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看護婦養成の苦心と賞牌

文学と神楽坂

 石黒いしぐろ忠悳ただのり氏の「懐旧九十年」(東京博文館、昭和11年。再録は岩波文庫、昭和58年)です。女の看病人をつけたらという発想から看護婦(現、看護師)が生まれ、また、日本赤十字社から今の国際的な開発協力事業が発生しました。
 氏は陸軍軍医。江戸の医学所に学び、西洋医学の移入、陸軍軍医制度や日本赤十字社の設立に尽くしました。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。97歳で死去。
 住所は牛込袋町26番地から明治13年、牛込区揚場町17番地に転居。

第5期 兵部省出仕より日清まで
  21 看護婦養成の苦心と賞牌
 我が国での看護婦の沿革を述べると、その始りともいうべきものは、維新の際、東北戦争の傷病者を神田かんだ和泉いずみばし病院へ収容した時です。この傷病者は官軍諸藩の武士ですからなかなか気が荒く、ややもすれば小使や看病人に茶碗や煙草タバコぼんを投げ付ける騒ぎが毎々のことで、当局ももて余し、一層のことにこれは女の看病人を附けたらよかろうというので、これを実行してみると案外の好成績を得たのです。
 その後、明治12, 3年頃海軍々医大監高木たかぎ兼寛かねひろ氏が、東京病院で看護婦養成を始めました。
 これが我が国看護婦養成の最初です。越えて明治19年、我が国の国際赤十字条約加入、日本赤十字社の創立となり、万国赤十字社に聯合すべき順序となりました.その結果、明治21年5月に篤志看護婦人会が組織せられ、有栖川ありすがわのみや熾仁たるひと親王董子ただこ殿下を総裁に推載し、鍋島侯爵夫人を会長と仰ぎました。これから看護婦養成事業がちょに就いて大いに発達して参ったのです。
 前にも述べた通り、私は最初陸軍々医方面に身を投じた際、自分の職分は兵隊の母たる重要任務であるとさとりました。さて、その兵隊の母として考えてみると、傷病者が重態になった時はこれを婦人の柔かき手で看護するのでなけれぱ親切な用意周到の看護は出来ない。ところが陸軍官軍では、看護婦を養成したり使用したりすることはまだ出来ない。そこで戦時に軍隊医事衛生の援助を主眼とする日本赤十字社においてこれを養成し、戦時にこれを使用することとし、世が進むと平時には重病者には看護婦を付けるようにするというのが、私の年来の計画であったのと、今一つには幸いにしてこの看護婦がその業務に熟達して来たならば、皇族におかせられてもぜひ看護婦を御使用ありたいというのが希望でした。また、そうなると皇族方の御看護をしたる手を以て傷病者の看護をさせることになる訳です。それで日本赤十字社の看護婦は看護は勿論、平素人格ということに注意しなくてはならぬという主張を持ったのです。
 そもそもやまいの治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二といったように三つの力が揃わなくてはならぬと思います。

 えき。(人民を徴発する意味から)戦争
賞牌 しょうはい。競技の入賞者などに賞として与える記章。メダル。
神田和泉橋 神田川に架かり昭和通りにある橋。
病院 明治元年、横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、大病院と称していたが、明治10年、東京大学医学部附属病院と改称。
高木兼寛 鹿児島医学校に入学し、聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。臨床第一の英国医学を広め、脚気の原因について蛋白質を多く摂り、また麦飯がいいと判断。最終的には海軍軍医総監。東京慈恵会医科大学の創設者。生年は嘉永2年9月15日(1849年10月30日)。没年は大正9年(1920年)4月13日。
東京病院 明治14年、有志共立東京病院を設立。現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。
日本赤十字社 明治10年(1877)の西南戦争時に、佐野さの常民つねたみ大給おぎゅうゆずるらが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体を「博愛社」と呼び、明治20年(1887)日本赤十字社と改称。
有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁たかひと親王の第1王子。反幕府・尊王攘夷派で、戊辰戦争では江戸城を無血開城。
董子 有栖川ありすがわの宮妃みやひ董子。有栖川宮熾仁親王の妃。博愛社(現、日本赤十字社)創設。10年間、東京慈恵医院幹事長。
鍋島侯爵夫人 鍋島なべしま榮子ながこ。イタリア公使であった侯爵鍋島直大とローマで結婚。明治20年、日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任。
緒に就く しょにつく。見通しがつく。いとぐちが開ける。

石黒忠悳|明治東京逸聞史

文学と神楽坂

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)に石黒忠悳ただのり氏の2話が出ていました。石黒氏は牛込区揚場町に住み、陸軍軍医から、その後は日本赤十字社社長でした。なお、ここでの「男」は「だん」で、「男爵」の意味でしょう。「翁」は老人を敬って呼ぶ言葉。石黒氏の誕生は1845年3月なので、本文の明治39年は62歳、明治42年1月は‎64歳でした。

結核予防   机の塵(朝報社編) 明治39年
 或宴会で石黒いしぐろ忠悳ただのり男が、矢野二郎翁と席を列べたら、男はまず自分の膳の上に新聞をかぶせて置いて、さて翁に向って、「君は結核面をしている。その唾がおれの食べ物にかかっては困るから、こうして置くのだ」といった。そうしたら矢野翁は、「予防してまで、おれの話を聴きたいとは嬉しいね」といったそうだ。――
 この頃の結核は、万人に忌み嫌われる病気で、伝染したら直らぬものとせられていた。

石黒忠悳 医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
矢野二郎 英語を学んで外国方訳官となり、明治3年、森有礼の推薦で外務省にはいり渡米、一時駐米代理公使となった。8年、商法講習所の初代所長となり、26年まで高等商業学校(現一橋大学)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。生年は弘化2年1月15日(1845年2月21日)、没年は明治39年6月17日。

 矢野氏と石黒氏は同じ年齢でした。この年に矢野氏は死亡しますが、結核がその死因だとは書いていません。2人の仲の良さを描いていたのでしょう。

石黒家の新年   万朝報 明治42年1月4日
「御自由に召上れ」と題する短文が出ている。
「牛込区揚場町なる石黒忠悳ただのり男は、目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に、『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るつた趣向なり。」
 明治が四十二年になっても、まだ文語体で行っている。

相州 そうしゅう。相模国の別称。神奈川県と同じ。
蒔絵 まきえ。うるしで文様を描き、金属粉の金、銀、すずや顔料の粉(色粉)をまき、固着し造形する技法。その作品
奉書 ほうしょ。文書の美称。本来は,近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書

 文語体は石黒忠悳ではなく、万朝報の方の書き方を言っているのでしょう。この逸聞は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)にも再録されています。

石黒男爵の珍しい新年
           (揚場町一七)
 津久戸小学校前を右折する。左手は揚場町である。揚場町は東の堀割から山の手へ運送の荷物を揚げる場所であったために名づけられた町名である。堀割はここからお茶の水、万世橋を通って隅田川に続いている。
 右折した道の先左手に、明治時代男爵石黒忠悳(ただのり)が住んでいた。この石黒家の過し方が「万朝報」(明治四三・一・一)に出ている。
「目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るった趣向なり。」と。
 〔参考〕 明治東京逸聞史

堀割 地を掘って水を通したところ。ほり。