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骨|有島武郎①

文学と神楽坂

 有島武郎氏は小説家、評論家で、父が横浜税関長。学習院を経て札幌農学校に入り、ハバフォード大学大学院、ハーバード大学に学び、欧州巡歴を経て、帰国。明治43年「白樺」にくわわり、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表しました。

 この『骨』は大正12年4月、個人雑誌『泉』に発表しました。同年6月9日、氏は軽井沢で波多野秋子氏と心中。

 この小説で、「私」は有島氏自身だとすると46歳。「おんつぁん」は社会主義運動を行った30代前半で、モデルの本名は田所篤三郎。「勃凸」は20歳前後で問題が多い青年で、モデルは十文字仁。神楽坂で、この青年の送別会で、青年は、母親の骨をどこかになくしてしまいます。社会の異分子が奏でる哀歌です。

 小説の出だしからスタートです。

 たうとう勃凸は四年を終へない中に中学を退学した。退学させられた。学校といふものが彼にはさつぱり理解出来なかつたのだ。教室の中では飛行機を操縦するまねや、活動写真の人殺しのまねばかりしてゐた。勃凸にはそんなことが、興味といへば唯一の興味だつたのだ。
 どこにも行かずに家の中でごろ/\してゐる中におやぢとの不和が無性に嵩じて、碌でもない口喧嘩から、おやぢにしたゝか打ちのめされた揚句あげく、みぞれの降りしきる往来に塵のやうに掃き出されてしまつた。勃凸は退屈を持てあますやうな風付で、濡れたまゝぞべ/\とその友達の下宿にころがり込んだ。
 安菓子を滅茶々々に腹の中につめ込んだり、飲めもしない酒をやけらしくあふつて、水のしたゝるやうにぎすましたジヤック・ナイフをあてもなく振り廻したりして、することもなく夜更しをするのが、彼に取つてはせめてもの自由だつた。
 その中に勃凸は妙なことに興味を持ち出した。廊下一つ隔てた向ひの部屋に、これもくすぶり込んでゐるらしい一人の客が、十二時近くなると毎晩下から沢庵漬を取りよせて酒を飲むのだつたが、いかにも歯切れのよささうなばり/\といふ音と、生ぬるいらしい酒をずるつと啜り込む音とが堪らなく気持がよかつたのだ。胡坐をかいたまゝ、勃凸は鼠の眼のやうな可愛らしい眼で、強度の近眼鏡越しに友達の顔を見詰めながら、向ひの部屋の物音に聞き耳を立てた。
「あれ、今沢庵を喰つたあ。をつかしい奴だなあ……ほれ、今酒を飲んだべ」
 その沢庵漬で酒を飲むのが、あとで勃凸と腐れ縁を結ぶやうになつた「おんつぁん」だつた。
 いつとはなく二人は帳場で顔を見合すやうになつた。勃凸はおんつぁんを流動体のやうに感じた。勃凸には三十そこ/\のおんつぁんが生れる前からの父親のやうに思はれたのだつた。而してどつちから引き寄せるともなく勃凸はおんつぁんの部屋に入りびたるやうになつた。

勃凸 「ぼつとつ」と読むのでしょう。モデルは十文字仁。
ぞべぞべ 緊張感がなく だらしない。ぞべらぞべら。
くすぶる 家や田舎に引きこもって、目立った活動もしないで過ごす。世にうもれている状態で暮らす。
胡坐 あぐら。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方。
をつかしい 現在語では「おっかしい」でしょう。おかしい。思わず笑いたくなる。
おんつぁん 田所篤三郎がモデル。有島氏の出資で古書店を経営。

「おんつぁん」は小さな貸本屋を開き、一般の読者には不向きな書物も貸していました。警察の捜索を受け、「おんつぁん」たちは四日間、留置場に拘留。証拠不十分で放免になりますが、札幌での営業は停止。「おんつぁん」は東京にやって来きます。跡を追うように「勃凸」もやってきます。

 或る日、おんつぁんが来たと取り次がれたので、私は例の書斎に通すやうに云つておいて、暫くしてから行つて見ると、おんつぁんではない生若い青年だつた。背丈は尋常だが肩幅の狭い、骨細な体に何所か締りのぬけた着物の着かたをして、椅子にもかけかねる程気兼きがねをしながら、おんつぁんからの用事をいひ終ると、
「ぢや帰るから」
 といつて、止めるのも聴かずにどん/\帰つて行つてしまつた。私はすぐその男だなと思つたが、互に名乗り合ふこともしなかつた。
 二三日するとおんつぁんが来て、何か紛失物はなかつたかと聞くのだつた。あすこに行つたら記念に屹度何かくすねて来る積りだつたが、何んだか気がさして、その気になれなかつたと云つてはゐたが、あいつのことだから何が何んだか分らないといふのだ。然し勿論何にも無くなつてはゐなかつた。
めんこいとっつあんだ。額と手とがまるっでめんこくて俺らもう少しで舐めるところだつた。ありやとっつぁんぼっちやんだなあ」
 ともいつたさうだ。私は笑つた。而して私がとっつぁんぼっちやんなら、あの男はぼっちやんとっちやんだといつた。而してそれから私達の間でその男のことを勃凸、私のことを凸勃といふやうになつたのだ。だから勃凸とは札幌時代からの彼の異名ではない。
 その後勃凸と私との交渉はさして濃くなつて行くやうなこともなく、唯おんつぁんを通じて、彼が如何に女に愛着されるか、如何に放漫であるか、いざとなれば如何に抜け目のない強烈さを発揮するかといふことなどを聞かされるだけだつたが、今年になつて、突然勃凸と接近する機会が持ち上つた。

生若い青年 勃凸でしょう
めんこい かわいらしい。小さい。

 それは急におんつぁんが九州に旅立ち、その旅先きから又世界のどのはづれに行くかも知れないやうな事件が起つたからだ。勃凸の買つて来た赤皮の靴が法外に大き過ぎると冗談めいた口小言をいひながらも、おんつぁんはさすがに何処か緊張してゐた。私達は身にしみ通る夜風に顔をしかめながら、八時の夜行に間に合ふやうにと東京駅に急いだ。そこには先着の勃凸が、ハンティングを眉深かにおろし、トンビを高く立てゝ私達を待ち受けてゐた。おんつぁんは始終あたりに眼をくばらなければならないやうな境涯にゐたのだ。
 三等車は込み合つてゐたけれども、先に乗りこんで座席を占めてゐた勃凸の機転で、おんつぁんはやうやく窓に近いところに坐ることが出来た。おんつぁんはいつものやうに笑つて勃凸と話した。私は少し遠ざかつてゐた。勃凸がを拇指の根のところで拭き取つてゐるのがあやにくに見えた。おんつぁんの顔には油汗のやうなものが浮いて、見るも痛ましい程青白くなつてゐた。飽きも飽かれもしない妻と子とを残して、何んといつても住心地のいゝ日本から、どんな窮乏と危険とが待ち受けてゐるかも知れないいづこかに、盲者のやうに自分を投げ出して行かうとする。行かねばならないおんつぁんを、親身に送るものは、不良青年の極印を押された勃凸が一人ゐるばかりなのだ。こんな旅人とこんな見送り人とは、東京駅の長い歩廊にも恐らく又とはゐまい。私は思はずも感傷的になつてしまつた。而してその下らない感情を追ひ払ふためにセメントの床の上をこつ/\と寒さに首を縮めながら歩きまはつた。
  勃凸との話が途切れるとおんつぁんはぐつたりして客車の天井を眺めてゐた。勃凸はハンティングとトンビの襟との間にすつかり顔を隠して石のやうに突つ立つてゐた。
 長い事々しい警鈴の音、それは勃凸の胸をゑぐつたらう。列車は旅客を満載して闇の中へと動き出した。私達は他人同士のやうに知らん顔をし合つて別れた。
 勃凸と私と而してもう一人の仲間なるIは黙つたまゝ高い石造の建築物のはざまを歩いた。二人は私の行く方へと従つて来た。日比谷の停留場に来て、私は鳥料理の大きな店へと押し上つた。三人が通されたのはむさ苦しい六畳だつた。何しろ土曜日の晩だから、宴会客で店中が湧くやうだつたのだ。
 驚いたのは、暗闇から明るい電灯の下に現れ出た勃凸の姿だつた。私の心には歩廊の陰惨な光景がまだうろついてゐたのに、彼の顔は無恥な位晴れ/″\してゐた。
「たまげたなあ。とつても素晴らしいところだなあ」

ハンティング ハンチング帽。19世紀半ばからイギリスで用いた狩猟用の帽子
 ひさし。帽子で額の上に突き出た部分。
トンビ 外套の一種。袖が無く、ケープの背中部分がコートの背中部分と一体化して、スコットランド北部インバネス地方で着用され、インバネスコートとして広まった。日本では明治初年に輸入、和服の上に着用しやすい形に考案されて、「とんび」「二重まわし」とよんだ。
 えり。くびに当たる衣服の部分
 なみだ
あやにく 予期に反して思いどおりにならない。不本意。折あしく不都合
極印 ごくいん。永久に残るしるし。いつまでも消えない証拠。刻印。
歩廊 プラットホームのこと。2列の柱の間につくった通路。回廊

骨|有島武郎②

文学と神楽坂

 鳥料理の店で「勃凸」は「おんつぁん」のことや、勃凸の母親、母親の骨の話をします。

 勃凸は説明するやうにかういつて更に語りつゞけるのだつた。
「(中略)その晩俺はおんつぁんの作つてくれた風呂敷包を全部質において、料理屋さ行つてうつと飲んで女を買つたら、次ぐの朝払ひが足らなかつた。仕方なしに牛太郎と一緒におやぢのとこさ行つたらお袋が危篤で俺らこと捜しぬいてるところだつた。
 それから三日目にお袋が死んぢやつたさ。俺のお袋はいゝお袋だつたなあ。おやぢに始終ぶつたゝかれながら俺達をめんこがつてくれたさ。獣物けだものが自分のをめんこがるやうなもんだ。何んにもわからねえでめんこがつてゐたんだ。だから俺はこんなに馬鹿になつたども、俺はお袋だけは好きだつた。
 死水をやれつて皆んながいふべ。お袋の口をあけてコップの水をうつと流しこんでやつたら、ごゝゝと三度むせた。それだけよ。……それつきりさ」
 勃凸は他人事ひとごとのやうに笑つた。Iも私も思はず釣りこまれて笑つたが、すぐその笑ひは引つ込んでしまつた。
 気がついて見ると店の中は存外客少なになつてゐた。時計を見るといつの間にか十時近くなつてゐるので、私は家に帰ることを思つたが、勃凸はお互ひが別れ/\になるのをひどつ淋しがるやうに見えた。
 それでも勘定だけはしておかうと思つて、女中を呼んで払ひのために懐中物を出しにかゝつた時、勃凸も気がついたやうに蟆口がまぐちを取り出した。Iが金がないのにしやれたまねをするとからかつた。勃凸は耳もかさずに蟆口をひねり開けて、半紙の切れ端に包んだ小さなものを取り出した。
「これだ」
 と私達の目の前に出さうとするのを、Iがまた手で遮つて、
「おい/\御自慢のSの名刺か。もうやめてくれよ」
 といふのも構はず、それを開くと折り目のところに小さな歯のやうなものがころがつてゐた。
「何んだいそれは」
 今度は私が聞いて見た。
「これ……お袋の骨だあ」
 と勃凸は珍らしくもないものでも見せるやうにつまらなさうな顔をして紙包みを私達の眼の前にさし出した。
 私達はまた暫く黙つた。と、突然Iが袂の中のハンケチを取り出す間もおそしと眼がしらに持つて行つた。
 勃凸はやがてまたそれを蟆口の中にはふり込んだ。その時私は彼の顔にちらりと悒鬱いふうつな色が漲つたやうに思つた。おんつぁんが危険な色だといつたのはあれだなと思つた。
「俺は何んにもすることがないから何んでもするさ。糞つ、何んでもするぞ。見てれ。だどもおやぢの生きてる中は矢張駄目だ。俺はあいつを憎んでゐるども、あいつがゐる間は矢張駄目だ。……おんつぁんがゐねえばもう俺は滅茶苦茶さ。……馬鹿野郎……」
 勃凸は誰に又何に向けていふともなく、「馬鹿野郎」といふ言葉を、押しつぶしたやうな物凄い声で云つた。

牛太郎 遊女屋の客引き。妓夫ぎふ。妓夫太郎。
めんこがる 「めんこい」から、かわいらしい。小さい。
死水 死に水を取る。死に際の人の唇を水でしめしてやる。臨終まで介抱する。
ひどつ 「ひとつ」や「ひどく」を間違えて使った?
Sの名刺 本文で「おんつぁん」の言葉として「勃凸の奴、Sの名刺を貰つて来て、壁に張りつけておいて、朝晩礼拝をしてゐるんだからやりきれやしない」と書いてあります。これ以上の説明はなく、なぜ、どうしてそうするのか、わかりません。
悒鬱 ゆううつ。憂鬱。幽鬱。悒鬱。気持ちがふさいで、晴れないこと

骨|有島武郎④

文学と神楽坂

 このままこの小説は終わりになります。

 私達もそれに続いてその家を出た。神楽坂の往来はびしよ/\にぬかるんで夜風が寒かつた。而して人通りが途絶えてゐた。私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたゝきながら毘沙門の裏通りへと折れ曲つた。屋台鮨の暖簾に顔をつツこむと、会計役を承つた勃凸があとから支払ひをした。
 たうとう私達は盛り花のしてあるやうな家のをまたいだ。ビールの瓶と前後して三人ばかりの女がそこに現はれた。すぐそのあとで、山出し風な肥つた女中がはいつて来て、勃凸に何かさゝやいた。勃凸は、
「軽蔑するない。今夜は持つてるぞ。ほれ、これ見れ」
 といひながら皆の見てゐる前で蟆口がまぐちから五円札の何枚かを取り出して見せてゐたが、急に顔色をかへて、慌てゝ蟆口から根こそぎ中のものを取り出して、
「あれつ」
 といふと立ち上つた。
「何んだ」
 先程から全く固くなつてしまつてゐたIが、自分の出る幕が来たかのやうに真面目にかう尋ねた。
 勃凸は自分の身のまはりから、坐つてゐた座蒲団まで調べてゐたが、そのまゝ何んにも云はないで部屋を出て行つた。
「勃凸の馬鹿野郎、あいつはよくあんな変なまねをするんだ。まるで狐つきださ」
 と云つておんつぁんは左程怪訝けげんに思ふ風もなかつた。
「本当に剽軽へうきんな奴だなあ、あいつは又何か僕達をひつかけようとしてゐるんだらう」
 Iもさういつて笑ひながら合槌あひづちをうつた。
 やゝ暫くしてから勃凸は少し息をはずませながら帰つて来たが、思ひなしか元気が薄れてゐた。
「何か落したか」
 とおんつぁんが尋ねた。
 勃凸は鼠の眼のやうな眼と、愛嬌のある乱杭歯とで上べツ面のやうな微笑を漂はしながら、
「うん」
 と頭を強く縦にゆすつた。
「何を」
「こつを……」
「こつ?」
「骨さ。ほれ、お袋のよ」
 私達は顔を見合はせた。一座はしらけた。何んの訳かその場の仕儀の分らない女達の一人は、帯の間からお守りを出して、それを額のところに一寸あてゝ、毒をうけないおまじなひをしてゐた。
 勃凸はふとそれに眼をつけた。
「おい、それ俺にくれや」
「これ? これは上げられませんわ」
 とその女はいかにもしとやかに答へた。
「したら、名刺でいゝから」
 女はいはれるまゝに、小さな千社札のやうな木版刷りの、名刺を一枚食卓の上においた。
「どうぞよろしく」
 勃凸はそれを取り上げると蟆口の底の方に押し込んだ。而して急に元気づいたやうな声で、
「畜生! 駄目だ俺。おんつぁん、俺この方が似合ふべ、なあ」
 と呼びながら、蟆口を懐に抛りこんでその上を平手で軽くたゝいた。而して風呂場へと立つて行つた。
 おんつぁんの顔が歪んだと思ふと、大粒の涙が流れ出て来た。
 女達は不思議さうにおんつぁんを見守つてゐた。

毘沙門の裏通り おそらく『毘沙門横丁』でしょう。
盛り花 自由花とも。明治末期の自然主義時代に発生した。丈の低い口の広い花器に盛るようにして生ける生け方。
 敷居
山出し 田舎の出身。田舎から出てきたままで洗練されていない。
根こそぎ 草木を根ごと引き抜くこと。転じて、すべて取ること。
狐つき 狐付き。狐憑き。キツネツキ。狐の霊がとりついたという、精神の異常な状態。
剽軽 ひょうきん、気軽で滑稽。おどけること。
乱杭歯 らんぐいば。ひどくふぞろいに生えている歯。歯並びの特に悪い歯。
上べツ面 「上辺っ面」か? 表面。外見。見かけ。
仕儀 しぎ。事のなりゆき。事情。特に、思わしくないことについていう。
千社札 千社詣での人が寺社の柱、天井などにはりつける刷り札。「千社詣」は巡礼の一種で、1000の神社に参拝する。
この方 「がま口に入れるのは、骨はダメ。名刺のほうがよく似合う」と考えているのでしょう。
大粒の涙 「勃凸も母の子だ」と思い、様々な生活や人生の問題を思って、泣いたのでしょうか?

骨|有島武郎③

文学と神楽坂

 ところが、「おんつぁん」は1週間ほど経って、東京に戻ってきます。二人は一緒になって生活し、「勃凸」は運転手になるため、自動車学校に入ります。

 或る晩、勃凸が大森の方に下宿するから、送別のために出て来ないかといふ招きが来た。それはもう九時過ぎだつたけれども私は神楽坂の或る飲食店へと出かけて行つた。
「お待ちかねでした」といつて案内する女中に導かれて三階の一室にはいつて行つた時には、おんつぁんも、勃凸も、Iも最上の元気で食卓を囲んでゐた。
 勃凸は体中がはずみ上るやうな声を出して叫んだ。
「ほれえ、おんつぁん、凸勃が来たな。畜生! いゝなあ。おい、おんつぁん、騒げ、うつと騒げ、なあI、もつと騒げつたら」
「うむ、騒ぐ、騒ぐ」(中略)
「僕立派な運転手になつて見せるから……芸者が来ないでねえか。畜生」
 丁度その時二人の芸者がはいつて来た。さういふところに来る芸者だから、三味線もよく弾けないやうな人達だつたけれども、その中の一人は、まだ十八九にしか見えない小柄な女の癖に、あばずれきかん気の人らしかつた。
「私ハイカラに結つたら酔はないことにしてゐるんだけれども、お座敷が面白さうだから飲むわ。ついで頂戴」
 といひながら、そこにあつた椀の中のものを盃洗にあけると、もう一人の芸者に酌をさせて、一と息に半分がた飲み干した。
「馬鹿でねえかこいつ」
 もう眼の据つたおんつぁんがその女をたしなめるやうに見やりながら云つた。
田舎もんね、あちら」
「畜生! 田舎もんがどうした。こつちに来い」
 と勃凸が居丈ゐたけ高になつた。
「田舎もん結構よ」
 さういひながらその女は、私のそばから立ち上つて、勃凸とIとの間に割つてはいつた。
 座敷はまるで滅茶苦茶だつた。私はおんつぁんと何かいひながらも、勃凸とその芸者との会話に注意してゐた。
「お前どつち―――だ」
「卑しい稼業よ」
「芸者づらしやがつて威張いばるない」
「いつ私が威張つて。こんな土地で芸者してゐるからには、―――――――――――――上げるわよ」
「お前は女郎を馬鹿にしてるだべ」
「いつ私が……」
「見ろ、畜生!」
「畜生たあ何」
「俺は世の中で―――一番好きなんだ。いつでも女郎を一番馬鹿にするのはお前等ださ。……糞、見つたくも無え」
「何んてこちらは独り合点な……」
「いゝなあ、おい、おんつぁん、とろつとしてよ、とろつと淋しい顔してよ。いゝなあ―――――――――、俺まるつで本当の家に帰つたやうだあ。畜生こんな高慢ちきな奴。……」
「憎らしいねえ、まあお聞きなさいつたら。……学生さんでせう、こちら」
「お前なんか学生とふざけてゐれや丁度いゝべさ」
「よく/\根性まがりの意地悪だねえ……ごまかしたつて駄目よ。まあお聞きなさいよ。私これでも二十三よ。姉さんぶるわけぢやないけど、修業中だけはお謹みなさいね」
「馬鹿々々々々々々……ぶんなぐるぞ」
「なぐれると思ふならなぐつて頂戴、さ」
 勃凸は本当にその芸者の肩に手をかけてなぐりさうな気勢を示した。おんつぁんとIとが本気になつて止めた。その芸者も腹を立てたやうにつうつと立つてまた私のわきに来てしまつた。そしてこれ見よがしに私にへばりつき始めた。私はそれだけ勃凸の作戦の巧妙なのに感心した。巧妙な作戦といふよりも、あふれてゆく彼の性格のほとばしりであるのを知つた。(中略)
 勃凸は大童とでもいふやうな前はだけな取り乱した姿で、私の首玉にかじりつくと、何処といふきらひもなく私の顔を舐めまはした。芸者までが腹をかゝへて笑つた。
「今度はお前ことキスするんだ、なあ」
 勃凸はさつきの芸者の方に迫つて行つた。芸者はうまく勃凸の手をすりぬけて二人とも帰つて行つてしまつた。

凸勃 「勃凸」ではなく、「凸勃」は「私」のこと。
芸者 宴席で三味線、舞、笛、鼓、太鼓などの芸を披露する職業女性。
さういうところに来る芸者 明治大正時代、牛肉屋や蕎麦屋にまで出る芸者は三流四流の芸者でした。詳しくは西村酔夢氏の「夜の神楽坂」を。
女郎 遊女。遊郭で遊客と枕をともにした女。おいらん。娼妓。売春婦。
あばずれ 阿婆擦れ。悪く人ずれしていて、厚かましい女。古くは男にも使った。
きかん気 人に負けたり言いなりになるのを嫌う性質
ハイカラ 西洋風に結った髪。ハイカラ髪。反対は日本髪。
お座敷 芸者・芸人などが呼ばれる酒宴の席
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
一と息 ひと息。一気に。
田舎もん 田舎で育った人を侮蔑する表現
居丈け高 居丈高。威丈高。人を威圧するような態度をとる。
上げる 正確にはわかりません。「宴会1回分の玉代(遊興料)があがる」でしょうか?
独り合点 ひとりがてん。自分だけで、よくわかったつもりになること。ひとりのみこみ。ひとりがってん。
修業中だけはお謹みなさい 勉強中に芸者と遊ばないこと
前はだけ 着衣の合せ目が開く