尾崎紅葉氏は「草もみぢ」(冨山房、明治36年)に「始てアドレエキ カメラを 携ふる記」というエッセイを出しています。「始て」は現在「はじめて」か「初めて」と書きます。
拝呈。然者本日の上天気。端居春心の酔ふに堪へず。加ふるに。数日來散歩を癈し居候事とて。遊意頻に動き候に。一昨日持帰り候アドレエキ カメラの未だ一着手をも経ざる有りて。旁此日を虚に過し難く。或は課題途上所見の好圖様を得る事もあらん乎と。遂に思立ちて。早稲田辺までと志し候は。午後一時頃に有之候。 鶴巻町より田圃に出づれば。直に一面の榛木が林にて。此のわたり「冬の朝日の最も憐なる」處。前年小生が銃猟を始め候日。下駄掛にて鵙鵯などをおん廻し候も此辺にて。其頃所持の廿八番形村田銃と其の手腕と。今日の手提カメラと其の技倆とは。何ぞ相似たるの甚き。と心私かに可笑く存侯。 |
拝啓。さて本日の天気はよく、縁先にいるとのどかだが、ただ陶酔しているのは我慢できないし、加えて、数日来、散歩をやめて、じっと家にいるので、ああなんとしても動きたいと考えた。一昨日持ち帰ったアドレーキ・カメラはまだ一度も使ったことはなく、いずれにしてもこの日をむだに過ごすのはできない。課題の途上で好事を得ることもあろうと、急に思いたち、早稲田ごろまでと決めて、午後一時頃、鶴巻町から田んぼに出た。すぐに一面の榛木の林にでていた。このあたりは「冬の朝日が最もきれいな」所である。前年小生が銃猟を始めたが、下駄ばきでモズやヒヨドリなど取ったものもここだ。そのときは所持していた28番形の村田銃とこの手腕、対して今日の手提げカメラとこの技量、どこが似ているか、片腹痛いと、密かにおかしかった。 |
然者 しかれば。しからば。それならば。そうであるからには
端居 はしい。家の端近くにすわっていること。特に、夏、暑さを避け、風通しのいい縁先や縁台などにいること。
春心 はるごころ。春の頃ののどかな心もち。春ごこち。
酔う 心を奪われてうっとりする。自制心を失う。
堪えず たえず。がまんできない。もちこたえない。こらえられない
居候 他人の家に世話になり食べさせてもらうことや、その人。食客。
遊意 ゆうい。遊歴したい考え。各地をめぐり歩たいとの考え
アドレエキ カメラ 不明。「アドレーキ・カメラ」と書いていたものも
一着手 「着手」とは「ある仕事に手をつけること。とりかかること」
旁 かたがた。方方。いろいろのことを考え合わせると。いずれにしても。どっちみち。あれこれと。なにやかやと。さまざまに
虚 徒。あだ。空虚な。むだな。実を結ばない
好圖 好事。かわった物を好むこと。ものずき。
榛木 カバノキ科の落葉高木。各地の山野の湿った所に生え、水田の畔に植えて稲掛け用としたり、護岸用に川岸に植えたりする。
鵙 もず。スズメ目モズ科の鳥の総称。この科の鳥は全長18~35cm。先端がかぎ状になった強いくちばしと鋭いつめのあるがっしりした脚をもち、頭は大きく、丸みを帯びた体つきをしている。
鵯 ひよどり。ヒヨドリ科の鳥。大きさは全長約27センチメートルで、ツグミぐらい。背面は灰褐色で、腹は淡く、胸は灰色で白斑がある。頭頂の羽毛は灰色で長く、やや羽冠状を呈する。ピーヨピーヨと大きな声で鳴く。
村田銃 薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。
おん廻し 回す。人や物を必要とする場所へ移す。物事をとどこおりなく進める。その立場に置く。配慮などを行き渡らせる。
甚い 心に苦痛を感じるさま。精神的につらい。「欠損続きで頭がいたい」。弱点を攻撃されたり打撃や損害をこうむったりして、閉口するさま。「いたいところに触れられる」「いたい目にあう」「この時期に出費はいたい」。俗に、さも得意そうな言動がひどく場違いで、見るに堪えないさま。また、状況や立場・年齢にふさわしくない言動が周囲をあきれさせるさま。 (甚い)程度のはなはだしいさま。多く、連用形を用いる。→甚(いた)く。動詞の連用形に付いて、その動詞の表す状態がはなはだしい意味を示す形容詞をつくる。「あまえいたし」「うもれいたし」など。