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牛込氏についての一考察|③最初の移住地

文学と神楽坂


  3 最初の移住地
 まず、大胡氏の牛込移住は、重行の時といわれているが(「牛込氏系図」)、重行の出生は寛正元年(1460)であるから、それよりも前のことになる。『南向茶話』には、重行の父大胡彦太郎重治とあるが、この人物は「牛込氏系図」にはない。
 ところで新宿区弁天町9番地に宗参寺がある。宗参寺は、大胡勝行が天文12年(1543)83才で死去した父重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。そこには牛込氏の墓地があり、大胡重行、勝行父子の墓があり、都の文化財に指定されている。
 思うに、この地が大胡氏の牛込移住の最初の土地ではないかと思う。『江戸砂子』には「……此の地に来り牛込城主となり」とある。
 菩提寺を建立するにはそれだけの場所選定の理由があるし、家族の居住地に寺院が建つ例が多い。『御府内備考』では、宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのはだといっているが、『東京案内』(明治40年、東京市編)は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 なぜここに居住したかについては、大胡氏勧請の赤城神社の旧地を考察する必要がある。
南向茶話 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)と『南向茶話附追考』(明和2年、1765年)はともに江戸の地誌
重治 南向茶話附追考では、「大湖重治」氏が所在地を大胡から牛込に変更し、「勝行」氏は名前を牛込家に変えたとしています。ここでも「重治」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

 なお「新撰東京名所図会 牛込区之部 中」(東陽堂、明治39年)の場合は……。

牛込の称は。北條分限帳に見えて。大胡常陸守領とあり。牛込氏家伝に。大胡宮内少輔重行。法名は宗參。其の子従五位下勝行。北條氏康に属す。勝行は武蔵国牛込並今井、桜田、日尾谷、其の外下総の堀切。千葉を領し。牛込に居住す。因て天文14年正月6日。大胡を改め牛込とすとあれば。牛込の称は。それより以前在りしてと明かなり。牛込氏居住して始て牛込の称起れるにはあらざるなり。
(新撰東京名所図会)

宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗雲居山の寺院。

都の文化財 宗参寺の「牛込氏墓」が文化財になっています。

   牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会
江戸氏牛込氏文書 江戸幕府の旗本・牛込家の古文書群21通

江戸砂子  享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り牛込城主となり 同じ言葉ではないですが、続江戸砂子温故名跡志巻之四が埋まっていました。

雲居山宗参寺 寺産十石 吉祥寺末 牛込弁天丁
開山看栄禅師、牛込氏勝行、父の重行菩提のため、天文13甲辰建立しでん四十こくす。雲居院殿前大胡大守実翁宗参大菴主。天文12年に卒す。是おほ重行しげゆきの法名也。これをとりて山寺の号とす。此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょう嫡男ちゃくなん勝行天文24乙卯従五位下ににんず。于時ときに本名大胡をあらため牛込氏とごうす、御幕下牛込氏の也。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
旧蹟 有名な建物や事件が昔にあった所。
 「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのは誤だといっている」と書かれています。実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。
牛込城蹟
牛込家の傳へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(中略)
彦太郎藤原重治は武蔵守秀卿の後胤もと上野国大胡の住人なり、重治が世に至て武蔵国豊島郡牛込の城にうつり住す この城をいふなるべし その子宮内少輔重行天文12年9月27日卒す78歳、その子宮内少輔勝行北條左京大太氏康の麾下に属す、天文13年牛込の地に於て一寺を建て雲居山宗参寺と号す是父の法名によつてなり、寺領十石を寄進す 按に宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。
いかさま (1) なるほど。いかにも。(2) いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき。不正。
麾下 きか。将軍に直属する家来。ある人の指揮下にある。その者。

東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では
牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方がありそうです。1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 また、大胡家から牛込家に名前を変えた時期は、移住した時よりも遅く、勝行氏が牛込家に変えたと、多くの人が考えているようです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年