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文壇昔ばなし③|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家でした。ここに出てくる作家の生まれた年は泉鏡花氏が明治6年、里見弴氏は明治11年、谷崎潤一郎氏は明治19年、芥川龍之介氏は明治25年でした。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。

             ○
京橋大根河岸あたりだつたと思ふ、鏡花のひいきにしてゐる鳥屋があつて、鏡花里見芥川、それにと四人で鳥鍋を突ツついたことがあつた。健啖で、物を食ふ速力が非常に速い私は、大勢で鍋を圍んだりする時、まだよく煮え切らないうちに傍から傍から喰べてしまふ癖があるのだが、衛生家で用心深い鏡花はそれと反封に、十分によく煮えたものでないと箸をつけない。従つて鏡花と私が鍋を圍むと、私が皆喰べてしまひ、鏡花は喰べる暇がない。たびたびその手を食はされた經驗を持つてゐる鏡花は、だから豫め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に化切りを置くことにしてゐるのだが、私は話に身が入ると、ついうつかりと仕切りを越えて平げてしまふ。「あツ、君それは」と、鏡花が氣がついた時分にはもう遲い。その時の鏡花は何とも云へない困つた情ない顏をする。私は濟まなくもあるが、その顏つきが又をかしくて溜らないので、時にはわざと意地惡をして喰べてしまふこともあつた。その鳥屋でもさうであつたが、芥川は鏡花が抱き胡坐をしてゐるのに眼をつけて、「抱き胡坐をする江戸ツ兒なんてあるもんぢやないな」と云つてゐた。人も知る通り鏡花は金澤人だけれども、平素江戸ツ兒がつてゐた人である。鏡花の大作家であることについては、芥川も私も無諭異存はなかつたけれども、江戸ツ兒と云ふ感じには遠い人であることにも、二人とも異論はなかつた。

京橋 京橋区。現在は中央区。
大根河岸 京橋から紺屋橋にかけて以前の京橋川河岸。神田多町の青物市場と並び称せられる大きな青物市場があった。図を。

健啖 けんたん。好き嫌いなくよく食べること。食欲が旺盛なこと。
豫め あらかじめ。予め。物事の始まる前に、ある事をしておく。前もって。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。現代語では、改まったときや手紙文などで使われる場合が多い。
意地悪 いじわる。わざと人を困らせたり、つらく当たったりすること。
抱き胡坐 だきあぐら。全く分かりません。あぐらをして、だっこをしているのでしょうか。それとも、火鉢を抱いているのでしょうか。泉鏡花のあぐらの写真を出しておきます。
泉鏡花。あぐらの写真。江戸ツ兒 江戸っ子。江戸で生まれ江戸で育った人。父祖以来東京、特にその下町に住んでいる人。さっぱりとした気風や、歯切れがよいが、けんかっぱやいところなどが特徴。
がっている …がる。そのように思う。そのように感じる。「うれしがる」。そのように振る舞う。そのようなふりをする。ぶる。「強がる」「痛がる」
平素 ふだん。つね日ごろ。

里見弴|私の一日

文学と神楽坂

 里見弴氏の『私の一日』(中央公論社、昭和55年)の「泉鏡花」には、この泉鏡花と徳田秋声の曰く言いがたい関係がもっと細かく書いてあります。

 その話も詳しくさせられるのかい?……厄介だな。……改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細い相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それはに話さなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛あんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。
 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買つてあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになつたがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃へてあつたな。ついでに言へば、床の間の違ひ棚には紅葉の、春陽堂で出した全集がずらつと並べてあつて、その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾つてあり、毎朝、起きぬけにそれに向かつて礼拝するんださうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらつても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。
 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を錮りぬいた「胴丸」つてやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やつぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だつた池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とこのすぢ向かひの有島家の長屋に住んでたこともあつたしね。

改造 大正8年(1919)4月、山本実彦創立の改造社が創刊。大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだ。昭和30年(1955)廃刊。
円本 えんぽん。一冊一円の全集類の総称。1926年(大正15年)末から改造社が『現代日本文学全集』の刊行を始めた。各出版社からも続々と出版された。
源氏五十四帖 源氏物語は全体で五十四巻から構成する。紅葉賀(もみじのが)は第7帖で、光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いたもの。
香の図と紅葉の賀 illust_23-4源氏の香は香を使った遊び。5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものを横線でつなぐ。たとえば「紅葉賀」では右のようになる。泉鏡花は式服の紋に紅葉賀を使っていた。
掛あんどん かけあんどん。家の入り口や店先の柱や廊下などにかける行灯
春陽堂 春陽堂が1890-91年に尾崎紅葉らの作品を収めた叢書『新作十二番』『文学世界』『聚芳十種』を出版し、以後明治期の文学出版をリードした。
初穂 はつほ。古来より神様に祈りを捧げる儀式の際には農作物が供物として奉納された。初穂とは、その年に最初に収穫した農作物。初穂料とは、この初穂(神様に捧げる農作物)の代わりとする金銭のこと
手あぶり 手をあぶるのに使う小形の火ばち
胴丸 火鉢胴丸ではなく、本当は胴丸火鉢のこと。丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。なお、胴丸は鎧の1形式で、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉(引合わせ)する形式のもの。
池田蕉園 いけだ しょうえん。1886年5月13日 – 1917年12月1日。明治、大正の女性浮世絵師、日本画家。
有島 有島武郎、有島生馬、里見弴の3人は横道の東側、麹町区下六番町(現・千代田区六番町三)の旗本屋敷に住み、横道の西側、下六番町11(現・六番町七)には二軒長屋で泉鏡花が住んでいました。
 さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちに……ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか……。紅葉が三十六歳の若死だつたといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片つ端から食つちやつたからな」とかなんとか言つたらしいんだな。それはうそぢやなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすつぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいつた胴丸火鉢をひとつ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのつかつてパッパッパッと殴つたんだとさ。その素早いことと言ったら……。
「泉さんつていふ人は手が早いですなあ」つて、山本がほとほと感心してゐだがね。どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割つてはひつて引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあつた車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり……。その時分、「水際の家」つていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だつたかの待合に連れて行つたんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だつて二十分か三十分はかかるよ。その間ずつと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかつったんだらうし、びつくりもしたんだらう、可笑しいけど、……子供時分からのほんとの友達つて、こんなもんぢやないだらうかね。

すっぱ抜き 隠し事・秘密を不意に明るみに出すこと
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
浜町 中央区日本橋浜町
中洲 中央区日本橋中洲
待合 待合茶屋。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店
 あとになつて、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があつて、「どうかな」つて気もしたんだけど、お客様として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔つたやうなふりをして寝ちまつてさ、……よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だつて、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰つちやう、といふ不首尾でね。にも拘らず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」つてね。実に素直な気持なんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といつたんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合はなかつた。陽のカンカン照つてる往来のまんなかで、ぼくは秋声にどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。
 とにかく、あの二人は生れつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢやない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもつてゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやつてた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になつたといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐつと来たんだらうが、秋声流に、「またいつぱい食はされた」といつた風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだつて、どうしようもない、まあ、フェタルつてやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

九九九会 くうくうくうかい。九九九会は鏡花を囲む会で、1927年(昭和2年)、里見弴と水上瀧太郎が発起人、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集合。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。
秋声が小説に書いている 昭和8年6月、随筆『和解』です。「てくてく牛込神楽坂」では『和解』で見られます。
結句 詩歌の終わりの句。実際には、この随筆は「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んでいた。
フェタル fatal、fatale。致命的な、運命の、運命を決する、宿命的な、免れがたい。Famme fatale(ファム・ファタール)で「宿命の女」

里見弴|二人の作家

文学と神楽坂

 まったくすごい殴打事件でした。たとえば

 殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2478098.html

  ええー、うそでしょう。尾崎紅葉の問題で泉鏡花徳田秋声を殴るなんて。
  でも、ほかの例を見ても同じです。

 秋聲が紅葉先生の死因を茶化したとかいう理由で鏡花が秋聲を殴打する事件などなど、いろいろ確執があってふたりの仲はよくなかったそうです。それでも晩年和解しています。( http://d.hatena.ne.jp/cho0808/20121118/p1 )

 ほんとうなの。やがてわかってきます。嘘が少し大きくなっていくのは仕方ないし、「和解」も「和解」なんだ。それでは、昭和25年、里見弴氏が満58歳に書いた、泉鏡花氏が徳田秋声氏を殴る「二人の作家」の始まりです。

里見弴

里見弴

 二十歳(はたち)(だい)で「白樺(しらかば)」に幼稚な作品を載せ始めたころの私からすれば、徳田秋声も、泉鏡花も、ともにひと干支(まわり)以上年長(としうえ)の、はるか彼方(かなた)鬱然(うつぜん)と立っている大家だった。この二人は、明治初葉に二年違いで北陸の都会に生を()けて、同窓の幼な馴染(なじ)みでもあり、上京後は、当時の小説家の大半を糾合、結束したかの観ある硯友社(けんゆうしや)の頭領で、かつまた読書子の人気の焦点となっていた尾崎紅葉の門下に加わり、一つ(かま)の飯を(わか)ち合った仲でもあったが、作風も人成(ひととなり)も、まるッきり異なったもの、――正反対とも云えるもののように思われたし、そのせいか、永らく交わりが()たれているという(うわさ)にも間違いはなさそうだった。尾崎紅葉が、行年三十七歳という夭折(わかじに)をしたあと、次第に衰退の色を濃くしつつあった硯友社一派の口マンティシズムから、いち早く離脱して、轗軻不遇(かんかふぐう)(かこ)っていた秋声も、日露戦役後、自然主義勃興(ぼつこう)の気運に迎え()れられて、国木田独歩田山花袋(たやまかたい)島崎しまざき藤村(とうそん)らと肩を並べ、じみ(、、)ながら、文壇の主流に堅実な位置を築いてしまった。一方、尾崎紅葉の愛弟子(まなでし)ではあり、年少にしてつとに鬼才の名をほしいままにしながら、幾多の傑作を発表し、二つ年嵩(としかさ)の秋声などを、はるか後方(しりえ)瞠若(どうじやく)たらしめて来た鏡花は、依然一部の愛読者によって偶像化されるほどの人気は保っていたにもせよ、一種傍系的存在として、とかく文壇人からの蔑視(べつし)は免れなかった。――「スバル」第二次の「新思潮」「三田文学」それに私たちの「白樺」などが、そろそろ世人の注目を惹ひくようになったのが、ちょうどそういう時代だった。

鬱然 物事が勢いよく盛んな様子
北陸の都会 石川県金沢市です。
硯友社 1885(明治18)年、尾崎紅葉が山田美妙・石橋思案らと結成した文学結社。同年五月、機関紙「我楽多文庫」を発行。同人に巌谷(いわや)小波(さざなみ)、広津柳浪、川上眉山らが参加、紅葉門下に泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声らが加わり、明治20~30年代の文壇中心勢力となり、硯友社時代を作った。
轗軻不遇 世に受け入れられず行き悩む状態。事が思い通りにいかず行き悩み、ふさわしい地位や境遇に恵まれないこと
自然主義 文学で、理想化を排し人間の生の醜悪・瑣末な相までをも描出し、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、フランスのゾラ、モーパッサンなどが代表。日本では明治30年代の島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥らが代表。
瞠若 どうじゃく。驚いて目をみはること
スバル 文芸雑誌。明治42年(1909)1月~大正2年(1913)12月まで。森鴎外を中心に石川啄木、木下杢太郎、吉井勇らが発刊。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点に。
新思潮 文芸雑誌。1907年(明治40)小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。第二次(1910年)以後は、東大文科の同人雑誌として継承さ。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
三田文学 文芸雑誌。明治43年(1910)5月、慶応義塾大学文学部の三田文学会の機関誌として、永井荷風らを中心に創刊。耽美的色彩が強く、自然主義文学系の「早稲田文学」と対立した。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
白樺 キリスト教、トルストイ主義などの影響を受け、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げ、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者

 とはいえ、この、同年輩、同郷、同窓、同門の、二大家の間に横たわる(みぞ)については、所詮(しよせん)、私には、埋まる望みがもてなかった。鏡花は、「師を敬うこと」文字通り「神のごとく」で、二階の八畳なる書斎の違い(だな)には、常に紅葉全集と、キャビネ型、七分身の写真が飾ってあり、香華(こうげ)や、時には到来の名菓とか、新鮮な果実(くだもの)とかの供えられているのを見かけることもあった。たぶん、朝夕の礼拝も欠かさなかったことだろう。みだりに話頭に登せず、語る場合は「横寺町の先生」と呼んだし、式服の紋には、(* )氏香の図のうち「紅葉(もみじ)()」を用いていた。目前(まのあたり)に見られる師弟の情誼(じようぎ)の、おそらくはこれが最後のものだろうと思われ、私の性分としては、批判を絶した敬虔(けいけん)の気に撃たれた。
 これに反して、秋声は、「紅葉さん」と呼び、少しの悪意も感じられはしないが、人間同士、飽くまで対等の口調で、――どうも、ひどい食いしんぼでね、好きな菓子なんかが出ると、一遍に五つも六つも平らげちまうんだもの、あれじゃア、君、胃癌(いがん)で死んでも仕様がないさ、などと、(あわ)れむとも、(あざけ)るともつかない、渋いような笑い顔をする。ここにも、しかし、決して反感の(いだ)けない、飄々(ひようひよう)たる(なご)やかさはあった。
 * 源氏香  「源氏物語」五十四帖にもとづいてつくられた組香のこと。それぞれの帖の題名に応じて縦ないし横に五線を画し、これによって図を作る。紅葉賀はその図柄の一つ。

香華 仏前に供える香と花
到来 他からの贈り物が届くことか、その物品
情誼 じょうぎ。真心のこもった、つきあい
飄々 考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子

 馬鹿正直者の私などは、いつごろ、どこでだったかは忘れたが、秋声から、――君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくってもらえんもんかね、と云われ、一考の余地もないように、――それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭(まくらもと)ででもなければ、むずかしいんじやアないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。――ずいぶんひどいことを云う人だね、と、秋声は、笑い顔ながらも、少しは(うら)めしそうだった。たぶんその後のことだったろう、某綜合(そうごう)雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋声と二人で鏡花を訪ね、たいそう(むつ)まじく懐旧談など(はず)んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、(なか)(はさ)んでいた径1尺あまりの(きり)(どう)丸火鉢(まる)()び越し、秋声を押し倒して、所嫌(ところきら)わずぶん(なぐ)ったのが、飛鳥のごとき早業(はやわざ)で、――泉さんって人は、文章ばかりかと思ったら、実に喧嘩(けんか)も名人ですなア、と、声はたてず、唇辺(くちもと)だけを笑った恰好(かつこう)にするいつもの癖を出して、――いやア、驚きましたよ。やっと引き分け、自動車に押し込んで、そのころ秋声の行きつけの「水際(みずぎわ)の家」というのへつれて行ったが、その道中も、先方へ着いてからも、見栄(みえ)も外聞もなく泣かれるので、ほとほともてあました、という話だった。この社長なる人は、豪放な見かけによらず、不思議なくらい芸術家に対する敬重の念が厚く、そんな話にも、少しも軽佻浮薄(けいちようふはく)の調子は感じられなかった。口止めはされないでも、めったな人には話せないという重味さえかかって来た。

一考の余地もない 少しも考えるに値しない、顧慮・検討する余地はまったくない
枕頭 まくらもと。寝ている人の枕のあたり。「死亡した場合には」と考えたい。
社長 改造社長の山本実彦です。
胴丸火鉢 丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。
飛鳥 ひちょう。空を飛ぶ鳥。非常に動作の速い様子
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは実際に中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
軽佻浮薄 けいちょうふはく。軽はずみでうわついている様子

 実際にあったのですね。また谷崎潤一郎氏も『文壇昔ばなし』で同じようなことを書いています。

 或る時秋聲老人が『紅葉なんてそんなに偉い作家ではない』と云ふと、座にあった鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社長山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。

 では元の「二人の作家」にもどります。

 半年あまりして、秋声の発表した「和解」という短篇は、「お家の芸」ともいうべき、さらさらと身辺の瑣事(さじ)を書き流したような、得意の作風だったが、題材としては、(* )汀の死に(から)んでの、鏡花との交渉がとりあげられていた。その終りを、――鏡花が、弟のことでいろいろ世話になった礼に、たくさん土産物(みやげもの)を持ち込んで来て、自分が誰よりも紅葉に愛されていたこと、秋声は客分として誰よりも優遇されていたのだから、少しも不平を並べるところはないはずだということなど、独特の話術のうまさで一席弁じ立てて、そこそこに帰って行ったので……以下原文を()りると、「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んであった。旧友の厚意を、そのまま()()()には受け取れないで、およその費用を()()ってみて、それ相応の礼物を持参し、綺麗(きれい)に決済をつけてしまわなければ気のすまないような、小心翼々たる鏡花の性分くらい、「苦労人」をもって自他ともに許す、しかも、何年か一つ(かま)の飯も食った仲の秋声に、わかっていないはずはないのだが、やはりその他人行儀には(かん)を立てさせられたのだろう、「軽く当身を食ったような気持」という、さも淡泊らしい言葉のなかにも、かなりの反感が(うかが)われないことはなかった。どういうつもりで「和解」という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏み(にじ)っていた。
 何か少しでも金のかかりそうな話となると、――あなた方にお厭いはなかろうけれど、われわれは、とてもこのほうで、と、親指と人さし桁とを丸く(わが)ねてみせるような鏡花が、恩師に刃向う仇敵(きゆうてき)とも感じられている秋声に、弟の発病から思わぬ世話になったことを、心(ひそ)かに忌々(いまいま)しがり、右から左に物質で賠償し、毛ほども気持の上での負担など残すまいと焦慮(あせ)る、これは、ほかにどう変えようもない当然の帰趨(きすう)だった。森羅万象(しんらばんしよう)あるがままに観、そのあり形のままに写す、という、国産自然主義の極意に徹したように思われた秋声でも、生きているかぎり感情は殺せず、意識下はともあれ、意識するかぎりでは、重態に陥った旧友の弟のために出来るだけの親切を尽したつもりの、いい気持でいたところへ、手切金じみた返礼をされたのでは、さすがに、心平らかでなくなるのも、これまた当然の心理というべきだった。
 * 斜汀 泉斜汀(1880-1933)。泉鏡花の実弟。金沢に生まれ、兄とともに紅葉門下となった。代表作「深川染」。

当身 あてみ。古武術等の打撃技の総称
帰趨 帰着する。ゆきつくところ

 最後は鏡花が死亡する、その瞬間です。里見弴の文章もこれで終わりです。

 細君はもとよりのこと、国男、臨風、雪岱、万太郎、私の別宅に住む女、三角、私、それだけが、枕辺ちかく座を占めたと思う途端に、素人目(しろとめ)にもはっきりわかって、息が絶えた。(中略)
 午後三時少し前、目も眩むばかり照りつけた往来に出ると、むこうから、急ぎ足に秋声が来た。
「どう?」
「たった今……」
 キリキリと相好が変って、
「駄目じゃアないか、そんな時分に知らせてくれたって!」
 (むち)うつごとき(はげ)しさだった。
「どうも、すみませんでした」
 なんの思議するところもなく、私の頭はごく自然にさがった。