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紅皿と道灌|山吹の里

文学と神楽坂

 佐藤隆三氏の『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)に書かれた「紅皿塚」です。この本を書いた昭和6年には、氏は東京市主事でした。

     紅  皿  塚    附 山吹の乙女
 紅皿の墓と云ふのが89年前東大久保天神前24番地大聖院の境内で發見せられた。墓は本堂の北手にあって、高さ三尺四寸二尺七寸厚さ三寸許り板碑で、幾春秋の雨風で、表面の文字は殆ど摩滅し、僅に碑面の梵字の形が、朧げに見える許りである。この紅皿と云ふのは、太田道灌山吹の花を示した彼の山吹の乙女のことで、之れにはこんな傳説がある。
 應仁元年細川勝元山名宗企京師に兵を舉げ、兩軍相戰ふこと五年に及んだ。之れが爲京洛中洛外兵火を蒙り、社寺・邸宅・民家殆ど全きものなく、兩軍の軍勢27萬と稱し、古今未曾有の大亂であった。之れが卽ち應仁の亂で「📘なれや知る都は野邊の夕雲雀、あがるを見ても落つる涙は」とは、當時京都の荒廢を詠んだ歌である。この亂が全く鎭定する迄には11年を要し、京の疲弊その極に達した。公家町人を始め多くの人が、この亂を厭うて他國に逃れし者のうちに、武蔵國高田の里に、妻と娘を連れ、難を避け佗住居して居る侍があつた。妻が病死したので、彼は娘を相手に淋しく暮して居つたが、世話する者があつて、附近の農家の後家さんの所へ娘を連れて、入夫の身となった。スルト間もなく女の兒が生れたので、彼の妻は自分の生みの子を愛し、連れ子を虐待する事が多かつた。二人の娘が成長するにつれ、姉は頗る美人で、京生れの優美なるに、妹の方は夫れに反して貌形醜くかつたので、里人は姉を紅皿、妹を缺皿と呼びならはしてゐた。紅皿は何事も人並優れてゐたが、畑うつ業が出来ぬと云ふので、母は何かにつけ継子扱ひにした。然し紅皿は母に逆ふ事なくよく働くので、村の評判娘であり、また都雅たる美貌の持主であつた。
 ある春の末頃、太田道灌は家來を建れて、高田の邊りに狩に出かけ、彼方此方を狩をしてゐると、俄雨が降つて來たので、を借りようと近くの百姓家に行つた。其の時美はしき乙女が、庭先の山吹の花を一枝折つて、恥しさうに差出したのが、この紅皿であつた。道灌はその意を悟り得ずして、乙女の顔をつく/”\と打眺め、狂人ではないかと考へた。間もなく雨も止んだので、城に歸り、老臣にその話をした。老臣の内に中村治部少輔重頼といふ和歌に堪能な者があつて、夫れは兼明親王が、小倉の山荘で詠まれた歌で、後拾遺集に「📘七重八重花は咲けども山吹の、みの一つだになきぞ悲しき」と云ふのがある。蓑のなき事を古歌の意を假りて示したものだと云ふのであつた。それを聞いて道灌はいたく恥らひ、早速歌道に志し、逡に歌人としても名を知らるるに至うた。
 道灌は、物言はぬ一枝の山吹に心動かされ、紅皿を呼出して、遂に物言ふ花となし、歌の友として深く之を愛した。道灌を文武兩道を具備せしめたのは、實にこの紅皿の援助に依る處が多つた。文明十八年七月説に依り、道灌相州糟ヶ谷に於て歿し、共の後紅皿は剃髪して浄照清月比丘尼と稱し、道灌の菩提を懇に弔つてゐたが、明應二年七月二十一日遂に遺灌の後を追つて、永き眠りについた。

📘君はわかるのか。都は焼け野原になった。夕ひばりよ。舞い上がるこの姿を眺めているが、涙はこぼれるばかりだ。
📘七重八重と咲く山吹は、実の一つもなく、わが家でも蓑一つもない。それがかなしい。

紅皿 べにざら。継子で美しい娘紅皿を、継母とその実子の醜い欠皿がいじめるが、結局、紅皿は高貴な人と結婚して幸福になる。
89年前 1842年のこと。天保13年。11代目の徳川家慶将軍。
大聖院 旧番地は東大久保天神前24番地。新番地は場所は変わらず、その名称だけが変わり、新宿区新宿6-21-11(右図)に。天台寺の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。
三尺四寸 約129cm
二尺七寸 約102cm
三寸 約9cm
許り ばかり。おおよその程度や分量を表す。ほど。くらい。
板碑 いたび。平板石を用いたいし塔婆とうば。室町時代に関東で多く建立こんりゅう
梵字 ぼんじ。インドで用いられたブラーフミー文字の漢訳名。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
山吹 ヤマブキ。バラ科ヤマブキ属の落葉低木。八重咲きのものは実がならない。
應仁 応仁。室町(戦国)時代で、1467年から1469年まで。
細川勝元 ほそかわかつもと。1430年~1473年。応仁の乱の東軍総大将
山名宗企 やまなそうぜん。1404~1473年。応仁の乱で西軍総大将。
京師 けいし。みやこ。帝都。「京」は大、「師」は衆で、多くの人が集まる場所
爲京 不明。「いきょう」と読み、意味は「京のため」でしょうか?
洛中洛外 京都の市街(洛中)と郊外(洛外)
兵火 へいか。戦争によって起こる火災。戦火。戦争。
全き まったき。完全で欠けたところのないこと。
應仁の亂 応仁の乱。おうにんのらん。応仁元年~文明9年(1467~1477)、細川勝元と山名宗全の対立に将軍継嗣問題や畠山・斯波しば両家の家督争いが絡んで争われた内乱。
荒廢を詠んだ歌 歌人は飯尾常房。いのおつねふさ。通称は彦六左衛門。細川成之に仕え、8代将軍・足利義政の右筆(公私の文書作成にあたる人物)。武将で、仏教に通じ、和歌を尭孝(ぎょうこう)法師に学んだ。出生は応永29(1422)年3月19日。没年は文明17年(1485)閏3月24日。享年は64歳。
鎭定 ちんてい。鎮定。力によって乱をしずめ、世の中を安定させること。
武蔵國 むさしのくに。日本の地方行政区分。令制国。場所は旧中葛飾郡を除く埼玉県、島嶼部を除く東京都、川崎市と横浜市。
高田の里 おそらく東京府北豊島郡高田村でしょう。右図に高田村を。http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/13B0100004.html http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/13B0100004.html
佗住居 わびずまい。閑静な住居。貧しい家。貧乏な暮らし
入夫 にゅうふ。旧民法で、戸主の女性と結婚してその夫となること。婿として家に入ること。
紅皿 べにざら
缺皿 かけざら
畑うつ 畑打つ。はたうつ。種まきの用意のため畑を打ち返すこと
都雅 とが。みやびやかなこと。都会風で上品なこと。
彼方此方 あちこち。あちらこちら。あっちこっち。
俄雨 にわかあめ。急に降りだしてまもなくやんでしまう雨。驟雨しゅうう
 みの。雨具の一種。スゲ、わら、シュロなどの茎や葉を編んで作る。
中村治部少輔重頼 なかむらじぶのしょうゆしげより。扇谷上杉氏の家来とも。
兼明親王 かねあきらしんのう。平安前期の醍醐天皇の皇子で公卿。
小倉 京都市右京区嵯峨小倉山町の小倉山
後拾遺集 後拾遺和歌集。ごしゅういわかしゅう。平安時代後期の第4勅撰和歌集。
いたく 甚く。程度がはなはだしい。非常に。ひどく。
物言わぬ花 普通の花。草木の花。美人は「物言う花」に対して使う
物言う花 美人。美女。
具備 ぐび。必要な物や事柄を十分に備えていること
文明十八年七月 文明18年7月26日は1486年8月25日。この日に太田道灌の暗殺がありました。
相州糟ヶ谷 相州は相模国で、神奈川県の大部分。「糟ヶ谷」はありませんでしたが、「糟屋」はありました。糟屋氏は相模国大住郡糟屋荘(現神奈川県伊勢原市一帯)を本拠とした豪族です。道灌は伊勢原市の糟屋館に招かれ、ここで暗殺されました。
比丘尼 びくに。パーリ語 bhikkhunī、サンスクリット語 bhikṣuṇīの音写。仏教に帰依し出家した女性。尼。尼僧。
菩提 ぼだい。死後の冥福
明應二年七月 1493年8月12日からの一か月

川柳江戸名所図会⑦|至文堂

文学と神楽坂

次は高田から戸山方面へいって見る。

山 吹 の 里

新宿区の戸塚一丁目から、豊島区の高田一丁目へ、神田上水を渡る〈面影橋〉の北詰オリジン電気会社の門前に「山吹の里」と刻んだがある。
 この碑には「貞享三丙寅歳十一月六日」という文字がある。
 貞享3年は、西暦1686年、五代将軍綱吉の時代で、この伝説が、今から300年ぐらい前には、このようなが建てられる程に確立していたようである。
 この辺りは神田上水に沿い、家も散在していたのであろう。もちろん山吹のみならず、いろいろな野草もあったに違いない。大体が原っぱで狩猟地でもあったろうし、この伝説の地としては格好の場所である。
 ただし実は山吹の里とはかなり広く、東南一帯のやや高い方まで指していたのではないかという。「江戸名所図会」では、太田道濯が「一日戸塚金川辺に放鷹す」と記されている。金川は戸山屋敷から出て、穴八幡の前を流れ、曲折して、遂には神田上水に入っていた小川であるから、そうするとずっと東南に当る。
 さて道濯、太田持資は、永享四年(1432)~文明十八年(1486)という人物で、江戸の開祖であるから、東京都庁の前に狩姿の銅像が建てられている。
 持資がある日狩に出て、鷹がそれたので追ってこの辺りまで来たところ、急雨にあい、生憎雨具の用意がなかったので、傍の農家をおとずれ、を所望した。この時一人の少女が、花盛りの山吹の一枝を折取って無言のまま持資にさし出した。持資はその意味が分らず、腹を立てて帰り、近臣にその話をすると中に一人心利きたる者が進み出て、これは簑がなくてご用立てできないことの断りの意味でしょうと言った。

  後拾遺和歌集第十九雑五
   中務卿兼明親王
 📘小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、簑かる人侍りければ、山吹の枝を折りてとらせて侍りけり。心もえでまかり過ぎて、又の日山吹の心もえざりしよしいひおこせて侍りける、返事にいひ遺しける。
    📘七重八重花は咲けども山吹の
       みの一つだになきぞかなしき


📘この詞書は「京都の小倉の家に住んでいたが、雨の日に蓑を借りに来た人がいる。山吹の枝を折って渡したが、理解できず、退出したが、別の日、その訳を尋ねてきたので、この返事を送った」
📘あでやかに七重八重に咲く山吹は、実の一つもなく、それがかなしい。わが家には蓑一つもない。
高田 東京都豊島区の町名。右図を参照。ちなみに、のぞき坂は都内でも急な坂である。
戸山 東京都新宿区の町名。新宿区の地理的中央部にあたる。右図を参照

山吹の里 「山吹の里」は「山吹の里」伝説からでたもので、武将・太田道灌は農家の娘に蓑を借りようとして、代わりに一枝の山吹を渡されたという挿話です。本当にその場所はどこなのか、そもそも伝説は正しいのか、わかりません。

新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編」昭和60年

戸塚一丁目 新宿区の町名。この本『川柳江戸名所図会』は昭和47年に書かれた本です。昭和50年に、新しい住所表示に変わりました。右の地図では①が現在の戸塚一丁目ですが、昭和50年以前には①から⑤まですべてを含めて戸塚一丁目と呼びました。この戸塚一丁目(①~⑤)は戸塚地区では東端に当たります。

高田一丁目 豊島区の町名。一丁目~三丁目に分かれて、一丁目はその南端。山吹の里もここにあります。
神田上水 かんだじょうすい。日本最古の上水道で、水源は武蔵野市井の頭公園の井の頭池。神田・日本橋・京橋などに給水した。明治36年(1903)廃止。
面影橋 おもかげばし。「おもかげ橋」とも。神田川に架かる橋。面影橋の西には曙橋、東には三島橋がかかる。
北詰 北側と同じ。
オリジン電気会社 オリジン電気会社は現在移転した。何かを建築中
 記念で文字を刻んだ石。いしぶみ。
貞享三丙寅歳 貞享三年は1686年。丙寅はひのえとら。
綱吉 とくがわつなよし。徳川綱吉。江戸幕府の第五代将軍。在職は1680年から1709年まで。生類憐みの令を施行し、元禄文化が花開いた。
山吹 バラ科ヤマブキ属の落葉低木。八重咲きのものは実がならない。
江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主の斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代が、名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪の絵を加えて解説。
太田道濯 室町時代中期の武将。長禄元年 (1457) 、江戸城を築いて居城とした。
戸塚 以前は戸塚村で、町になり、昭和7年、淀橋区になると、戸塚村は戸塚一丁目から四丁目までと諏訪町に変わりました。
金川 かに川とも。現在は暗渠化。水源は都保健医療公社大久保病院の付近の池。日清食品前、新宿文化センター通り、職安通り下、戸山ハイツ、馬場下町、穴八幡宮、早稲田鶴巻町を流れ、西早稲田の豊橋付近で神田川に合流。写真は落合道人(Ohiai-Dojin)の「金川(カニ川)の流域を概観してみる。」https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-10-21から

放鷹 ほうよう。放鷹。鷹狩たかがりをすること。
戸山屋敷 尾張藩徳川家の下屋敷だった。現在は戸山公園、都営戸山ハイムアパート、戸山高校、東戸山小学区、早稲田大学文学部、国際医療研究センター、国立感染症研究所などに。左図は東陽堂の『新撰東京名所図会』第42編(1906)から。

東陽堂『新撰東京名所図会』第42編

穴八幡 東京都新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。1728年(享保13年)、八代将軍徳川吉宗は疱瘡祈願で流鏑馬を奉納した。右図では赤い四角。なお、楕円は戸山屋敷にある湖「大泉水」。

開祖 初めて一派を開いた人。
狩姿の銅像 現在は東京国際フォーラムにある銅像
それた 逸れる。予想とは別の方向へ進む。
 みの。かやすげなどの茎や葉や、わらなどを編んで作った雨具。肩からかけて身に着ける。
心利く こころきく。気がきく。才覚がある。
後拾遺和歌集 ごしゅういわかしゅう。第四番目の勅撰和歌集。20巻。白河法皇下命、藤原通俊撰。1086年成立、翌年改訂。
中務卿 なかつかさきょう。中務省の長官。朝廷に関する職務の全般を担当。
兼明親王 かねあきらしんのう。醍醐天皇の第十六皇子。
小倉 京都嵯峨の小倉山付近
侍り はべり。「いる」の謙譲語
心もえ 心も得ず。理解できない。よくわからない。
まかる 地方や他所へ行く。許可を得て、宮廷や貴人の所から離れる。退出する。
よし 文節末に付いて、詠嘆の意を表す。
いひおこす 言ひ遣す。言ってよこす。

 このように武将が少女にやり込められたというようなことは、川柳子の興を惹き、多くの句が作られている。
  姿見のあたり道濯雨やどり        (四一・34)
 一説に〈姿見橋〉というのがやや北にあったとし「江戸名所図会」もそれに従っているが、実は、面影橋の別名と考えた方がよいらしいという。
  どふれと言て山吹折て来る        (三九・14)
  少々こもでも能と太田いゝ      (明六宮3)
  御返事に出す山吹無言也         (三八・23甲)
  武蔵野て山吹を客へ出し        (五一・27)
  やさしさなひ花を折て出し      (三七・6)
  傘の山吹くんで出し          (五一・29)
  騎射いやしからざる申訳       (一二七・89)
  賤心有て山吹見せるなり         (四三・9)
 小倉百人一首、紀友則の歌「久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」をふまえている。
  娘山吹の花を出してなあに       (天二雀2)
 謎仕立。
  太田わけ是が雨具かヤイ女        (七五・8)
  気のきかぬ人と山吹おいてにげ      (二五・3)
  山ぶきの花だがなぜと太田いゝ      (二二・17)
  どふ考へても山吹初手解せず       (二九・8)
  道濯の紋、桔梗と結んで、
  山吹ヘ濡桔梗傘      (一五三・4)
  ぬれた桔梗へ山吹の花を出し       (二七・7)
  山吹を桔梗へ出したにわか雨       (三三・7)
 その他には、
  山吹を出す頃傘をかつぎ出し       (二六・24)
   簑壱有るとやさしい名立たず     (二八・33)
 成程これは理屈だ。
  どうくわん見づしらず故かさぬなり   (明五仁3)
 成程これももっとも、雨具を借りて返さぬ奴も多い。
  簑より山吹のないつらい事       (三五・40)
 この山吹は金のことである。
  後拾遺の古歌を道濯後にしり       (八二・31)
  さて山吹が気に成ると御帰館後      (一三八・29)

姿見姿見橋面影橋 面影橋と姿見橋は別なのか。下の新宿区の説明では、左の「江戸名所図会」の挿絵のように別々の橋である可能性があるが、おそらく同じ橋だとしています。面影橋,俤橋,姿見橋,俤の橋,姿見の橋
一方、広重が書いた「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(安政四年)では、別の橋が中央右に架かっています。

どふれ 「どうれ」と同じ。「どふれ」とはならず、正しくはないのですが、これ以外はなさそうです。
こも 薦。菰。マコモを粗く編んだむしろ。多くはわらを用いる。
 せん。身分が低い。いやしい。さげすむ。いやしむ。あるいは、自分を謙遜していう語。
なひ なし。無し。
 だん。決定する。決断。
くんで くむ。汲む。水などをすくい取る。系統・流れを受け継ぐ。
騎射 きしゃ。うまゆみ。馬上で行う弓矢の競技。
騎射笠 きしゃがさ。武士が騎射や馬の遠行で使った竹製の網代あじろ編みの笠。
いやしからず 「いやしい」は「身分・階層が低い。下賤だ」
賤心 しずこころ。品が悪い心。洗練されていない心。下品な心。
紀友則 きのとものり。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。
しづ心 「しづ心」は「しづこころ。落ち着いた心」。「しづ心なく」は「落ち着いた心がなく」
太田わけ 「訳」「分け」では意味が通りません。不明ですが、もし「太田わけ」から「田わけ」だとすると、この言葉は「江戸時代に農民が田畑を分割相続したこと」、これから「たわけ」が出てきて、つまり「愚か者」になります。
どふ これも「どう」ではないでしょうか?
道濯の紋 「丸に細桔梗」です。

欠け込む 不明です。建築用語では「部材を接合するために、部材の一部を欠き取ること」。家相学では「家の一部が無い状態」。防水用語では「立上り防水層の納まりを良くするために、下地面にVカットを入れたり、段差を付けたりすること」。「欠く」は「一部分をこわす、備えていない」。「欠けていたが、桔梗の傘をはめ込んだ」。あるいは「駆け込む」(走って中に入る)の意味でしょうか。
どうくわん どうかん。太田道灌と同じ。
山吹 大判・小判の金貨。黄金。色がヤマブキの花の色に似ているから

 さてこのような話には、とかく後日話が尾ひれをつけてつづくものである。そもそもこの草深い地に、このような気の利いた娘がどうしていたかということであるが、一説に、応仁の乱を東国に落ちのびた武士の娘であろうという。その後、道濯は、その才を愛でてこの娘を召し出して妾としたともいう。
 またこの娘には母親がなく、父が迎えた後妻の腹に妹が生れた。そこで母親が、この娘の名であった「紅皿」というのを妹の名とし、この娘には「欠皿」という名を与えたという。またこの紅皿の碑が大久保の大聖院(西向天神)にあり、古文書も見出されたそうで、道濯の死後尼となり余生を送ったことになっているそうである。
 さて、その後の道濯は、
  山吹の己後簑箱を持せられ        (五四・14)
 と用意周到となる。
 大体道濯はそもそも一介の武弁ではなく風流の道も心得ていたのだが、一般にはこの山吹の一件で開眼されたということになっている。
  づぶぬれに成てかへると哥書ヲかい    (一七・3)
  風流の道を鷹野の雨で知り        (七五・35)
  雨やどりまでぶこつな男なり      (二〇・16)
  雨舎りから両道な武士となり       (筥二・39)
というような句もある。
応仁の乱 おうにんのらん。室町時代末期、継嗣問題に端を発し、東西両軍に分れ、応仁1年から文明9年(1467~77) までの11年間、京都のみならず、ほぼ全国で争った内乱。
紅皿 べにざら。紅皿欠皿は昔話で、継子いじめの話。先妻の娘を紅皿、後妻の娘を欠皿といい、紅皿は奥方になる。
欠皿 かけざら
大聖院 西向天にしむきてん神社。新宿区新宿6-21-1。以前は新宿区東大久保2-240と書いていた。碑は中央部がえぐられていて詳細は不明
己後 いご。以後。これから先。今後。
簑箱 「みのはこ」と読むのでしょう。簑を入れる箱。
哥書 かしょ。「哥」は「歌」の原字。和歌の本でしょう。
ぶこつ 無骨。武骨。洗練されていない。無作法。
両道 りょうどう。二つの方面。二道。「文武両道」
筥二 柳書「筥柳」の二(天明4年)の略

 道濯の歌として伝えられるものに、
 📘置かぬもありけり夕立の
     空より広き武蔵野の原
 📘わがは松原つゞき海近く
     富士の高嶺を軒端にぞ見る
 📘急がずば濡れまじものを旅人の
     あとより晴るゝ野路の村雨
 この最後の歌をもじって、
  山吹の後濡れまじものとよみ      (三八・2)
  黒路の村雨山吹ののちにはれ        (四一・33)
  夕立にぬれぬ古歌を知たやつ       (三六・35)
  晴間を待古歌を知る雨舎       (四一・36)
 また後世、対比の面白さをねらった句が出て来るが
  和漢の雨舎持資始皇          (筥二・27)
  松ぬらさず山吹ずぶぬらし       (二九・13)
  松はしのがせ山吹はぬらす也        (三七・6)
 秦の始皇帝が泰山を下った時、風雨に襲われ、松の木蔭に避け、其徳により、松に五太夫の位を与えたという故事がある。
  文武の雨舎資朝持資          (二八・12)
 徒然草第一五四段、日野資朝が東寺の門に雨を避け、片輪者を見て帰り、庭の盆栽の類いを取り捨てたという。
  夕顔官女山吹おしやらく        (二九・4)
  夕顔は源氏物語夕顔巻で、直接ではないが、花が扇にのせてさし出される。この夕顔という女を官女というのはちとおかしいようでもある。
  梅山吹は文と武に手を取らせ       (二六・10)
 梅は安倍宗任のことであろうか。

📘雨が降っていないところもある。夕立の空よりも武蔵の野は広大だから。
📘私の小さな家は松林が続き、海の近くで、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる。なお、「わが庵」は江戸城ではないでしょうか。
📘急がなければ、濡れなかったのに。野原の道でにわか雨は旅人のあとを追って晴れていく。

 晴れた朝に草の上などにみられる水滴。
村雨 むらさめ。強く降ってすぐ止む雨。にわか雨。降り方が激しかったり、弱くなったりする雨。
軒端 のきば。軒の端。軒の先端。
黒路 不明。「こくろ」「くろろ」で検索しましたが、ありません。
持資 太田左衛門大夫持資もちすけで、太田道灌どうかんと同じ。
始皇 始皇帝。しこうてい。中国、秦の初代皇帝。前221年、中国を統一して絶対王制を敷いた。郡県制の実施、度量衡・貨幣の統一、焚書坑儒による思想統一、万里の長城の修築、など事績が多い。しかし、急激な拡大と強圧政治に対する反動のため、死後数年で帝国は崩壊。
しのがせ 凌がせる。「凌ぐ」は苦痛や困難に屈しないで、耐えしのぶ。苦難を乗り越える。
泰山 たいざん。中国山東省済南市の名山。五岳の一つ。
資朝 日野資朝。ひのすけとも。鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に登用、討幕計画を進めたが、幕府側にもれて、佐渡に流罪、のち斬首。
官女 宮中や将軍家などに仕える女
おしやらく おしゃらく。御洒落。おしゃれ。おめかし。
夕顔 源氏物語の作中人物。三位中将の娘で、頭中将の側室。若い光源氏の愛人となるが、互いに素性を明かさぬまま、幼い娘を残して19歳で若死。佳人薄命の典型例
安倍宗任 あべのむねとう。平安時代中期の武将。奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤。貴族が梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」(私の故郷にもあるこの花は、我が故郷では梅の花だと言うのだが、都人は何と呼ぶのだろう)と見事な歌で答えました。