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神楽坂|紅谷(昔)

文学と神楽坂

紅谷
紅谷

昔の紅谷。現在は「くすりの福太郎」

 現在「くすりの福太郎」がある神楽坂5丁目に菓子屋「紅谷」がありました。地図はここです。
紅谷。藤森照信など「幻景の東京-大正・昭和の街と住い。写真集」。柏書房。1998年

紅谷。藤森照信など「幻景の東京-大正・昭和の街と住い。写真集」。柏書房。1998年


「紅谷菓子店神楽坂支店」の創業は明治30年(1897年)。1945年の戦災で焼失するまで営業を続けました。本店は「小石川安藤坂紅谷」で、嘉永年間の創業。経営者は小川茂七。
 和菓子屋から洋菓子に転じ、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホール、大震災後は喫茶店でした。
 2階は喫茶店でいつでも女学生が集まる場所で、当時流行の「紅屋の娘」はこの紅谷を歌ったものといわれています。昭和4(1929)年、日活は『東京行進曲』の主題歌としてレコードを発売し、B面に入っていたのがこの曲でした。

    紅屋の娘

1 紅屋で娘の いうことにゃ
  サノ いうことにゃ
  春のお月様 うす曇り
  トサイサイ うす曇り
2 お顔に薄紅 つけたとさ
  サノ つけたとさ
  私も薄紅 つけよかな
  トサイサイ つけよかな
3 今宵もお月様 空の上
  サノ 空の上
  一はけさらりと 染めたとさ
  トサイサイ 染めたとさ
4 私も一はけ 染めるから
  サノ 染めるから
  (たもと)の薄紅 くださいな
  トサイサイ くださいな

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(丸ノ内出版社、昭和8年)によれば

 日本菓子の老舗(しにせ)、山手一と云つても(むかし)は過褒でなかつた店です。階上喫茶部(きつさぶ)、しるこや甘いものもあり、この邉で一(ばん)安心(あんしん)して行ける上に、内部の設備(せつび)もよいので坂一の人氣ものとなつて居り、(わか)い學生、女學生、家族連れで夜は(とく)に大入りです。お隣りに獨立(どくりつ)したパーラーも落着いてゐて、大學生逹のよいたまりになつてゐます。ランチ、パン、喫茶(きつさ)(とう)、お隣の日本菓子に對しこゝは洋菓子(やうくわし)も賣つてゐます」

 1927(昭和2)年、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」で加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』では

 紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

 岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」で岡崎弘氏は

「紅谷」の切りさんしょもおいしかった。菓子は(店頭に)飾ってなくて、生菓子をくださいというと適当にやってくれて。その後ハイカラになってバナナを揚げたりお菓子にしたりして、で、二階を喫茶にして。
「紅谷」のヒデちゃんとは、戸山の方に二度くらい遊びに行つたな。次男坊は「折屋」のエイちゃんと同級生だから、仲がよくってさ。「紅谷」さんの娘さんがお嫁に行くときなんぞは、「折屋」の親父さんが仲人で、とても盛大だったよ。「紅谷」は安藤坂だかが本店で、こっちは隠居仕事だったんだけど、当たっちゃって。

切り山椒 和菓子。糝粉しんこに砂糖とサンショウの汁や粉を混ぜて蒸し、細長く切ったもの。

 また矢田津世子氏『神楽坂』では昭和10年頃の神楽坂が出てきます。

 お詣りをすませて毘沙門を出てきたところを、「あら、お初っちゃんじゃないの」と声をかけられた。小学校の時仲好しだった遠藤琴子だとすぐに気が付いた。小石川の水道端に世帯をもってからまだ間がなく、今日は買物でこちらへ出てきたのだ、という。紅谷の二階へ上って汁粉を食べながら昔話がひと区切りつくと、琴子は仕合せな身上話を初めた。婿さんの新吉さんは五ツちがいの今年二十八で申分のない温厚な銀行員。毎日の帰宅が判で押したように五時きっかりなの。ひとりでは喫茶店へもよう入れないような内気なたちなので、まして悪あそびをされる気苦労もなし、何処へ行くのにも「さあ、琴ちゃん」何をするのにも「さあ、琴ちゃん」で、あたしがいないではからきし意気地がないの。まるで、あんた、赤ん坊よ。――と、いかにも、愉しそうな話しぶりである。それに惹きいれられて、お初が琴子の新世帯をああもこうも想像していると、
「お初ちゃんはどうなの?」
ときかれた。
「ええ、あたし……」
と云うたなり、うまく返事が出てこない。それなり俯向いて黙りこんでいると、お初の髪あたまから履物まで素ばしこく眼を通していた琴子は、ふっと気が付いたように時計をみて、
「もう、そろそろ宅の戻る時間ですから……」
と、別れを告げた。
 紅谷の前に立って琴子のうしろ姿を見送っていたお初は何やら暗い寂しい気もちになって今にも泣きたいようである。仕合せな琴子にくらべてわが身のやるせなさが思われる。どんな気苦労をしてもいいから、自分もまた琴子のように似合いの男と愉しい世帯をもってみたいものだとつくづく思った。

 紅谷は昭和20年5月、第2次世界戦争の空襲で全焼し、なくなりました。