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文豪の素顔|森鴎外(8)

文学と神楽坂


 その晩、杢さんは久しぶりだからといつて永代橋畔の都川といふ鳥屋へ連れていつて、ふんだんに飲ましてくれた。盃の間にも鷗外先生がああいつてくれたのだから、北原や吉井とは、別な方面から先生の支持をつけるやうにしたらどうだと親切にアドバイスしてくれる。君はいつも自分でミソッカスだといつて、好んで卑屈な態度に出るからいかんのだ、詩なんかつくれなくたつて、何も文学の道は外にいくらだつてある。
 僕は心の中で涙をおさへて、
「ねえ、杢さん、さつきも鴎外先生がいつとられたが、兄貴の『司祭と猫』つていふものは、ほんとにそんなにいい詩なんですか。どうか本当のことをいつて下さい。」僕はせめてそれで自分に自信をつけたかつた。
 杢さんはカツカツと舌を嗚らして、
「いい詩だつたよ。多分に性的な皮肉が歌はれていて、けんらんなものだつた。白秋もおれは震駭したといつてたな。しかし秀さんらしからぬ、光沢のありすぎる詩だつたよ。」
「兄貴はなんていつてゐるんですか。ほめると、何か反撥しますか。」
「うむ、おれはデーメルを捨てゝもう一度ヴェルレーヌからやり直すといつてるんだ。『司祭と猫』みたいなものを今後、いくつもかくと興奮してゐたな。」

都川都川 京橋区(現在の中央区)の隅田川の川縁、永代橋に近くにあった料理屋。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。
ミソッカス みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
震駭 しんがい。驚いて、ふるえあがること
デーメル リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル。Richard Fedor Leopold Dehmel。ドイツの詩人。1863年11月18日~1920年2月8日
ヴェルレーヌ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 – 1896年1月8日)は、フランスの詩人。日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」が有名

 すると、あのノートの中にはまだ『民族の果樹園』や『黒と金の饗宴』『夜の円舞曲』なんていふのが、七つも八つも残つてゐるから、それが兄貴の署名で一つ一つ些細な原稿料に化けるかもしれない。それとも、もう僕が北海道から帰つてきたから、これでやめるかな。
 さう僕は秀雄と杢さんの友情を思ふと、それから先のことは何んにもいへなかつた。まつたくいふに忍びなかつたのである。それほどに杢さんは清潔な芸術家であつたし、立派な人格であつた。
 すぐ下の隅田川では、曳船の小蒸汽船がしつきりなしに含み声なスクリューの音を水にこもらせてどんどん溯上してゐる。月がゆらゆらほの白く砕けてゐるところをみると、丁度今上げ潮らしい。川口の方では模糊とした月光の果てに、大島通いの東京丸がぼつッぼつッと汽笛を吹嗚してゐる。もうぢき出航するのであらう。
 その汽笛の音を聞いてゐると、僕の眼には宝蘭港の月夜や、吹雪の小樽港が今みるやうにまざまざと浮んでくる。空きッ腹に、幾度かうした、うら寂しい汽笛の音を聞き送つたことか。
 考へれば佗びしい二ヶ年にあまる旅路ではあつた。僕は涙がボロボロ溢れて、とめどがなかつた。

『民族…』の3編 残念ながらこの名前を使って小説になっているものはありません。
曳船 ひきふね。水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引すること。 曳舟(ひきふね)は東京都墨田区東向島の地名
溯上 流れをさかのぼっていくこと
川口 川口市。かわぐちし。埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約57万人の市
宝蘭港 宝蘭港はありません。室蘭港ではないのでしょうか。むろらんこう。北海道室蘭市にある港湾です
小樽港 北海道小樽市にある港湾

小樽

 その晩、僕は本田といふ品川の友だちのところへ帰るにしては、とても酔ひすぎてゐたので、杢さんと一しよに、さつき契約をきめたばかりのあの根津の下宿屋へいつて、むりやりに泊めてもらつた。夜具がないので、おかみさんに頼んで、近辺の貸布団屋からやつとひと組コスメチック臭い木綿夜具を借りてもらつた。もう午前の一時すぎであつた。おかみさんはいやな顔もせず、親切に世話を焼いてくれた。
 あとから聞いて、さすがの僕もひと縮みになつてしまつたか、それは村松梢凰氏の伯母さんだつたのださうである。
 それを聞いたのは、彼れこれ二十年もたつてからであるが、いろいろ御迷惑をかけた昔日のことを思ふと、何ともかとも慚愧にたへない思ひである。
 翌朝、味噌汁の煮える匂ひで眼を覚ましてみると、案外落着いたいい部屋である。手拭から歯みがきまで一々買つてもらつて、近所の銭湯へいつて、湯だけは浴びてきたが、何分にも綻びの切れた、銘仙の袷が、垢でピカピカひかつてゐて、どうにも見すぼらしくつて、気がひけてならない。早速親父の家へいつて、ひと先づ机や行李や本の類を人力車にのせて運んできた。親父は、古い瀬戸ものの火鉢をひとつくれて、今度はしつかりやれと愛情をこめて激励してくれた。親父は兄貴よりも、僕にむろん全幅の信頼をかけてゐたのである。
 すつかり家具のおきどころをきめてから、その下宿ではじめての夕飯をくつた。塗膳には牛肉のすき焼きなんかがついてゐて、その時分にしてはとても扱ひのいい賄いであつた。一本つけてもらつて時間をかけてゆつくり飲んだ。こんな穴ぼこみたやうなところであるから、杢さんさへ黙つてゐてくれれば、誰れにもかぎつけられることはあるまい。秀雄や吉井勇なぞから全く隔絶して、僕は僕自身の道を歩こうと、深くふかく決心をきめた。
 北窓をあけると、すぐ真上は鴎外先生のお書斎の窓である。
 先生は午前の二時までも三時までも仕事をなさるらしく、いつみても黄色い灯が窓のカーテンにほのめいてゐる。それが消えるまで、僕は決して寝なかつた。僕はそこで出世作といはれる『零落』を、中央公論にかかしてもらつてやつと大正文壇に華々しくデビューしたのである。
 こないだ僕のところの近辺の娘さんが小堀杏奴女史のところへ伺つたら、僕がそこの下宿の窓から汚いドテラを着て、よく顏を出してゐたのを、子供心に覚えてゐるといはれたさうである。申す迄もなく、杏奴女史は鴎外先生の令嬢である。
 その時分おいくつ位だつたかしらないか、あのお宅におかつぱ頭の可愛らしいお嬢さんがゐられたとは想像も出来ない。それほどに先生の千朶山房は粛殺とした、冷厳な印象を僕に与へてゐる。それが先生の持つてをられた雰囲気そのものであつた。

コスメチック 化粧品・頭髪用化粧品の総称
村松梢凰 むらまつ しょうふう。小説家。1889年(明治22年)9月21日~1961年(昭和36年)2月13日。
慚愧 ざんき。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること
銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物
零落 れいらく。落ちぶれること。大正元年、長田幹彦氏は旅役者の生活を描いた『澪』『零落』で作家としてデビューしました。
小堀杏奴 こぼり あんぬ。森鴎外と志げの次女。随筆家。生年は1909年(明治42年)5月27日。没年は1998年(平成10年)4月2日。
粛殺 しゅくさつ。厳しい秋気が草木を枯らすこと

文豪の素顔|森鴎外