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光照寺(写真)昭和27年頃 ID 9496

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496は、昭和20年代後半、こうしょうを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496 光照寺

 光照寺は、新宿区袋町の浄土宗の寺院で、増上寺の末寺。正式には樹王山正覚院光照寺といいます。
 手前の車道の舗装、参道の敷石はいずれもかなり荒れています。
 左手に文化財の木札があります。残念ながら本文は読めません。

新宿区文化財
史跡
 牛込城址
(不明)
昭和二十七年

新宿区役所

 ちなみに1972年(昭和47年)9月21日に田口重久氏は「歩いて見ました東京の街」のなかで写真を撮っています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-1

 20年を経ていますが塀や敷石、門柱は同じもののようです。新宿区の木札はより詳細な説明になりました。現在は、すべて一新されています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-2

旧跡 牛込城
 牛込氏の居城地は袋町北部の大部分であるが、大切な部分は光照寺境内である。
 戦国時代の天文6年(1537)前後のころ、小田原の北条氏は群馬県赤城山ろくの大胡城主大胡重行を招き、牛込に住わせた。大胡氏はここに牛込城をつくって住むことになったが、城といっても大勢の家来と住む平山城の居館地であったろう。
 その規模は西は南蔵院に通じる道、北は都電通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は境内南の崖で、舌状半島の台地の尖端部である。大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる道にあった。牛込家の居館は光照寺境内北部にあったようである。
 大胡重行の子勝行は、天文24年(1555)正月6日に姓を牛込と改め、小田原氏の重要家臣となり、赤坂、桜田、日比谷あたりまで領していたが、北条氏が滅亡したあとは、徳川家の家臣となり、館は廃止された。今の光照寺は正保2年(1645)神田から移転したものである。
  昭和43年1月
新宿区

私のなかの東京|野口冨士男|美観街②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年、1978年)の②です。
 魚肉ぎらいの私は肉食しかできないが、近年はスナックばやりで、そんな私ですらうっかりコーヒーをのみに入ると店内に肉料理の臭気が充満しているために、コーヒーの香気をそがれて辟易する場合がある。つとめて専門店へ入るようにしているのはそのためで、神楽坂へ出ると私が立ち寄るコーヒー店は二軒ある。坂の登りかけの左側にあるパウワウ(伝票には「巴有吾有」とある)には法政大学や東京理大の学生が集まるらしく、時によってびっくりするほど美しい女子学生が、セブンスターなどを指にはさみながら一人で文庫本を読んでいることがあるが、不思議なほどジーンズ姿を見かけない。
 地下鉄東西線の神楽坂駅で乗降するとき立ち寄る赤城神社前の珈琲園という店には、学生よりOLのほうが多いせいもあるが、そこでもジーンズには出くわさない。
 神楽坂は、そんな街である。
 余談ながら、昨年(昭和五十二年)築地の新喜楽で催された文藝春秋の忘年会に出席したとき、酌をしてくれた新橋の若い芸者さんは生家が神楽坂の芸者屋だということであったから、自宅へ帰るときにはどんな服装をするのかと訊いたら、ジーパンだと応えていた。現在では新橋芸者のジーパン、相撲のトレパンがすこしも奇異ではない。むかしは、着物の着こなしで商売女か素人娘かすぐわかったものだが、いい時代になった。また、それだけ現代小説が書きにくくもなった。
 東京地図出版株式会社版のミリオン・レジャーガイド『東京のみどころ』によれば、≪通り(早稲田通り)は午前、午後で一方通行が逆になるという都内でも珍しい逆転方式一方通行路になっている≫とのことで、朝寝坊の私は午前中の様子を知らなかった。午前中は坂上から坂下へ、午後はそれが逆になるわけで、さいきん坂下から行けば中腹の右側にある化粧品店さわやと、Lサイズの婦人服店L・シャン・テのあいだを入った左側にある和風とんかつの和加奈という店で夕食をしながらたずねたところによれば、正午から午後一時までは歩行者天国になるということである。はじめて入った店で、こってりした味の好きな人にはむかないかもしれないが、小さなスリ鉢に小さなスリゴギがついていて、すったゴマにソースを注いで、それをつけて食べるとんかつは、あっさりしていて私の囗に合った。

珈琲園 1975年、東西線の神楽坂駅の近傍で、赤城神社前のコーヒー店は三軒ありました。珈琲園はありませんでしたが、珈琲館はありました。しかし、珈琲館は珈琲園と同じだということはできません。誤植ではありません。
新喜楽新喜楽 新喜楽は東京都中央区築地四丁目にある老舗の料亭。芥川賞・直木賞の選考を行う場所でもあります。
東京のみどころ 『東京みどころ』(東京地図出版、1991年)から引用すると
東京のみどころ 飯田橋駅の新宿寄り出口(神楽坂口)を出て、右へ行くと神楽坂である。明治の頃からの古い繁華街で、坂を登りきった左側にある毘沙門さまの信仰とともに発展してきた。坂は相当な急勾配で、通り(早稲田通り)は午前、午後で一方通行が逆になるという都内でも珍らしい逆転式一方通行路になっている。
 花街はこの通りの裏側にあり、外堀通りと大久保通りに囲まれた一角は飲食店街になっている。
 これで神楽坂は終わりです。量の少なさ。次の「早稲田周辺」の方が書いた量も多いし。1990年ごろの神楽坂を表しているようです。
逆転式一方通行 市ケ谷経済新聞では
「神楽坂がまるごとわかる本」の著書がある渡辺功一さんは「以前の神楽坂通りは対面通行だったが、歩道を作るにあたり車道が狭くなることから一方通行に変わった」と話す。しかし、一方通行にしたことで大久保通りなどは渋滞。当時、朝日新聞の投書欄には大々的に「神楽坂通りの一方通行は不便で困る」との声が寄せられた。これにより、「逆転式一方通行」が誕生。「このような通りは都内では唯一、日本でも唯一と言っていいだろう」と渡辺さん。(「田中角栄」説は本当?-神楽坂「逆転式一方通行」誕生の経緯。市ケ谷経済新聞。2011年02月12日)

さわさ 下の地図では「化粧品さわさ」です。さわや
L・シャン・テ 下の地図では「ランジェリーシャンテ」と書いてあります。ランジェリーは「女性用の下着・肌着・部屋着」「装飾性がある高価な下着類」。「シャンテ」は「歌う」こと。L・シャン・テは左右のビルと後ろの数店舗と一緒になってマンション「ヴァンテ・アン神楽坂」に変わっています。
和加奈 「和風とんかつ和加奈」は、現在は中華の「味角苑」です。味角苑
神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』(1985年)です。美観街
 マダムらしい人に、私がガキのころ神楽坂に住んでいたことがあると告げると、神楽坂には古い店ものこっていてあまり変っていないでしょうと言われたが、戦前どころか震災前の神楽坂すら知っている私には、やはり変ったというおもいのほうが強い。殊に、坂下にも、坂上の以前の都電通り――現在の大久保通りのちかくにも「神楽坂通り=美観街」などという標識が立っているのには、どうしても違和感をおぼえさせられる。美観街などというのは文字面も悪いし、音もきたない。いっそミカンマチとでも読ませたらどうでしょうと、皮肉の一つも言いたくなるほどきたない。

現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も合めて十ニメートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変っていない。

 これは昭和五十一年八月十六日付「読売新聞」朝刊「都民版」の「ストリート・ストーリー」に掲載された『神楽坂』の一節である。なんのことはない、≪都内でも珍しい逆転式一方通行路≫の理由もその道幅のせいだし、戦前には歩道もなかったから両側に夜店が出たわけで、現状からは往年の神楽坂通りがかなり回想しづらくなっている。が、さいわい私は三、四年前に、昭和四十五年三月三十一日発行の新宿区立図書館資料室紀要『神楽坂界限の変遷』の附録として刊行された『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形-』という、縦二十五センチ、横六十五センチ弱の横に長い地図の複写を荒正人から贈られて保存している。そのため、それをみると、いったんうしなわれた記憶が身うちから立ちのぼってくるのを感じる。

美観街 植村峻氏は『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』(2010年)を書き、その中に加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』を紹介しています。まるで写真と間違えてしましますが、一種の版画、神楽坂の銅版画なのです。ここで「神楽坂通り」からその下の「美観街」、さらにその下に4角の看板が付いています。この1番下の看板、夜になると、ネオンや発光ダイオード(赤色はできていました)が見えるのでしょうか? 加藤倉吉氏は印刷局に勤め、紙幣や切手を中心にした凹版彫刻者でした。詳細はここで。

銅版画の『神楽坂』

神楽坂通りの図 現在の神楽坂です。『神楽坂通り』「美観街」の看板がない点、街灯の形が違う点、ケヤキの街路樹が生えている点、電柱はなくなっている点などに違いがあります。神楽坂登り1神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』は、新宿区立図書館資料室紀要『神楽坂界限の変遷』の附録として昭和45年(1970年)に刊行し、以来、このコピーは何度も何度も繰り返し、ここでも同様で、いろいろな本で再発行されています。たとえば新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇(2001年、1500円)などです。