石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では
銀杏坂(いちょうざか) 市谷薬王寺町の中央部の七二と七五番の間を、市谷加賀町二丁目のほうから西へ下る坂で、坂下は通称薬王寺通りである。昔この坂の北側にあった久貝因幡守の邸内には銀杏稲荷とよばれた稲荷社があり、御神木の銀杏の大木があったのが坂名のおこりだと伝えられている。 |
横関英一著の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年)では
銀杏坂 新宿区市谷薬王寺町の中央七二、七五番の間を東から西に下る坂。昔、坂の北側に久貝因幡守の屋敷があって、この邸中に銀杏稲荷の社があった
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『新宿区町名誌』(新宿区教育委員会、昭和51年)で
◎市谷薬王寺町 町の東北を、バス通りに向って下る坂を銀杏坂といった。その横町北側に久貝因幡守の屋敷があり、その屋敷内に銀杏稲荷があったからである。 |
また『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では
外苑東通りから市谷薬王寺前町の北側を東に入る坂を銀杏坂という。坂の北側にある久貝甚三郎屋敷内に古くから銀杏稲荷という社があることに由来する。 |
2009年、新宿区が道路通称名を公募、67路線で決定。「銀杏坂通り」もその1つで、標柱をつくっています。
現在、茶色●の「銀杏坂」で2つ、青色●の「銀杏坂通り」は3つ、合計5つの標柱があります。
当然ですが、「銀杏坂」のほうが「銀杏坂通り」よりも短いことがよくわかります。また銀杏坂は、坂として比べると、神楽坂よりも、また焼餅坂よりも、緩やかになっています。
茶色●の標柱は
この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)。 |
青色●の標柱は
銀杏坂通り Ichozaka-dori |
坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。 |
360°カメラでは