび)と考えているようです。右の文章は武蔵野ふるさと歴史館のもので、「鈴」の右手に〔頸〕が書かれています。

[A] 北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。普請の後に敵の夜襲があり、これに応戦した牛込氏が、安否を気づかう氏綱に酒を送った。その戦功を氏綱が賞している。しかし、どこの普請なのか、誰との戦いなのか判然としない。花押判形から大永5年以降のものである。氏網の署名は北条姓を伴っており、氏綱が伊勢から北条に改姓したのが大永4(1525)年であることを考えると、かなり早い段階のものの可能性がある。なお、宛所の隣に、後に宮内少輔と改めた旨が追記されている。この追筆部は筆跡が共通することから、助五郎が宮内少輔であるという判断は、後の人間、しかも同一人物の解釈といえる。
[B] 北条氏綱は天文十年七月に没している。敵が夜討をかけたと聞いて心配し、よく用心するよう申しつけたもの。
[C] 北条氏網から牛込助五郎(重行力)に対して送られた書状。普請の後に牛込氏が夜襲をうけ、氏網の心配するところでしたが、牛込氏から氏綱に敵の首が届けられ、安心するとともに牛込氏の働きを評価し気遣っています。北条氏と牛込氏の主従関係がうかがえます。

⑥ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年不詳)11月17日[竪切紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 同じく北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。先述したように、鯉を送られたことに対する礼状だが、「猶以御用心儀不可有御油断候」とあることから、前者と同時期に出された可能性がある。両者とも、花押判形から大永5年以降のものである。
[B] 北条氏網書状写 11月17日 牛込助五郎宛
[C] 牛込助五郎(重行力)から北条氏網に送られた鯉に対する礼状。

⑦ 北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

牛込氏文書から

[A] 牛込宮内少輔(勝行)宛の北条家朱印状である。勝行の中間が合戦で戦死した功として、その子に牛込村の棟別銭一貫四百文を下すこと、末々は足立で田地として遣わし、その節は棟別銭を納めるべき旨を伝えている。この文書に据えられた虎朱印は、朱が薄く、印文も一部が辛うじて判読出来る程度である。寸法もやや小さい。文書全体の行間も他の文書とくらべて狭く、バランスが悪い。内容も、この文書群の中で唯一の感状である。本文として扱うことに検討の余地がある。
[B] 去年、牛込勝行の中間が戦死したが、その忠節に対し、その子供に牛込村棟別銭の内一貫四百文を与える。なお将来は、足立郷において田地を与えるから、その時には、棟別銭の方を以前のように納めるようにという内容である。棟別銭は後北条氏の場合、一軒につき百文ないし50文であった。
[C] 永禄5年(1562)の合戦で牛込勝行の中間(従者)が戦死したことを受け、その子に牛込村の棟別銭1貫400文を下す旨を記した文書。年月日の上に北条氏の虎の印判(「禄壽應穏」)が据えられています。

⑧ 北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 牛込宮内少輔(勝行)に宛てた北条家朱印状の写で、近年江戸衆の中村次郎右衛門尉(宗晴)に与えていた比々谷の陣夫役6貫文を牛込氏に免許している。この陣夫役は以前重行が北条氏より免除されていたもので(①号文書)、後に陣夫役が賦課され、中村宗晴に下されていたものを、勝行の訴訟の趣旨が認められ再び牛込氏に免許された、ということになる。本書の年代(己巳)は、永禄12(1569)年と推定される。
[B] 日比谷村の陣夫銭を中村氏に付与したところ、郷民から異議が出たので、従来どうりに赦免するという内容。
[C] 日比谷村の陣夫役6貫文について、その徴収権が近年中村右衛門尉に下されていることについて牛込勝行からの詫言を受けて、北条氏から発給された文書。北条氏は勝行の訴えに応じて、日比谷村に対する陣夫役の徴収を改めて勝行に下しました。

大永6年152610月13日北条氏綱は牛込重行(か勝行)による
日比谷村の陣夫・小屋夫を認めた。
大永5年以降?1525以降11月13日北条氏綱は牛込重行を賞し、酒を送った。
あるいは重行は氏綱に敵の首を送った。
大永5年以降?1525以降11月17日牛込重行が鯉を送って、
北条氏綱がその礼状
天文7年~17年?1538~154710月27日牛込勝行力の「当口・両種」が来て、
北条氏康が礼状
天文24年以前?1555以前1月10日牛込勝行力が北条長綱に鯉などを送り、
代わって長綱から扇子3本を送られた。
天文24年15551月6日北条氏康が牛込勝行に
牛込を名乗ることを許可。
永禄6年15638月17日牛込勝行の従者が戦死し、
北条家は従者の子に棟別銭を下した。
永禄12年1569閨5月25日日比谷村に陣夫役の徴収権は
牛込勝行のものと北条家は判断