日本の小説家、尾崎紅葉は結婚して明治24(1891)年3月から横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。別名、十千万堂です。十千万堂は彼の号の1つです。これから没する(明治36年10月30日)まで、12年半をこの家で過ごしました。有名な「金色夜叉」もここで書いています。門下生は泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉などが有名で、「葉門四天王」と呼ばれていました。
この場所は北から南に向かって入っていきます。
何もないので写真を付けておきます。左側、南側が行く方向です。
現在でも極めて寂しい場所です。その前に行くと、簡単な説明があります。平成28年、新しく説明文が変わっています。これは旧時代のもの。新しい説明文はここに。
では実際に住んでいた(今も住んでいるけれど)時にはこんな場所でした。
野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、昭和29年)では……
ここを舞台にいろいろなことが起こりました。
門人 泉鏡花・小栗風葉 談話
○泉鏡花曰 …モウ田舎に帰らうと思ひましたが、それにしても、せめてお顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして私は本望でございます。といひましたが、何だか胸がせまつてうつむいて了ひました。然うすると、まるで夢のやうです。お前も小説に見込まれたな、といつてお笑ひなすつて、具合が出来たら内においてやつてもよい…兎に角に世話はしやう、家に置くか、下宿屋に置くか、あした来な、それまでにきめて置くからと、おつしやツたのです。 明治36年11月「明星」
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明治文壇回顧録 昭和11年 後藤宙外
六、丁酉文社時代(中略) |
戦前は47番地に行くのには一直線に邸宅に入れたと思います。この47番地では一軒だけが建ったのか、数軒が建ったのか、わかりません。新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年に出ている鳥居秀敏著「横寺町と近代文芸」では「この地図(参謀本部発行の五千分の一地図)にある家は家主の鳥居家が慶応三年(1867年)にここへ移って来た時建っていた古い家で、紅葉の住んでいた家とは位置も形も違います。紅葉は明治24年(1891年)に横寺町へ来たのですから、明治20年前後に建てられた比較的新しい家だったのです」
戦後は数軒の邸宅がこの番地上に建っています。