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牛込氏についての一考察|②牛込氏の牛込移住

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)を読んでいきます。②と③の問題は「大胡氏」はいつ名前を「牛込氏」に変え、住所を「群馬県大胡地域」から「神楽坂」に変えたのか、です。

  2 牛込氏の牛込移住
 牛込氏の先祖は、群馬県勢多郡おおの大胡城に住んだ大胡氏である。大胡氏は、藤原秀郷の後裔(牛込氏系図)と称し、大胡を領していたので大胡氏と称したが、大胡重行の時に北条氏康の招きで牛込に移住したという(『寛政重修諸家譜』)。そしてその移住年代を『日本城郭全集』(新人物往来社刊)では、天文6年(1537)前後と推定している。
 しかし、南北朝が合体した明徳3年(1392)には、すでに大胡には大胡氏はいなかったと見られている(『新宿区史』)
 その10年後の応永9年(1402)に、大胡氏が牛込に勧請したという赤城神社に奉納した大般若経の写経が、後述するが別当寺であった神楽坂のぎょうがん(明治45年7月、品川区西大崎4-780に移転)に所蔵されていた(『江戸紀聞』)。その一巻は、郷土研究家一瀬幸三氏宅に渡って所蔵されている。それからみると、遅くとも応永9年には赤城神社があったのだから、その勧請者である大胡氏が牛込に来ていたことになる。
 そこで、大胡氏は室町時代初期には牛込に移り住んでいたものと思われる。大胡氏は、大胡で牧場経営をしていたのではあるまいか。それで牛込の牧場管理のため、江戸の上杉氏の命で牛込に移住したのではあるまいか。

勢多せた郡大胡町 平成16年(2004年)12月以降は「前橋市大胡町」に変更
大胡氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国大胡を領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

 つまり、姓は足利氏から大胡氏に変わったのは重俊氏、大胡氏から牛込氏に変更したのは勝行氏、住所の大胡地域から牛込地域に変えたのは重行氏の時と、寛政重修諸家譜では考えています。

藤原秀郷 平安中期の武将。平将門の乱を平定し、下野守・武蔵守となる。百足むかで退治の伝説で有名。生没年未詳。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
 1543年から77を引くと生年は1466年(寛正7年)でした。

新宿歴史博物館 常設展示解説シート 大胡氏が牛込に居住したのは、勝行の時代からで、勝行が重行の跡を継いで姓を「大胡」から「牛込」に改めた可能性が高いのではと思われます。重行を牛込重行と記したのは「牛込」という地名を指しているからで、本来は大胡を名乗っていたのでは、との指摘もありますが、勝行の時に、大胡氏が牛込氏の遺跡ゆいせきを継いだと考えるのがスムーズかと思います。『寛政重修諸家譜』の成立は、寛政年間(1789~1801)と後世になり編纂されたものなので、時代を遡れば遡るほど、信憑性に欠けてききます。そのため、『寛政重修諸家譜』を疑いの目で見てみました。

寛政重修諸家譜」から。
重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす。
勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲。

 下図「江戸名所図会」は江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌です。ここでは「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したと書かれています。しかし、「重泰」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。以下は「江戸名所図会」です。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏の第4代。晩年、豊臣秀吉に小田原城を包囲され、敗れて切腹。[1538~1590]
日本城郭全集 日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。

天文6年(1537) 戦国時代。将軍は足利義晴で、室町幕府の第12代征夷大将軍。
明徳3年(1392)には……(『新宿区史』) 『新宿区史』(新宿区役所、昭和30年)の126頁では……
明徳4年(1393)には大胡の地は上杉氏の所領となつており、大胡上総入道跡とゆう書様から推すと、大胡の地には大胡氏は居なかつたように感ぜられる。若しそうとすれば牛込助五郎が史上に明文を見る大永6年〔1526〕までは何処にいたかと云うことになるが、この間の牛込氏の動向は史料を失いていて分らない。「米良文書」に「牛米てんきう」なるものが見えるが牛込氏との関係は不明である
書様 かきざま。書いたもののようす。かきよう。字や文章の書きぶり。
牛込助五郎 牛込重行です。(参照は「牛込氏文書 上」戦国時代)
明文 はっきりと規定されてある条文。わかりやすく筋の通った文章。
米良文書 めらもんじょ。熊野三山のうち那智大社に伝えられた古文書で、鎌倉期から室町期までのものが多い。

 また、赤城神社社史では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

 1555年は天文24年=弘治元年の牛込勝行氏です。
 なお、繰り返しになりますが、「大胡彦太郎重治」は牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。
大般若経の写経 「江戸紀聞」の記載から「松原讃岐守入道妙讃大般若六百巻を書写として赤城の神祠に奉納にて応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日おさむ」

江戸紀聞

江戸紀聞 えどきぶん。江戸時代の地誌。
室町時代初期 色々な考え方がありますが、文化庁重要文化指定目録の基準によると、応永時代~嘉吉時代(1394~1443)だそうです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|①はじめに

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の①です。

  1 はじめに
 武州牛込氏については、『新宿区史』(昭和30年・新宿区役所編)に書かれているが、総合的に考察されていないし、史料が少ないので、まだ不明な点が多い。そこでここに牛込氏についての一考察をのべて今後の研究課題としたいので、諸賢のご批判ご指導を賜りたい。

 これで①は終わりです。あとは「武州牛込氏」と「新宿区史」を説明すればいいのですが、「新宿区史」の説明は長く続きます。

武州牛込氏 武州の別称は武蔵国で、これは東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。「武蔵国にいた牛込氏」「武蔵国牛込氏」などと同じ。
新宿区史 牛込氏については「新宿区史:区成立30周年記念」23頁から25頁までに出てきます。「総合的に考察されていないし、史料が少ない」と書かれていますが、確かに、新宿区の室町幕府〜戦国時代の史料は現在でも少なく、増やせないし、「総合的」な考察もありません。しかし、牛込関係は少なくても、書籍一冊の「新宿区史」は十分に分厚くなっています。では「新宿区史」の牛込関係を見てみましょう。

 鎌倉時代の新宿区は、近くの府中に武蔵国の国衙があり、留守所がおかれていたし、江戸・豊島・葛西氏などこの地方に分布した豪族との関係が深かったものと思われるが、具体的な史料はない。市谷冨久町の自証院に残された高さ1.2メートルの板碑に、弘安6年(1283)6月の造立年月日が記されているのが最古の記録で、区文化財の指定を受けている。しかし、こうした碑が残されていることは、この時代、かなりの財力をもった豪族が、この地域と関係をもっていたことを示しているだろう。
 さらに、正安2年(1300)、現在牛込にある赤城神社が早稲田の田嶋の森(後の元赤城、現在の鶴巻町)に祀られたという社伝も残されているが、史料としては、暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏から芋茎郷名上げ、替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えたことを示すものが残っている。これによれば牛込郷は荏原郡に属していたことが判る。この文書は『牛込家文書』といわれ、牛込、日比谷、堀切、177貫余の所領を本貫とし、牛込袋町に居館を構えた牛込家伝来のもので、内容は江戸氏宛の7通と、牛込氏宛の11通、大胡氏宛2通、牛込七ゕ村宛1通、加藤系図写1通からなっており、牛込氏の由来については、上野国大胡城主大胡重行が天文年間(1532~55)北条氏康の招きで牛込に移ったと、「牛込系譜」に記してある。牛込氏と改めたのは天文24年(1555)のこととある。大胡氏が牛込に移った年代は、史料的には矛盾があり、同じ『牛込家文書』の後北条氏印判状写をみると、大永6年(1526)10月、北条氏綱から牛込助五郎宛に日比谷村の陣夫・夫役の徴用権を与える旨が記されていて、年代の遡りがみられる。『新編武蔵風土記稿』には大湖重行の父重治の代に牛込に移ったとも書かれている。また牛込姓も、系譜にある天文24年以前にすでに称していたようで、古い記録が紛失しているためもあり、明確ではない。牛込氏はその後徳川時代には旗本となり、明治維新には徳川家とともに駿府へ移ったが、何年かののち再び東京に戻ってきた。(暦応3年の文書他の場所に詳細があるので省略)
 後北条氏と牛込氏との関係を示す史料としては、『小田原衆所領役帳』があるが、この帳簿は後北条氏所領内の知行主(給人)を衆別(職種や地域別)にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を書きあげたもので、いわば後北条氏の租税台帳にあたるものである。この帳簿の江戸衆のところに、牛込氏について次のように記されている。
 一、大胡
 六拾四貫四百卅文  江戸牛込
 六拾七貫七百八拾文 同 比々谷本郷
 四拾五貫文     葛西堀切
  此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役
  以上 百七拾七貫弐百十文
   此内八拾弐貫弐百拾文ハ   御赦免有御印判
    此内七捨弐貫五百文  知行役辻半役共
   以上
 この記述で役高の合計が177貫余で、知行役高は72貫500文として登録されていたことが判るが、この役高は他の知行主の平均が50貫前後であったのに比べると、かなり大きいものといってよい。

 これでおしまいです。「新宿区史」の話は江戸氏と太田道灌氏に移っていきます。

武蔵国の国衙 各令制国の中心地にこくなど重要な施設を集めた都市域は「国府」、その中心となる政務機関の役所群は「国衙」、その中枢で国司が儀式や政治を行う施設は「国庁」(政庁)。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の政治中心地「国府」は府中市に置かれた。「衙」は、つかさ、天子のいる所、宮城。
留守所 るすどころ。平安後期以降一般化した地方行政を担う在地の執務機関。
田嶋の森 田島森。新宿区早稲田鶴巻町568にあり、島に似た土地と沼地があるので「田島の森」と呼びました。
暦応3年 鎌倉公方の足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷の替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えた。これは「高師冬奉書」暦応3年8月23日の手紙です。

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

鎌倉公方 室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。
足利義詮 あしかが よしあきら。室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。
執事 室町幕府の将軍と鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職
高師冬 こうのもろふゆ。南北朝時代の武将。
芋茎郷 いもぐきごう。現在は「埼玉県加須市芋茎芋郷」です。
名上げ 「名」には「きこえ、てがら」の意味があり、「名が上がる」には「名声をあらわす、有名になる」という意味があるようです。「牛込家文書」は芋茎郷に何が起こって、何が起こる予定なのか等について全く触れていません。
上野国 こうずけのくに。群馬県域の古代国名。
大胡城 群馬県前橋市河原浜町の城。築城は天文年間(1532年〜1555年)、廃城は元和2年(1616年)。
牛込系譜 「牛込氏系図」です。

牛込氏系図」(牛込区史、昭和5年)

後北条氏印判状写 大永6年10月13日の「北条家朱印状写」です。

「北条家朱印状写」大永6年10月13日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

牛込助五郎 牛込重行です。
新編武蔵風土記稿 大湖重行の父重治の代に牛込に移ったと書いてあります。

 また、赤城神社社史では

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています

 さらに重泰の代に牛込に住んだというものもあります。例えば「江戸名所図会」です。これは江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌で、赤城明神社の説明のところで、「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したのです。なお「重治」も「重泰」も牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

後北条氏 日本の氏族で、本来の氏は「北条(北條)」だが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」「相模北条氏」とも呼ばれる。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年