平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 99は、神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道にはほぼ平坦で、将来できるOリングはまだありません。
これはID 46とほぼ同じです。最大の違いはID 99の左隅1~2mが増えたことです。またトーンカーブのため、見えなかったことが見えるようになったことも違っています。さらに昭和28年(1953年)に撮影したと新宿歴史博物館が正確に示した点です。
神楽坂3丁目(昭和28年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、歩道は綺麗で平坦で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。全員コートを着ています。
メトロ映画のメーン作品は「修羅八荒」で、市川右太衛門と大川橋蔵が主演の娯楽時代劇。公開は昭和33年11月11日。「神州天馬侠 完結篇」は昭和33年9月23日。「裸の太陽」は昭和33年10月1日。どれも昭和33年の映画です。この写真を撮ったのはおそらく昭和33年11月に寒くなって撮ったのでしょう。
神楽坂2丁目(昭和33年10月) |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
シャツの人がいますが、半袖の人はいません。つまり夏ではありません。歩道はきれいで平坦です。
左に建築中のビルは大島ビルで、この築年月は昭和34年(1959年)5月、総階数は4階です。建築後は大島糸店になりました。この撮影日は、佳作座の広告「野ばら」があるので、昭和33年秋や冬でしょう。
一方、新宿歴史博物館の調べではこの写真は「昭和37年頃」に撮ったといいます。
横断幕の「本日特売日」があります。
また、車道のOリングはないのですが、アスファルト舗装では車の馬力が不十分で、石敷でした。
神楽坂2丁目(昭和33年) | |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 46を見ましょう。撮影は神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道には平坦で、Οリングはまだありません。なお、ID 99のほうがこれよりも情報が多く、必ずID 99を見ておいて下さい。
新宿歴史博物館「新宿区の民俗」(5)(平成13年)p.57では「昭和30年前後の神楽坂3丁目付近」と書かれています。
また神楽坂三十年代地図の昭和35年頃では、丸富呉服は東京電力に、神楽魚は食品ストアに変わっています。同様な変化は住宅地図(人文社、昭和35年)でも見られます。つまり、ID 46は昭和35年以前だといいます。
一方、昭和27年(都市製図社「火災保険特殊地図」)と比べると、同時代になるといいます。
神楽坂3丁目(坂下→坂上) |
かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では
万平(すき焼き) ちょっと陰気な柳が目印だった「万平」。名物のおばあちゃんは、四角いカウンターの中で、若かった文学青年たちを相手に、男女の粋な話をいろいろとしてくれた。確か早稲田の坪内逍遥先生の最後の講義を、着物をぱりっと着て、講堂の最前列で聞いたと自慢していた。20代で学生でもなかったけどね、粋だったね。元気で楽しいおばあちゃんだった。ビルになった時は、早稲田通り側に、檜の風呂を作ったのは有名な話だけど…。 キムラヤ(パン・菓子) 明治時代からつづく老舗中の老舗。銀座本店と縁戚関係にあって、名物の酒種あんパンをはじめ、クリームパン、マロン、チーズクリームなどとてもおいしかった。お店のおばさんや若夫婦もとても品があって気持ちがよかった。新作メニューのナッツの入ったのや煮タマゴの入ったのも好きでした。残念の一語です。 |