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成金横丁と大〆

文学と神楽坂

 加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に内海清吉氏が大阪寿司「大〆おおじめ」を開店して、彼が1代目。子供の八重子氏は父の弟子、加藤春寿氏と結婚し、加藤氏が2代目。3代目は八重子氏の次男、謙二郎氏です。平成29年(2017年)7月、1世紀後に大〆は閉店、ただし大家は当然に続けるようです。

成金横丁と大〆

アサヒグラフ。朝日新聞社。昭和63年6月。

 さて、此の神楽坂通りを越して早稲田通りへ向かい、二本目を右へ曲ると「大〆」の店のある『成金横丁』となる。成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。
 大〆の開店当時の成金横丁は数軒の店屋の他はしもたや、、、、が多かった。
 大〆の店に向って左から写真館、次が綿(ふとん)屋、印刷屋、その先の曲がり角が自転車屋、それから先は白銀町の坂道となる。(この坂が「瓢箪坂」と云う事を最近立てられた標で知った)――
 反対側は、関東大震災の時に避難した、現在の白銀公園を角にして、端から大弓場撞球場、俥屋(人力車の溜り場)と、今では滅多に見られない商売屋が並んでいた。
 店に向って右側には八百屋、煙草屋、それに向かい合って酒屋、クリーニング屋等とごく平凡な店屋が続いて神楽坂通りへと出る。
 これらの店屋は戦争後はどうなったか、成金横丁へは戻って来なかったようである。その後はいったい何処へ行った事であろうか。
 震災後代替りした隣の写真館の御主入は、慶応義塾出身の人望のある方で、戦争中は町会長として活躍され、この成金横丁のためにも尽された。この家の人達とは家族ぐるみのお付き合いで、殊に姉妹のように仲よくしていたお嬢さんの啓子さんとは今も時折来店されると、その頃の思い出話が尽きない。
 成金横丁は向こう三軒両隣ばかりではなく、横丁全体がまるで一軒の家のように親密に付き合っていた。戦時中はお互いに仲よく助け合って防空訓練に励んだ事など懐かしく思い出される。
 遡って、大正時代の事であるが、両親が云い争っている声を夜更けの静けさの中で聞きつけて、隣の屋根伝いに物干から仲裁に来てくれた話、又、自転車屋の御主入が二号さんを囲った時、近所の主婦達が本妻擁護に立ち上り、遂にはその御主人が円満に家庭に戻った話等、思い出しても微笑ましい。
 春秋のお彼岸はもとより、普段でも何かとこしらえては配り、到来物があればお福分けしたり、近頃では無理な風習ではあろうが当時の細やかな人情は懐かしい。
 関東大震災の後など、しばらくの間、毎年九月一日には「大〆」でおにぎりの炊出しをして、近所の主婦や娘さん達が大童茶飯のおむすびを配ったりしたものだった。
 戦後は町名も神楽坂六丁目と変ったが、通寺町の頃のような親しみが涌かない。通寺町こそ、この成金横丁に適わしい町名と思うのだが……
 成金横丁は成金通りと格上げしたが、人々の口にも上らないこの頃である。

神楽坂通り 戦前の神楽坂通りという名称は現在の「神楽坂下」の交差点から「神楽坂上」の交差点の間、つまり「神楽坂1~3丁目、上宮比町(現在の4丁目)、肴町(現在の5丁目)」が本当の神楽坂通りで、通寺町(現在の6丁目)は神楽坂通りではなく、普通は早稲田通り(矢来下通り、通寺町通りなど)だと考えていました。
逼塞 ひっそく。江戸時代に武士や僧侶に科せられた刑罰。門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。落ちぶれて世間から隠れ、ひっそり暮らすこと。
名を付けた これは1説。もう1説は「以前この通りにあった駄菓子屋『成金』からと云われています。廃業したのは戦後」から。しかし、もし加藤八重子氏がいれば、この説明はわからないと答えるでしょう。もう1説のほうは、どうも間違いではないかと考えています。
しもたや 仕舞屋。商売をしていない家。
大〆の店に向って左から 大〆の東側から。
弓場 ゆば。ゆみば。弓の練習をする所
撞球 どうきゅう。ビリヤード。玉突き。
俥屋 車宿。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
酒屋 地図の「スタンド」は「カウンターで飲食させる店」。そこで酒屋はスタンドになると考えています。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

到来物 いただき物。他から贈ってきたもの。
お福分け おふくわけ。祝いの品や人からもらったものを他の人に分けること
大童 おおわらわ。一生懸命に。夢中になって。
茶飯 茶を入れて炊いた飯。
通寺町 神楽坂六丁目と同じ。終戦後の昭和26年に改名は変更。