国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。 甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル——御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルやツクシの摘み草をしたものであった。 その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。 げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう——千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。 |
国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
ノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
。 院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに。
阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。